5-3

 夕刻、坂内アンナが私の元へやって来た。

 ここは文芸部部室ではない。私の存在なんぞは既に隠してもいないからいいのだが、日々屯することになる編集部員三名の正体を皆に明かす訳にもいかない為、我々が集う場所は変動し、今日はとあるアパートの一室だった。そこに、坂内アンナはやってきたのだ。

「隠れよ! 隠れよ!」と私は叫んだのだが、所詮は小さなアパートの一室。隠れる場所などなく、開けっぴろげの襖を閉めることで、雫も藤橋も華奈も四畳半に閉じ込めた。物音一つで全てが露顕する恐怖との戦いであった。

「っていうか、ここに住んでるの?」坂内アンナはフローリングに座るやいなやそう口にした。「まさかとは思うけど、まだ盗撮しているなんてことはないよね?」

「何を仰いますか。取材の必要もないのにカメラを構えるほど不躾ではありませんぞ」

「そっか」坂内アンナは微笑んだ。

 我々には坂内アンナの私生活を撮る為に借りた部屋がある。使用したのは一日二日程度だが、契約自体は藤橋姉によってされている為そそくさと退去しては勿体ない。ならば校外に於ける溜まり場という機能を付与し使用するのはどうか、との提案が本日成され、先程決定されたところなのだ。

「私一人の為にアパート借りちゃうなんて、そんなことまでしたんだ」

「ええ。もちろんです」

「どうして?」

 そう訊かれると、好奇心が勝って、という返答しか出来ないのだが。今回に限っては他にも理由は並べられる。

「実はアンナ先生の件、私の後輩の、記者として最初のスクープだったのです」

 それは、谷汲華奈のことであった。

「元々は我々のアシストに徹していたのですが、ようやくその者にもチャンスが巡って来た。それが今回なのです。誰にとっても初めてというものは特別でしょう。編集部としては、決して退くまいとの思いでありまして」

「やり過ぎだよ」

「いやいや。後輩の頑張りに答えるのは先輩の役目。一切やり過ぎとは思いません。とはいえ、先生には理解不能でしょう。しかしそれが私であり、週刊言責なのです。所詮は一新人教師のヘマですが、そこに本気になることで記事は生まれ、それが僅かばかりの刺激となって学校生活に彩りを与えるのです。妥協するよりはずっと良いものと考えております」

「じゃあ、あの教室での私へのお説教は、その実、後輩ちゃんの為だったってわけだ」

「素直な私はここで、はいと答えますよ。私は良き生徒である前に、良き先輩でありたいのです」

「そういう所、嫌いじゃないよ」

「褒め言葉と受け取っておきます」

 坂内アンナは、天界一の美女もかくやと思われる美貌を、この狭苦しい六畳間で惜しむことなく見せつける。私の男の子としての本能は現役バリバリであって、襖の向こうのドングリ共さえいなければ熊にも狼にもなる所存である。

「ありがとうね、久瀬くん」坂内アンナの声はこれまでになく穏やかであった。

「感謝されることなど何一つありませんよ」

 坂内アンナは首を振る。

「昨日貰った週刊言責、読んだよ。読むまでは、正直不安だらけだったけど。でも、絵理沙も喜んでくれた。なんか、良い風に書いてあったし」

「そうでございますか。そのような意図はこれっぽっちもありはしませんでしたがね」

「職員室行ったら、かなり怒られた。知ってた? 先生たちも言責読んでるの。私たちが知らないこととか書いてあるからね。まあ、けしからん! って言ってる人の方が多いけど」

「存じております」

「おかげですぐにばれちゃったんだよ。先輩からは叱られるし、楠田先生には『授業を放り出すなんて、お前が俺の生徒だったらチョークを投げてやる』って言われた。たぶん、それはジョークだと思うけど」

 伏し目がちに話す坂内アンナのまた美しいこと。今顔を上げられては、ニヤついている私の情けない顔面を直視されてしまうことになるので、どうかこのまま俯いていて貰いたいものである。

「男子生徒からは、ちょっと冷やかされちゃったかも」

「まあ、それは仕方ないでしょう。思春期とはそういうものです」

「でも、女の子からは今までにないくらい話しかけられた。女同士ってどうなの? みたいなこと、たくさん訊かれた」

「嫌でしたかな?」

「ううん。それがね、皆、凄く優しくて。応援してるよ、って、いっぱい言ってくれたの」

 坂内アンナの声が揺れ出した。

「素敵だって。いいねって。授業で色んな教室に行く度に。皆、ただ気を使ってくれただけなのかもしれないけど、そうやって言ってくれて、凄く、凄く、嬉しかったの。涙堪えるの、大変だったなぁ」

 その涙は、今この時に溢れだした。ひと筋、ふた筋。頬を伝うそれはとても美しく、彼女がこれまでに抱えて来た重たいものを、静かに洗い流しているようにも思えた。

「ごめんね。ずっと我慢してたんだけど……」

「良いのです。ここには、私しかいませんので」

 坂内アンナは、聞いている私が飽くほどに「ありがとう」を繰り返した。私のような者に感謝など必要ないと言うのに、何度もその言葉を言い続けた。私は正義感で動く人間ではない。だから、私の心にその言葉は響かない。

 そのはずなのだが、酷く人間的である私は、その表情に浮かび上がる喜びを隠すことが出来なかった。

「きっと今頃、あなたを好いていた男子諸君は嘆いているでしょうね」

 坂内アンナは鼻をすすり、赤い目を笑顔で誤魔化す。

「そうかなあ」

「そうですとも。皆、アンナ先生のことが、好きですから」

 坂内アンナから自然な笑みがこぼれる。

「じゃあもしかして、久瀬くんも?」

 何を仰る。私は胸を張った。

「もちろんです。むしろ私ほどあなたに惹かれていた男はいないと言えるくらいですよ」

「ふふ、そっか。でも駄目だよ。私ね、昔から、女の子が好きなの」

「存じております。とても素敵な恋を、しておいでのようですから」

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