1-5
坂内アンナの声はやけに色っぽかった。妖艶というよりは、色っぽいと表現するのが適当に思えた。
「トゥナイト」と聞こえたから、きっと「今夜どうかしら」とでも言っているのだろう。「ベッドルーム」がどうたらこうたらというのは、想像するに、我々がまだ到達することの出来ていない未開の地。甘い吐息と汗とが入り乱れると噂される魅惑のベッドルームのことだろう。
お気付きかと思うが、私は坂内アンナが何を言っているのか皆目見当がつかなかった。英語教師坂内アンナはその名に恥じない流暢な英語であり、私の興奮は見事なまでに萎んでいく。日本語って大切なのだな、と痛感せり。洋物はまだ早い。
「誰か訳し給え」
「無理言わないでくださいよ。こんなの高校英語のレベルじゃ分かんないし、一年生にそれを求めないで頂きたい」
「くそう、使えぬ後輩め。藤橋はどうだ、優等生!」
「わたしこう見えて割とギリギリで生きてるの」
「うぐぅ、まさか同輩も使えぬとは! 私は自分のことを棚上げして糾弾したい気分だ! そうだ、エロいと評した華奈はまさか英語が出来るのでは」
「トゥナイトとベッドルームで判断」
「おのれ同レベルであったか!」
私は今まで、「日本人なのだから日本語さえそれなりに話せていれば問題はないのだ」と豪語していたのだが、こういう状況が訪れる人生ならば当然話は変わって来る。
虚しくも我々は、目の前で繰り広げられる坂内アンナのプライベートの開示を全くもって理解出来ないでいた。授業で見せる日本人向けの発音とはまるで違うあたりに、日頃受けている授業のなんと無意味なことか! と思い知るきっかけとなったことは紛れ幸いであると言えるのかもしれないが、その無意味な授業に青春を割く我々の斯くも虚しき数十時間を返してほしい気分でもあった。
行き詰まってしまった。ネイティブイングリッシュは日本人には難解過ぎる!
「でも、授業を放り出して恋人に連絡を入れていたと分かったら一大スクープですよ先輩。証明できれば、坂内アンナは最悪謹慎。これは大ネタと言ってもいい! でしょ」
「な、何だ雫。テンションが高いじゃないか」
「当たり前ですよ。こんな読者モデルとか指先一つで屠るレベルの女教師が校内にいてごらんなさい。そこらの美人もナスの漬物か刺身のつまレベルで脇に追いやられますよ。生きにくいったらありゃしない。せっかく掴んだ不祥事。出る杭は打つ!」
別に君は美人ではないだろうとは思いつつ、雫のテンションは天を衝くかの如し。
だが、私はこの発言を認めるわけにはいかなかった。胸中にて、憤りが生まれた。
「雫。それは、言ってはいけない一言だ」
「はい?」
「我が校に於ける唯一の報道機関たる週刊言責を、己が目の上のたんこぶを潰す為に利用するかの如き発言。例え気に食わぬ教師であったとしても、私利私欲でどうこうしようとするなど言語道断! そのようなことを言うのなら、私は君を取材に参加させるわけにはいかん!」
我々はアマチュアとはいえ報道である。若者の一娯楽、学生の一部活動に過ぎないと言えばそうなのだが、それでも責任は付きまとって然るべきだ。校内限定の週刊誌であれ、私情は厳禁。当然の処置である。そのはずだ。そのはずなのだが。
「は? なにそれ」雫は冷めた目を私に向ける。「なんか狼狽えてるけど、もしかして坂内アンナが教室を去るのが嫌なの?」
「……ん? なんだ藪から棒に」
「そういえばアンナ先生って、久瀬くんのクラスの英語も担当してるよね」藤橋の余計な横槍。
「つまり、美人教師が停職になるのが嫌ってことっすか。え、超私情じゃん」
「……?」
「停職に反応しましたよね? ねぇ?」
「な……んのことだ?」
「これでも一応記者なんで、誤魔化しても分かるっすよ。見損ないましたマジで」
見損なうほど私のことを買ってはいないくせにと思いながら、これ以降、私は黙った。黙秘した。私はかつて後輩にこう教えたことがあるのだ。
「相手がよく喋るか黙った時は、図星を衝かれた時だ。目が泳ぎでもすれば、動揺は確かなものになるだろう」と。なかなか鋭いことを言ったものだ。私の記者歴も既に一年と少々。この指導が間違っていなかったことを私は私自身の存在で以て証明した。
言わずもがな、私の目は泳いでいた。当時の私曰く、これは図星ということになる。なので。
「じゃあ、これ採用。大急ぎで取材をして、次号に載せようね」
私の次に権力を持つ副編集長によって私情は排斥された。
「だっさ」雫は一言で私を蹴り飛ばした。冷たい視線が痛い。物理的でなくとも痛い。
仕方ない。諦めよう。私は考えを改めた。坂内アンナは美人だ。それはそれは美人だ。惚れもする。だからと言って、やはり私情は挟むべきでない。
この学校における唯一の報道機関としての誇りが、恋慕をも掻き消し、己のプライドともいうべき記者魂と共に脳内を支配する。真実を追い伝えるべき我々の使命とその覚悟。そして好奇心の塊たる我々は、どう足掻いてもこの欲望からは逃れられないと知る。
「よし。やるからには、一切の言い逃れもされぬようにしないとな」
結局のところ、私は健全な男子である前に記者なのだ。再確認。教師の不適切な行為は白日の下に晒し出す。
週刊言責編集部、本日もまた、揚々と始動である。
「で、ウチの参加は?」
「致し方なし!」
「やった」
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