5-4
坂内アンナは、数日前とは見違えるほどの晴れやかさで部屋を後にした。階段を下り、また上り、すぐ向かいの愛の巣に帰って行った。ところで今日は吹奏楽部の活動はどうしたのかと思ったが、野暮なことは言うまい。吹奏楽部の顧問は他にもいる。こんな日があっても良かろう。
さて。
すっかり忘れていたが、この六畳間は単なる六畳間ではない。
襖を開ければ、すぐそこに四畳半の部屋がある。そこには、同志でありながら時として敵対することもある女生徒が、鼻息荒くこちらに殺気を放っていた。
「忘れてんじゃねえよ」と静かに響く雫の声。
「先輩に向かってなんだその口の利き方は!」
「久瀬くん、今回ばかりは雫ちゃんと同意見だよ」
「君はいつもそうじゃないか」
「以下、同文」
「か、華奈……! 君まで」
春日雫は壁に掛けられた時計を指差した。
「時間見ろよ。何時間喋ってんだよ」
「た、たかだか二時間ではないか」
「あのさぁ、先生にばれちゃいけないと思ってずっと黙ってたウチらのことをすっかり忘れてさぁ、なぁに楽しく談笑しちゃってんの? ねえ。なにあの後半の話題。購買のカレーのクオリティが最近良くなったとか、コーラ飲んだら骨が融けるとかガセにもほどがあるとかクソどうでもいいんだけど」
「クソとは何だ。そんな汚い言葉を女の子が使うんじゃありません!」
「久瀬くん。今日はもう黙ろう」
「しかし藤橋」
「黙ろう。ね?」
「……はい」私は犬のように黙った。
副編集長こと藤橋まいかが恐ろしくてたまらない私は、この後二時間正座をさせられた。
挙げ句、皆で食べようと下校時にコンビニで買って来た弁当を全て目の前で食べられるという苦行を強いられた。私の台湾まぜそばは、雫の腹の中で私に食されなかったことを嘆いているように思えた。
だが、この部は悪魔ばかりが集った地獄ではない。
二人の目を盗み、華奈だけは、彼女の大好物であるはずのからあげをなんと二つも、私の口に運んでくれた。有り体に言えば、「あーん」である。実に美味い。
私はひそひそ声で「済まぬ」と言うと、華奈はその瞳を私に向けながら言うのだ。
「感謝の印」と。
なんだか感謝されることが多い放課後であった。
私は当たり前のことを当たり前にしただけであるから、感謝の必要などどこを取ったとてありはしない。
それでも、人間は感謝の一言には弱い生き物であることを知る私は、馬鹿正直に喜びを浮かべてしまう。
「何笑ってんですか先輩。……って、あ! 藤橋先輩、華奈っちが先輩にからあげ貢いだ!」
「あら、不文律を破ったんだね華奈ちゃん」
「違う。先輩が勝手に食べた」
「な、なぬ! 華奈、それはあまりにもあんまりじゃないか」
「うわー、後輩の食べ物盗るとか最低なんですけど」
濡れ衣だ! 濡れ衣だ!
「あーあ、大人しくしてたら食後のデザートくらいはあげたのに、残念だったね久瀬くん。シュークリームはお手柄だった華奈ちゃんの物ってことにしておくから」
「止めろ! 私のご褒美を! 私の楽しみをおおおおおおお!」
私の叫びは室内に虚しく響く。
「シュークリイイイイイイイイイイイイイイイム!」
向けられた華奈のピースサインが、私にはいたく嬉しそうに見えたのだが、不服以外の何物でもない以上嫌味にしか思えないのは、私が悪いのだろうか。私が捻くれているのだろうか。
「いいや断じて違う! 私は悪くないいいいい!」
「先輩うるさい! 坂内アンナと謎の密会って記事書くよ!」
「悪魔しかおらんのかこの部はああああああああああああ!」
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