2-5

 このまま帰るわけにはいかない! この梅雨時の空気も驚くほどジメジメした心のままでは、自室の湿度を数パーセント上昇させ寝苦しい夜を過ごすこと請け合いである。

 私は一度学校へ戻ることにした。吹奏楽部がまだせっせと片付けをしている時間だ、校門が施錠されていることはなかろう。

 そう簡単に置き去りにできない感情をどこかで脱ぎ捨て、薄汚いロッカーにでも放り込まねばやっていられないことは明白。それをどこに見出すかを考えたらば、それは学校ということになるのだろう。

 自転車置き場に愛車を任せ、灯りの少ない校内を歩き向かう先は無論、旧文芸部室である。

 部室内は伽藍堂であると思いきや、扉を開けて真っ先に目に飛び込んできたのは見慣れた少女の姿であった。

 春日雫。机にへばりつくように突っ伏す彼女は、大欠伸をしながら蚊でも見つけたかのように舌打ちをした。

 私の心に垂れ込める黒々とした雲が積乱雲であったなら、雷の如く瞬く間に振り下ろされた拳は春日雫の頭頂部に三度みたびたんこぶを作っていただろう。だが生憎、心に広がるのはもったりとした積層雲であって、故にさほど荒天にならずに済んでいるに過ぎない。端的に言えば、説教をくれてやる体力がないのだ。

 私は雫の斜向かいのパイプ椅子を陣取り、

「取材帰りの先輩を労いこそすれ、入室した途端に舌を打って怪訝な顔をするのは如何なものか」

「ウチにだって物思いに耽たい時はあるんすよ。一人でね」

「尾行はどうした尾行は」

「成功してたら今頃パーチーですよ」

「パーチーとはなんだ。ティーと言えティーと」

「あー面倒臭い先輩だなぁ」

 先輩に向かって面倒臭いとは何事か! と一喝する気力までもを自転車に捧げた私は、憤りを目力一つで訴えかけるが、こちらに一瞥もくれない雫には伝わるはずもない。

 よほど神渕桃子への尾行が上手く行かなかったのだろう。不貞腐れるにももう少し可愛げがあっても良いものだが、態度の悪さが雑である。私に対する嫌悪とはまた違ったもののように思えた。

「珍しいな。そのような春日雫はそうそう見られるものじゃない」

「腹立ってきたんすよ自分に。昨日ちゃんと写真撮っていればーって。今更悔しくなってきて、ああもう! って感じっす。今日の神渕桃子なんて部活やって即帰宅っすよ。優等生かってなもんでね。逢い引きは重ねてナンボでしょ! 毎日イチャコラしろってんですよ!」

「君如きが色恋を語るか」

「恋愛は経験じゃなく感性ですよ先輩」

「意味が分からん」分かりたいとも思わんが。

 雫はわざとらしい溜息を幾度も重ねて、傷心しているのか、単に慰めを寄越せとアピールしているだけなのか。ともあれ、今の私が雫に伝えられることは一つである。

「反省は大切だ。だが卑下してはいけない。人は失敗する生き物なのだ。くよくよして失った明日よりも、くよくよした後で立ち上がった明日をこそ私は愛するよ」

「はい?」

「諦めない方が良いということだ。……ああ、そうだとも。諦めるには、勿体ないのだ」

 私は自分に言い聞かせるようにそれを口にしていた。

「諦めて失うものは目の前のものだけに非ず。その先にある無限の可能性までも放棄することになる」

「なんすか急に」

「いや何、そうなることもあるという話しだ。僅かな挫折で、未来の希望までも諦めてはいけない。立ち直れなければ、人はどこまでも迷い始めるものだ」

「……風邪でも引きましたか? 救急車呼びますか」

「失敬な。物思いに耽たい時もあるのだ。私にもな」

 感傷に浸るためにここに来たわけではない。じめっとした心をどうにか放り投げてしまいたいと思っていただけだ。

 自分の想いというものに自分で気付くことは難しい。だが誰かに話すことで気付くこともある。

 私は迷っていたのだ。湯之島誠吾の周辺を取材していく段階で見えてきた彼の葛藤。本人から語られた想い。青春に色を灯すという使命を自らに課し奔走する私は、果たして彼の青春に僅かでも色を灯すことができるのだろうか。

 華やかな色をしていると思われた優等生、湯之島誠吾は、他に類を見ない灰色の青春の中でもがき、手に入れた薔薇色に苦しみ、これから謳歌すれば良い青春までも投げ捨てた。

 青春とは如何にして彩られるのか。週刊言責が一滴一滴落とす色彩は、果たして彼のような日常を彩ることはできるのか。私は、恐らく迷っていたのだ。

 だが気付いた。それに対する答えは至極単純! 雫に語ったことが全てである。それ以外何を思うことがあるか。

 目の前の青春を諦めてはいけないのだ。

 大いなる未来なんぞ夢見ていては、この限りある青春を彩ることなどできるものか。

 未来なんぞ今の延長線上である! 今を楽しまずして何が未来か!

