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 赤ちゃんを抱っこしながらお茶会に勤しむご婦人方、ソフトクリームがこれでもかと乗せられた巨大デニッシュをシェアする女子高生、仲睦まじげな老夫婦。

 様々な客層に愛される喫茶チェーンであるが、夕食前の時間に何をのんびりしておるのか、とっとと家に帰り給え! と言いたくなるような者も散見される店内で、一番場違いなのは他でもなく、向かい合って相続について話し合う泥沼兄弟のように真剣な顔をした、男子高校生二人。即ち我々であろう。

 湯之島誠吾は足を組んでいた。本来の彼は、否、これまで多くの生徒が抱いていた彼のイメージは、このような粗暴な印象は一切与えない、誠実を絵に描いたような生徒だったはずである。

 湯之島はコーヒーカップに指を掛け、しかし口許に運ぶことはせず、実に静かな声音で語り始めた。

「もう知ってるんだろうけど、俺の家、金がなくてさ。ぼろアパートについこの前まで住んでて、でも、小学校のクラスメイトとか結構良い家住んでんじゃん。田舎だからさ、家のでかさ半端ないわけ。俺の周りさ、母子家庭の奴いなかったんだよ。だから自然と、俺は普通じゃないんだな、って思ったし、どうして普通じゃないんだ、とも思った。なんで父親いないんだ。なんで俺のところだけ、父親参観に母親が来るんだ、って」

 相槌を打つべきか悩んだ。あなたに共感していますよ、と安易に言うべきかどうかの問題であった。彼はそれを求めているようには思えず、何より、私はさして共感もしていない。共感出来るほど、私と彼の境遇は似ていないからである。

「憧れたんだ、普通の家ってやつに。小さくても一軒家に住んで、週に一回くらいはファミレスで飯食って、連休には旅行に出かけて、そんな周りの家には当たり前にあった普通に、憧れてたんだよ」

 女子高生がけたたましく笑った。湯之島誠吾の言葉に笑ったわけでは当然ない。だがタイミングの妙で、私はあの女子高生に少し憤りを覚えた。彼女らにしてみれば知ったことかである。だが私は、湯之島誠吾の話を笑って聞けるほど、感情を殺せる生き物でもなかった。喫茶店なのだから静かにせよ! と怒鳴り込める人間になりたいと、私は人生で初めて思った。

「昔さ、俺、母親に言ったんだよ。でかい家に住みたいって。そしたら母親、俺に謝ったんだよ。ごめんねって、言いやがったんだよ。そんなつもり、全然なかったのにさ」

 湯之島は軽く笑った。自嘲気味であるが、本来の感情を誤魔化したようにも思えた。

「それからかな。俺はどっかで、母親を楽させてやりたいとも思ったんだよ、多分だけどな。母親も広い家に住みたいって思いはあっただろうし、朝から晩まで働いて、家事やって、まあ家のことはかなりサボってたけど、そんな毎日だってキツかっただろうしさ。それで、中学までは野球やらせてもらったけど、高校に入ったらバイトできるようになるし、金さえ稼げりゃ自分で塾代払って、死ぬほど勉強して、良い大学行って、少しでも安定した職業に就ける可能性も上がるだろうし。そうすれば、普通ってやつに近づけるのかなって、思ってたんだよ」

 そのための努力は惜しまないつもりだった……湯之島は下手くそな作り笑いで、そう付け足した。

 私は彼から目を逸らさなかった。一挙手一投足を見逃すものか! と思う記者魂と共に、彼の叫びに胸を打たれる、一人の人間、久瀬涼人としての感情が、湯之島誠吾から目を逸らすことを許さなかった。

 坂内アンナの件と明らかに違うのは、私と彼とは同じ高校生というところである。

 年齢は一つしか違わず、彼の言葉はそう易々と共感は出来ないが、対岸から叫び声を上げているのではなく、すぐ隣で苦悩を耳打ちされているようなものだった。

 どこか身につまされる思いになるのは、私が肩入れしすぎなのだろうか。

「でもな、言責の。これが以外とさ、普通って、簡単に手に入るらしいんだ」

 わざとらしい笑みに悲哀がこもる。

「やりたいことはたくさんあった。野球も続けられるなら続けたかった。勉強なんてしたかなかったし、せっかくバイトで稼いだなら、その金で休みの日には友達と遊びたかった。女子に告白されたことあってさ、嬉しかったけど、でもそのとき俺の頭に浮かんだのは、彼女ができてデートとかして、そこで金使うと、家に金入れられないな、ってことだったんだよ。それで断った。後悔してる。普通に近付くって大変だよな。犠牲にすることが、山ほどあった。それなのに、だ」

 減っていかないコーヒーと、手も付けられない目の前のカップ。すっかり冷めて、今更口を付けたところで本来の味など楽しめまい。飲み頃というものがある。そのときにしか楽しめないことがある。青春が、そうであるように。

「これまで投げ出した高校生活丸ごと全部無意味だったかのようにさ、急に目の前に現れた知らない男が、欲しかった普通を、全部持ってきたんだよ。金も、家も、余裕も。そんでさ、その人、俺に言ったんだ。もうアルバイト頑張らなくて良いよって。優しいよな」

 湯之島誠吾は、声を僅かであるが、震わせた。

「でも俺さ、その言葉、めちゃくちゃ辛かった」

 もはや隠せなくなった感情は、声と表情と、時折見せる遠い目に現れた。

「存在意義みたいなやつ、否定された気がしたんだよ。これまでの俺の全部だったんだ。勉強も、バイトも、少しでもマシな生活するために、母親楽にするためにやってきた全部、もういいってさ」

 感情の高ぶりは明らかであったが、熱を帯びて尚声を荒らげることもない様に、彼の本質を見るような思いであった。

 潜めた声は、紛れもない、彼の優しさに起因するものなのだ。

 私は今日のために多くの人間に取材を敢行した。友人、アルバイト先の仲間、上司、中学時代の部活仲間。誰一人として、彼の悪口を言った者はいなかった。

 だからこそ、彼の本音の吐露が、嫌に胸に突き刺さったのだ。

「全部投げようって思ったんだ。頑張る理由が見つからなかったんだよ。頑張って手に入れたかった『普通』は、もう全部手元にあるから」

 冷めたコーヒーを、湯之島誠吾は一気に飲み干した。荒々しく口許を拭い、背もたれに身体を預け、天井を見上げる。

 彼の瞳はどこを見るでもなく、虚空に漂う感情が塵になっていく様に思いを馳せるように、小さく呟いた。

「頑張る理由がないんだ。夢とか全部、捨てちゃったからな」


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