3-1
我々は、「待ちくたびれた」と漏らした華奈と共に、坂内アンナの尾行を始めた。時刻は既に二十時である。この程良き田舎町にあっては、教員は皆自家用車での通勤であり、坂内アンナも例外ではない。ようやく雨の止んだ宵の口。草いきれの中、自ら足を回したとて文明の利器に追いつけるはずもなし。ならばどう尾行するか。答えは校門前にある。
「伝家の宝刀! 伝家の宝刀!」興奮のあまり私は奇声を上げた。
それは、藤橋まいかの姉、藤橋みなみの車であった。藤橋姉は、週刊言責編集部にとって貴重な外部の協力者である。時に人脈、時に移動手段。感謝を重ねてもし尽くせぬ。
「お姉さん、ご協力感謝します」
「良いってことよ。恩返し恩返し」
男前でありながらどこかふんわりした雰囲気。魅力的な女性である。「ありがたや、ありがたや」などと言っていると、妹の方に急かされたのでそそくさと車に乗り込んだ。
「では、あの赤い軽を追っていただきたい」
「あいよー」と軽く返事をし、藤橋姉は銀色の軽自動車を滑らせた。
車で五分と掛からぬそこは薬局であった。しかし食料品、日用品にも困らず、薬局と呼ぶには品揃えが過ぎたそこは、もはやスーパーマーケットと変わらない。
「晩御飯の調達か、晩酌のお供探しかな」と藤橋姉は想像したらしいが、「ベッドルーム」「トゥナイト」を聞いている私は、やはり桃色世界に必要な物の調達であろうと勘ぐる。
「エチケットですよお姉さん。大人のエチケット」
「意味が分からない」そうでしょうとも!
この言葉に反応を示して頬を染めた藤橋妹と華奈も、なんだかんだで桃色世界を想起してるようだ。男も女もない。等しく思春期真っ盛り。青春とは桃色に想いを馳せるものなり。
坂内アンナが車から降りるのを待って、我々は藤橋姉の車を飛び出した。
坂内アンナは自動ドアをくぐり、その美貌を振りまきながら店内を闊歩する。
主婦、壮年サラリーマン、学生と思しき女性、年齢性別問わず皆の視線を釘付けにしてしまうのだから坂内アンナの美しさは本物だ。一教師にしておくのはもったいないほどである。雫の嫉妬はつまりこういうことであったか。
坂内アンナは食料品売り場に直行した。プリンとヨーグルトを手に取ると、それを重ねて別のコーナーへ歩き出した。にしても仕事帰りにプリンを買う女教師。うーむ。乙である。
こそこそと後を付けながら、我々は坂内アンナの動向を注視した。
「前から、撮りたい」と華奈が言うので、華奈だけは売り場の隙間を抜け、先回りをする。
さすがに一眼レフは目立ってかなわんと車内に置いて来させたが、首から掛けられたデジカメもまた店内では異質。華奈の天性の影の薄さあってのことである。
「先生はカゴを持っておらんな。食料品を買うならば必要だと思うのだが」
「手で足りるってことだよ? それくらい分かろうね」姉がいなくなった途端にこの毒々しさ。さすがだ!
しかし大人というものは仕事帰りに酒を呷るか買って帰るものだと思っていたが、さすがは氷肌玉骨、妍姿艶質を地で行く坂内アンナ。既存のイメージなぞ無意味であることが証明された瞬間である。
坂内アンナは、いつの間にやら薬売り場で立ち止まっていた。
「風邪薬、だね」
「そのようだな」物陰に隠れながらこそこそ話。怪しい、実に怪しい。
だが、バレぬためには仕方ない。私はネルシャツにジーパン姿であるから地味で目立たぬことだろうし、藤橋の白いシャツに短パンに黒タイツも、普段の彼女からは想像も出来ない。隠密、是尾行の鉄則なり。店員にはそろそろ声を掛けられそうな雰囲気であるが。
「あ、レジに向かったよ」
「なに! では華奈に戻るよう連絡を」と私が言うと。
「もういる」
「うおっ! 華奈か。背後に立つんじゃないよ!」
「ごめんなさい」しょんぼりしながら言ったので許すこととする。
「写真は撮れたのかい」
「割と」
「それは何より」
自己採点の厳しさに定評のある華奈のことだから、坂内アンナの素をフレームに収めることに成功したと受け取って良いだろう。
しかし買ったのがプリンとヨーグルトと風邪薬だけとは。尾行までしてこれか。私は肩を落とした。まさか、保健室には本当に体調を崩して行っていただけという可能性もあるのでは。
「決めつけるのは早いと思うよ久瀬くん」
「だと良いのだが……ん?」私は心境を一切吐露していないぞ、何故分かった藤橋よ。恐ろしや副編集長。私の隣でどこか笑んでいた彼女の腹の内や、如何に。
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