 私の使命は、退屈な高校生活に色を灯すことなり!

「迷っている暇はないのだ!」

 湯之島誠吾の言葉に感じた得も言われぬ重みは、なるほど湯之島誠吾という人間はこうであるかと一人勝手に理解した気になり、それに基づいて無駄な暗雲を心に垂れ込めさせただけなのだ。無駄の極みである。湯之島から学ぶことはあれども、己が信念を阻むほどの邪念に支配されてはいけない。

 忘れるな! 私は週刊言責編集長、久瀬涼人であるぞ!

 決して湯之島誠吾のカウンセラーではない!

「粉骨砕身、我らは前に進むのみ!」

「だから何すか急に! 励ましてんすか? いいっすよ別に。端から諦める気なんて毛頭ないですから」

「ほう? そうであったか」ならば何故あんなにわざとらしい溜息を吐いていたのか。

「こんなことで落ち込んでちゃ面白いことなんて見つけられないっすから。乙女心って奴が分かってないっすよ先輩。ちょっとうじうじして、気付いたらスッキリしてるのが女ってもんなんですから」

「皆そうなのか?」

「ウチを世の中の女代表にしてくれるなら」

「そうか。ならば眉唾だな」

「ぶーぶー」

 なんと頼もしい豚さんだろう。積み重ねたあまりに愚かなミスに関してはその一切を許してやる気はないが、それでも再び立ち上がる彼女には全力の賛辞を送ろうではないか。

 道半ばで挫折する人間を咎めはしないし、それはそういう生き方だ、私にしてみればどうでも良い。だが、諦めずに済むなら、諦めない方が良いのだ。一つの諦めで、失うものが多すぎる。

「うじうじ悩む時間は終わった。また明日から、スッキリ爽快な私になるのだ」

「久瀬先輩がスッキリ爽快……?」

「疑うな後輩。先輩の爽やかさを疑うな」

 雫はずっと首を傾げていた。どこまでも先輩を愚弄する奴である。

 すると、どちらかのスマートフォンから軽快な音楽が鳴った。

「私か?」

「ウチっすね」

 同じ音楽というわけでもないのに迷わせるとは罪な奴である。

 電話と言うわけではなかったらしく、スマホを開いて文字を目で追う雫は、私がちらと見て分かるほど表情が明るくなっていった。何か良いことがあったのか、口角も少しずつ上がっていく。

「藤橋先輩からです!」

 満面の笑みで画面をこちらに見せてくる。

 あらあら何かしらと覗き見てみれば、私も思わず声を上げてしまうような、雫にとってはまさしく天啓とも言うべき文言が並んでいた。

『神渕さん、明日の部活は休むってマネージャーに伝えてるっぽいよ。何かあるかもね』

 決して私には付けないにっこりマークの絵文字も付けて、春日雫に助け船を出したのだ。

「さすがは藤橋まいか。隙のない仕事ぶりだ!」

「ホントっすね! 久瀬先輩とは大違いだ」

 失敬千万! だが、彼女の頭頂部にたんこぶを作るほどの体力は戻っていないので、静かに一言告げてこの場を去ろうと思う。

「まあ、そのようなことは本来君の仕事だがな」

 雫は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をし、

「言われてみれば確かに」

「まあ良い。我々は今日頑張ったのだ。今日頑張った分、明日も頑張ろう。互いに良い結果が出るよう、邁進しようではないか」

「当然っすね。ウチの復権の時来たれり!」

「うむ。その意気だ!」

 パイプ椅子に別れを告げ、私は電球一つ点いていない廊下に出る。その静けさに響くのは、ボツボツと、外からの雨音であった。予感は的中し、廊下まで届くのだからそれなりに降っているのだろう。すぐさま帰っておれば濡れることもなかったというのに、と後悔しても仕方がない。判断を過つとこういうことになる。時既に遅し。しかし、我々は帰ることができる。濡れるだけだ。死ぬわけではない。

 再び歩き出せば、目的の地へは辿り着ける。泥に塗れても、辿り着くことは出来るのだ。

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