4-6

「話を最初に戻しましょう。この取材のきっかけは、あくまでも保健室での職務怠慢ですから」

「でもそれは――」私は坂内アンナの発言を手で制した。

「我々の同志に、まあまあ英語もこなせる奴がいましてね」

 私はズボンのポケットから紙を取り出した。A4のコピー紙を四つ折りにしたものだ。

「ここにはあの時、保健室でアンナ先生が口にした言葉が訳されて書かれています。恥ずかしいと思う気持ちは承知していますが、ここは私の記者魂にかけて、情感たっぷりに読ませていただきます」

「止めて欲しいなあ」

「勘弁はしませんよ」


『頭が痛いの? お薬は飲んだ? あ、切らしているんだっけ。分かった。帰りに買って行く。

 お昼ご飯は一応置いてあるけど、噛むのが辛いなら、夜にプリンとかヨーグルト買って帰るよ。家事? 大丈夫、私がやるから。あなたが出来ないこと、今日は私が全部やる。だから安心していいよ。

 どうしたの。今日はやけに甘えてくるわね。猫撫で声よ。可愛いから、たまには風邪で寝込むのもいいかもしれないね。ごめん。冗談。

 じゃあ、ちゃんと寝室で安静にしておくこと。あと、今日一日くらい、甘えてくれてもいいんだからね。だから、少しでも早く、元気になってね。おやすみなさい』


 保健室で繰り広げられたのは電話越しの会話であり、我々は相手の反応を窺い知ることが出来ない。それは残念である。メールであれば、相手のレスポンスも含めて記事に出来たと言うのに。

 しかし、情緒、というおぼろげなものを感じるのに、これ以上のものは必要ないように思えるのは、翻訳の妙だろうか。

「これが私の手元に来たのは、今日の昼です。もう少し早ければ、それまでの取材ももっと深く突っ込めたものを、と多少の不満もありますよ。まあしかし、こういった協力者がいる我々は本当に幸せ者だと思います。ところで、このような内容で合っておりますかな?」

「ええ。翻訳者はたいしたものだと思う。もしかして英語教諭だったりする?」

「申し訳ないが、相手のこともあるのでお教え出来ない」

「久瀬くんは他人の秘密を暴くのに?」

「ええ、そういう役割ですから。もし知りたければ、是非とも取材してください。きっと、見つけられませんよ」

 私は、最初にこの机の上に置いた写真を雑多な中から探しだし、坂内アンナにもう一度見るようにと促した。保健室にて、恋人、瀬川絵理沙と通話するその姿を。

「私には分からないのです。この瞬間、あなたは職務を放棄し、教師として最も大切にすべき授業をないがしろにしている。だが同居人が、恋人が床に伏せているというなら、それを先輩教師にでも生徒にでも説明し、授業を一時的にでも離れてしまうかも知れないと事前に話しておけば、後ろ暗い思いをせずに済んだでしょうに。それをしていなかったから、アンナ先生は保健室に身を隠し、そして、我々に狙われた」

 坂内アンナは、すっかり汗も引いた涼しげで美しい顔を左右に振った。

「違うのよ。久瀬くん。私ね、先生なの。新人で、立場なんてものもない、無力な教師なの。そんな私が、同棲している彼女が床に伏せていて、電話が掛かってきたらその都度授業の中断をさせてくれ、なんて、言える訳ないじゃない。ましてや女同士なの。万が一にもバレたら、って思うと、恋人の存在さえ臭わせたくないのよ」

 私は、とぼけた顔でその言葉を噛み砕いてみた。

「つまり、先生はこう仰る訳ですな。私は恋人の存在を恥じているからバレたくないと」

 私の言葉にむっとしたのか、坂内アンナの眉間には見たことのないほどの力が入っているように見えた。

 私は、週刊言責の記者として時に阿漕な真似をする。本心に背くことも厭わない。今回は心を鬼にする必要性に駆られたに過ぎない。

「だってそうでしょう。確かに、偉そうに講釈を垂れる私ですが、正直なところ、戸惑いの一つも感じないと言えば嘘になります。何せこれまで、接したことがないもので。だからこそ、当の本人には、胸を張っていてもらいたいのです。『私も君らと何ら変わりない一人の人間であるから、皆は構わず日々を謳歌してくれ給え』とでも叫んでくれた方が、我々にしても楽なように思いますが」

「そういうことが出来ないから隠しているんじゃない。そういうことが出来ないって分かっているからどうにも出来ないんじゃない。自習させてしまった皆には申し訳ないと思ってる。でも、私はこれを皆に明かす訳にはいかない。絶対に」

「先程も言いました。恥じることはないと。だって、坂内アンナと瀬川絵理沙は、こんなにも美しい恋愛をしているのだから。風邪を引いた相手に代わって懸命に家事をし、病に苦しみながらも恋人を心配する優しさがあり、そんな二人のどこに恥じることがあると言うのですか」

