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 スタミナも馬力もないというのに肉体を酷使し、必死になって浮かせた四百円は、飲めもしないブラックコーヒーとなって彼方へと去って行った。浮かせなければ赤字であったことを思えば、払った代償は決して無駄ではなかったということである。

 喫茶店を後にした私は、行く当てのない放浪息子のように駅周辺をふらついていた。

 あんなに疲弊していた肉体が見劣りするほど、等身大の湯之島誠吾の言葉は私の貧弱な心を削っていった。

 順風満帆な人生を送ることができる者などそうはいない。皆が何かを抱えて生きている。だがどうだろうか。たった十八年の、限りある青春の大半を擲った彼の優しさと純粋な欲望から来る苦悩は、私程度の人間が軽々しく慰められるほど生易しいものなのだろうか。

 私は週刊言責の記者である。兎角求めるものは秘匿であって、湯之島誠吾が高校生活を放棄する不良生徒になってしまった、事の顛末であった。そこに私の感情を乗せることなど不必要。従って、私は粛々と記事を書けば良いだけだ。湯之島誠吾の告白を、多くの生徒たちに響くよう、センセーショナルに。

 だが、私は他人の感情というものに実に簡単に流される人間味溢れた青少年であることから、どうにも痛んで仕方のない心臓の鼓動から目を背けることはできなかった。

 相槌一つ打たない私の存在は、彼の感情の行き場となれただろうか。

 どうにも俯きがちな帰路である。

 自転車を押しながら進む駅前の目抜き通りは、帰宅時間と重なったからかスーツ姿の人影をちらほら見ることができたが、昼間ともなれば、ここは悲しいくらいに閑散とした景色が広がっている。開いている店と、シャッターの閉まった店の数は、同数のように思えた。時間は流れ、人を置いていく。

 自転車を漕ぐ気力はないが、漕がねば帰ることはできない。仕方なくサドルに臀部を付けた。

 このどこか薄暗い駅前通りにいつまでもいるわけにはいかない。我々人間は、進まなければ進めないのだ。歩いて行くにも限界はあろう。文明の利器はエンジンを積んだ乗り物だけに非ず。我が自転車も先人が与え給うた知恵の結晶なり! ペダルを踏みしめて、如何にして感情を駅前通りに置き去りにするかを考え、私はスピードに乗った。

 首筋を舐めるように、冷たい風が吹いていた。今は梅雨である。程なくして雨が降るのだろう。急がねばと思う気持ちよりも、このひんやりとした涼しさに全身を曝して、オーバーヒートしかけた血肉を冷まして欲しいと願うばかりであった。

 だがどうにも上手くいかない。

「ああ駄目だ駄目だ!」私は大きく頭を振った。

 何故ここまで心が揺れるのか! 私と湯之島誠吾とは違う生き物である。歩んできた道も違えば、物事の捉え方も、見える世界も違う。なのに何故、彼の言葉にこうも胸が痛むのか。

 私にはやりたいことがある。湯之島誠吾とは違う。日々に目的とやり甲斐を得ているのだ。

 あまりに退屈な高校生活に、多くの者の灰色に、私は色を灯すべく奮闘する。

 この日々は実に濃厚である。満足感と達成感が毎週のように訪れ、年に一度の大会に向けて精進する各部活動のそれとは一線を画す充実感の中に生きているはずだ。

 何もせず、青春の終焉という名のシャッターが下りる日を、指を咥えて見ているのとは訳が違う。

 では何故。

 ――夢とか全部、捨てちゃったからな。

 ペダルを漕ぐ足を止めた。しかしタイヤは回り、自転車は前に進む。

 一つのことに気付かされた。久瀬涼人と湯之島誠吾は、ある一点に於いては共通したものがあった。

 今という時を生き、そして。

 その先の将来など、私はてんで、考えていなかったのだ。

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