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ショッピングモールから歩くこと三分。全国展開された喫茶チェーンに入ることとなった私は、ソファのような座席に座り、湯之島がそうするならと飲めもしないブラックコーヒーを注文した。香りは良いが後悔の念は絶えない。何せ飲めないのだ。如何にしてカップに指を掛けることなく全てを終えるかということに頭を回していた。
湯之島は砂糖を一つ落としたコーヒーをずずと啜る。
カップがソーサーの上に置かれる音は、私の耳には少々、優しくなかったように思う。
「話したくないんだよ、家のことも、俺のことも」
嘘である。私はそう直感した。
一人抱えることほど辛いことはないのだ。とある女性教師がそうであったように。
「話したらいかがでしょう。良いですよ、苦心の吐露は。解決はしないが軽くなる」
「話して軽くなって、それでどうなる」
「どうにもなりません。が、校内の誰かが面白おかしくあなたの話を読むでしょう。それはそれは愉快なものですよ。私は別段、あなたを救いたいと思っているわけではないのです。ただ、あなたの話を週刊言責に載せることが叶ったならば、あなたに共感し救われる者も必ず現れる。湯之島誠吾は堕ちたと笑う者もいるでしょうがそんな奴らは放っておけば良い。ただ、あなたのその苦悩が生徒諸君らの希望になることもあると思えば、一人で抱え込んでいるよりは随分と建設的ではないですか」
湯之島は表情を崩さない。余裕ぶっているのだ。彼は動揺を隠すことが出来る。根が冷静なのだ。だがここで表情筋をぴくりともさせないのは、余裕がないからに他ならない。
「あなたは、湯之島という姓にこだわりがあったのですか」
「違う。そういうんじゃない」
「では、何故名字を変えなかったのです」
「……分からん。変えたくないと思ったんじゃないかな」
おそらく、こういった形の質問に彼は答えてくれるだろう。核心を突いていないからだ。
私はボイスレコーダーを出し、
「一応、録音させて貰いますが」
「なんだ、とっくにしているものかと」
「していますとも。しかし断りは必要でしょうし」
「律儀なんだか図々しいのか」
「人間はどちらも併せ持つものですよ先輩殿」
私はコーヒーの苦さがすこぶる嫌いである。しかし存外緑茶の苦みは好きなのだ。おかしなことはない。同じものではないからだ。
私は時に聖者の顔をして実に悪辣なことをする。それが必要とあらば、目の前の人間の心に幾らか矢を放つことを躊躇いはしない。矛盾はしないのだ。どちらも私なのだから。
「では、先輩」少々、声音を落とした。「お母様の再婚は、あなたをこのようなサボり魔に変質させる原因となり得ましたか」
はてさてこれには答えてくれるだろうか。
「……さあな」
否定をしなかった。すなわち肯定である。
湯之島誠吾。彼は、自分を隠すのが得意であった。そういう環境に育ってきたからだろう。しかし藤橋まいかには遠く及ばない。彼女は仮面で己を隠す。湯之島誠吾は、その表情を片手で覆っている程度なのだ。隙間から、本心は垣間見える。
「私は、今から独り言をしようと思っております。もしもその独り言に何か疑問を抱いたらば即座に割って入っていただきたい。間違いがあってはいけませんから」
話さないなら私が話す。簡単なことだ。
「湯之島誠吾、七月二十五日生まれ、ご両親は幼少期に離婚。実父の姓は池田」
「おいおい、そこまで調べたのかよ」
無論である。
「アパートに母と子の二人暮らし。家賃は四万二千円。中学までは野球部でエースナンバーを背負っておりましたが、高校入学を期に野球をやめ、勉学とアルバイトに勤しむ毎日に。ここまで間違いは?」
湯之島誠吾は答えなかった。核心に一歩ずつ近付いているからであろうと推察する。
「周囲から、先輩は実に真面目な生徒だと評判でありました。それは先輩殿の勉学への姿勢と、友人からの誘いは全て断りアルバイトに勤しむ姿あってこそであります。が、あなたはいつの間にか変質した。少し前のことです。あなたはアルバイトを辞め、塾を辞め、高校生としての正しいあり方を辞めた。それは、先輩殿のお母様が、再婚されたタイミングと合致しておりますね」
返答は求めない。無理矢理に固めたような彼の表情は実に雄弁である。
「再婚相手は
「……ああ。そうだな」
「これまでのあなたの生活とは正反対です。お母様は仕事をお辞めになった。生活は随分と楽になったことでしょう。ですから、アルバイトをお辞めになるのは理解ができます。しかし、何故、未来への投資足る勉学までも放棄なさったのかが分からない」
分からない、ということは、実を言えばなかった。彼の苦悩は、取材の過程で、どこか想像が付いたからだ。
しかしそれは、私という狭い世界に生きる私からの見方であって、彼自身の捉え方がどうであるか、どう考え、何故にこのようなことになったのか。それは彼自身の言葉でなくては意味がない。
憶測で物を書くべきではない。彼の、湯之島誠吾の、言葉が欲しいのだ。
「俺はな、普通になりたかったんだよ」
湯気の少なくなったコーヒーに目線を落としながら、湯之島誠吾は感情たっぷりに、無感情な声を発した。
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