2-2

 私は二年六組を飛び出した。

 あちこちから楽器の音色が喧嘩するかのように飛び交っていた。廊下や各教室で行われているパート練習というやつだ。トランペットが少々やかましいか。いや、チューバの低音が腹の底を殴りつけてくる。サックス辺りの響きが妙に主張するのもまた気持ちが悪い。個々が好き好きに吹けばこうも秩序を乱すのか。そう思いながら、私は秋の文化祭での吹奏楽部のステージと、地元の市民会館で行われる定期演奏会を観に行くことを誓った。こんな混沌で耳を汚されたままでは納得いかぬ。

 顔を歪めながら音楽室の扉を横に滑らせた途端、棒状に伸ばしたような調子の「シ♭」が耳に入ってきた。フルートの音色だった。何故私が「シ♭」を知っているか? 「シ♭」を吹けと指示されてから吹いているのを聞いているからである!

「失礼します」と私が言うと、真っ先に反応したのは、クラスメイトの曽根であった。

 声を出せる状況ではないようなので、ピクリと頬を動かしただけに過ぎないが、フルートのチューニングに付き合う副顧問はそれを見逃さず、次に私の方を向いた。

「あら、久瀬くん。どうしたの?」

 素敵な笑顔だった。坂内アンナは、映像にあった女らしさとはまた別の、身近な爽やかエロスで以て淡い桃色世界を漂わせる。思わず眩んでしまいそうな甘い香りだった。

「実は言伝を預かっておりまして。校長だったか教頭だったかから、坂内先生に自分の所へ来いと伝えておけ、というものらしく。幾人もの主観を織り交ぜ実体を掴めなくなった伝言ゲームの最後を仰せつかった私めが、坂内先生に直接お伝えに参上仕りました」

「そっか。ありがと。じゃあ皆、しっかりチューニングして、練習を始めてください」

 フルートの面々に坂内アンナはそう告げて、こちらを向きなおしたと思った時、急に「ふふふ」と笑った。可愛らしくも艶めかしい。

「ねえ、久瀬くん」

「は。なんでありましょうか」

「アンナ先生って呼んでいいよ、って言ってるでしょ?」そう言いながら顔を近づけて来た。囁くような声だった。

「は! そうでありました」思わず敬礼。

 こういう所である。この、男子諸君が一瞬に恋の穴凹へ叩き落とされる距離の近さと親しみやすさと圧倒的フェロモン。ああなんて愚かな感情か。取材対象にときめくなど、記者としては唾棄すべき恥。男の子の本能が一々反応してしまう自分が実に情けない。

「アンナ先生、校長か教頭かがどこかしらで待っていると思いますので、向かっていただければ私の役目もひと段落であります」

「ふふ。うん、分かった。伝えてくれてありがとう」優しげに微笑む女教師。

 それはまるで、恋人に愛を伝えるかのような柔らかく艶やかな笑顔だったので、私は海外ドラマよろしく、出掛けざまにキスをせがむ女の気持ちで頬を差し出しそうになっていた。

 心の距離を一瞬にして縮めるあの悩殺スマイルによって私の心はすっかり絆され、いつの間にか恋人気分の中にいたのだ。やれ恐ろしや。天女も下駄を忘れて逃げ出すほどの美貌と愛らしさよ。

 サラサラの髪をひらりと舞わせ、音楽室を出ていく坂内アンナ。香りもまた甘美。

「いやあ、いい先生だな。放課後までも触れあえるのならば、私も吹奏楽部に入るべきだったとつくづく後悔している所だよ。どうだい曽根よ。今からそのフルートの座を私に譲らんか」

「は?」

「何、冗談さ。一年の頃の吹奏楽部といえば、むくつけき男性顧問が二人であったからな。とは言え、興味一つそそられずにいた先見のなさを殴りつけたい気分だ。他意はないよ」

 まあ、仮に坂内アンナが端からここにいたとして、私がこの部に入ることなど天地がひっくりかえってもなかったとは思うが。

「久瀬って、アンナ先生のこと好きなの?」曽根はフルートを構えもせずそんなことを訊く。

「嫌いな男がいるとでも?」

「そうじゃなくて、その、片想いしてんの、ってこと」

「しておるなあ。恥ずべきことではあるが、私の中の男の子はあのコケティッシュを求めるものなんだな」

「そう……なんだ」

 何やら俯く曽根に、私は「どうした、体調でも悪いのか?」と訊ね、続けて保健室に行くよう勧めようとしたが、そこでは春日雫が目下僥倖探しの最中だったと思い出し、「お大事に」と言うだけに止めた。

 まるで関係ないはずのフルート三年生が「鈍感な後輩め!」と罵ってきたのは訳も分からないし心外だったが、まあ深くは考えまい。ここでの用は終わったのだ。

「では、私は帰るとするかな。伝言ゲームは伝え終えれば去るのみ。じゃ、また明日」

 立つ記者、跡を濁さず。

「ねえ、久瀬」曽根がフルート奏者らしからぬ低い声で私を呼び止める。「もしかして、アンナ先生狙ってる?」

「なんだい。他意のありそうな言い回しだな」

「だって、そういう目してるし」

「ほう。それは困ったものだ。私は出来る限り表に出さん人間なんだがな」

「なんとなく、そう感じただけ」

「そうかい。曽根は才能があるやもしれんな。気が向いたらどうだい。歓迎するよ」

 私は不敵に笑みを浮かべた後、そそくさと音楽室を出、藤橋と合流した。多少跡を濁した気がするのだが、無視して行こう。

「さて。次は私の出番だね」藤橋は廊下の端で笑顔の仮面を被る。

「うむ。取材はチームプレイ。先発ピッチャーの役目は果たした。頼むぞリリーフ!」

「え? 守護神の間違いでしょう?」

 その貼り付けた笑みを私に向けるでないよ藤橋。笑顔とは時に凶器にもなることを知っていてそうするのだろう。つまり凶器を私に向けているのだ。銃刀法違反と同等だ。そして脅迫だ。

 しかし。

「よし。頼んだ守護神」そう言う私は真顔だった。

 藤橋の恐ろしさを誰より知る私は、彼女の意向にはこれっぽっちも逆らえないのである。

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