 坂内アンナは立ち上がった。

「それでも、私には隠すことしか出来ない!」

「だからこそ、週刊言責がそれを書こうじゃないかと言っておるのです!」

 静かな校舎内に私の声が響いた。あの喧しいサックスよりも、いくばくか耳障りな声であったことだろう。

 私こと久瀬涼人は、週刊言責の記者である。

 真実を暴くものであり、あらゆることを白日の下に晒し出すものでもある。

 ありとあらゆるものを分け隔てなく公にする生き物。それが記者なのだ。これが男女の恋なら何も言われまい。では何故同性であるだけでここまでナーバスになるのか。私には分からない。特別視するなと世間は言うが、特別に扱わねばいけないなど意味が分からぬ。当人ではないからこそ、私は叫ぶ。

「私は不正や、それに類するものは例え教師のものであっても曝します。あなたが無断で授業を自習にし、生徒の学びの場を奪ったことを記事にします。そして同時に、あなたが保健室で繰り広げた会話も一切隠さずに報じます。そうなれば、私はあなたの恋人に関しても書くことになるでしょう。本名は伏せますし、それをセンセーショナルに描くかどうかはともかく、さも当然のことのように、坂内アンナの恋人Sのことを」

「そんな……ダメ……」坂内アンナは涙声だ。

「何故です」

「だって、普通じゃないもの」

「普通じゃ、ない?」

 喉に何かが引っ掛かったような気がした。

「そう。普通じゃない。女同士で付き合うなんて普通じゃないに決まってる。そんなの皆に受け入れられる訳がない。教師になったばかりなの。ようやくなれたの。絵理沙と二人、ずっと勉強を頑張って、やっとなの! やっと……ここまで来たの」

「何を恐れることがあるのですか」冷徹に努め、言い放った。

「それは、まだ私みたいな人間を、この世界は受け入れてくれないから」

「だからなんですか」

「居場所がなくなってしまう」

「何故」

「嫌われちゃうじゃない。生徒の皆にも先生にも」

「嫌われることが何だと言うのですか」

「先生が嫌われちゃったら何も出来ない」

「そんなこと何一つ心配する必要はないのです」

「どうして言いきれるの」

「あなたを差別する者がいたならば、我々週刊言責が、この私が見つけ出して糾弾します。紙面で報じる以上、私は最後まで文責を以てあなたを守ることを誓う。必ずだ。それが週刊言責であり、私は、取材対象に誓った言葉に責任を持つ。まさしく、週刊言責が言責足る理由は、そこにあるのだと宣言しておきます」

 週刊言責。これは、私から取材対象へのメッセージだ。

「でも……」

「信じてくださいませんか。アンナ先生」

 決して、私は坂内アンナの味方ではない。だが、敵でもないのだ。

「真実はいかなるものであっても記事にします。偽り陥れるのではなく真実なのです。他の誰でもないあなたの真実。故に我々は退きません。……そもそも、隠さなければならない世の中の方こそ狂っているのです。男と女の色恋ならば不貞であってもエンターテイメントにしてしまう世の中ですから、であるなら、私はそこに差など設けません。何事もフェアに扱います故」

 私は席を立ち、椅子を直し、頭を下げる。

「週刊言責編集長、久瀬涼人。他でもない、この私を、信じてくださいませんか。決して悪く扱うことはしませんので。しかし我々とて人間ですから。あなたが心からやめてくれと言うのなら、少なくとも恋人の件を言責で取り扱うことは致しません。無論、別件は存分に批判させてもらいますが」

 机の上の録音機材二つを手に、私は部屋を後にする。

「是非とも、我々を利用するような狡猾さで相対してください。秘匿は不信を招くという前提で、我々の記事があなたの心を軽くするならそれで良し、程度でいいのです。良い機会に恵まれた、ともし思うことができたなら、その瞬間から、我々はとても心強い存在になると思いますよ」

 坂内アンナは、机の上に置かれたままの写真から目を離さないままだ。

「我々に委ねてくださるのであれば、聞きたいことはまだまだありますので、ご協力なんぞ頂けたら幸いです。馴れ初めなんてものを聞けたら読者諸君も喜ぶと思いますよ。あなたはあなたが思っている以上に、慕われておりますので。ではお返事お待ちしております。ああ、締め切りが近いので、できれば、お早めに」


 私は教室を出、文芸部の部室へと戻った。

 冷めやらぬ興奮から、私はそこにいた春日雫の手にあった飲み物を奪い、一気に飲み干した。

 雫の悲鳴には取り合わず、微炭酸に酔い、下品と知りながら、私は堂々おくびを出した。

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