第8話 思い出
そもそも、精神科や心療内科は、もっと気軽に行くことのできる病院であるべきです。そう言えたのは、俺もまた、経験者、つまり、患者の一人だったからだ。そして、今も通い続けている。薬を処方してもらって、毎食後に飲んでいる。どういう病気なのかは前言の通り、おそらくゆめちゃんと同じだ。症状としては、幻聴が聞こえたり、誰かに監視されているような感覚に陥ったり、パニックが起こったり、他にも様々だ。こう聞いて病名が思い当たる人もいるのではないだろうか。しかし実のところ、こういった症状が出てすぐに病院に行ったわけではない。約2年だ。約2年の間、病気が病気だとは気付かないまま、あるいは気付いたとしてもそれを否定したまま、時を過ごしていた。底無し沼の底に足を着き、更にそのまま沈み込むような、そんな感覚だった。一言で言えば、病んでいたのだ。原因はおそらく家庭内の問題。ゆめちゃんと同じだ。
俺には引きこもりの兄がいる。兄はもともと、俺なんて比べ物にならないくらい、頭が良くて、繊細な心の持ち主だった。それ故に、学校に行けなくなり、引きこもり、ゲームをしながら罵声をあげ続ける毎日。もともと仲が良かったかと聞かれるとノーだ。いつも俺の発言、行動、人格を否定してきた。もちろんそれで兄に対する反抗心はあったが、その能力故に、殴り合いの喧嘩でも勝てず、口喧嘩でも勝てず、何に於いても勝てずじまいだった。唯一勝てたジャンルを挙げるならば、芸術方面だろうか。人の人格を否定するのは簡単かもしれない。だが、考えや思いを否定するには、それらを理解する必要がある。つまり、理論的に一個一個否定していって、最終的には人格まで追い詰める。俺は兄に全てを見透かされていたのだ。そして、最終的に、いや最初から一貫して、俺を嫌っていた。いや、むしろ俺には興味すらなく、ただ邪魔な存在だとしか思っていなかったのかもしれない。俺にはその方が堪えるかもしれなかった。しかしたとえ反抗心があれど、兄の罵詈雑言を否定することもついにはできなかった。どの文言を取り揃えても、ただ正しかったからだ。否定する余地などない。よって、反抗も反発もできなかった。やがて、兄がいなくても、兄が言いそうな言葉が自分の中からふつふつと湧いてくるようになった。何をしても、何を考えても、それは間違っていると、否定してくるのだ。否定し続けてくるのだ。心の内の、自己否定存在が日に日に肥大化していった。こうして、先に述べた症状が発現し、悪化していったのだ。
一人が怖かった。すごく不安だった。そんな状態で一人歩いていた。
そのときである。彼女、先輩と出会ったのは。先輩は不安な俺を、いつも励ましてくれた。気にかけてくれた。その優しさや気遣いが、俺の心を癒やしてくれたのだ。先輩は優しいだけではなく、芯がしっかりしていた。そんな先輩の優しさと佇まいに惚れるのには、そう時間はかからなかった。あいにく当時の俺に、二人きりでどこかに行こうと誘う勇気はなかったが、何度か友達を織り交ぜて、買い物に行ったり、ご飯を食べに行ったりはした。すごく、幸せな日々だった。
しかし、そんな幸せな毎日も、長くは続かなかった。先輩の優しさは癒しにはなるけれど、治療にはならない。俺の病気は以前より悪化し、先輩に依存するようになっていた。同時に、呼応するように俺の人間関係も周りから悪化していき、やがて先輩にも拒絶されるようになった。わかっていた、こうなることは。でも、どうしたって、自分自身を制御できなかったのだ。俺がパニックになるところも、錯乱するところも、全部見られてしまった。目の前の光景が崩れ去るところを何もできずに、ただ見ていることしかできなかった。あとから聞くには、そんな俺を手助けしようともしてくれていたみたいだ。でも、手を貸すには重過ぎたらしい。俺は、先輩に、先輩だけじゃなく他の人にも、みんなに迷惑をかけてしまった。俺が心療内科に通うようになったのは、全てが手遅れになってしまった後だ。薬を飲むようになってから、冗談みたいに病状が改善した。しかし、先輩は学校に来なくなっていた。きっと俺のせいだ。そのまま先輩は別の学校へ転校してしまった。それ以来音信不通だ。最近友達づてに聞いたが、今も精神状態が安定せず、しんどいそうだ。本当は今すぐにでも助けに行きたい。救い出したい。でも、しんどい思いをさせた張本人である俺には、それをする資格はないだろう。
ねえ、先輩、俺はどうしたら良かったの?
もっと早くに病院に行っていれば、こんなことにはならずに済んだかな。
俺の中には、後悔と、感謝と、罪悪感と、そして好きという気持ちが、ずっと渦巻いている。どうしたら解消されるだろうか。いや、解消されるべきものではないのかもしれない。これを一生抱え続けることが贖罪だとするなら、俺は甘んじて受け入れるしかないのかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。ただ俺は、先輩が救われて欲しい。そしていつかもしまた出会えたなら、「ごめんなさい」と「ありがとう」を伝えたい。
神様、いや誰か、お願いします。どうか、先輩を助けてあげてください。
いや、これも違うな。結局のところ、彼女自身が自分の力で立ち上がらない限り、助かることはない。なんて、俺がこんなことを言える資格もないことはわかっている。でも、だけど、どうか、どうか……。
そんなことを思いながら、祈りながら、俺は虚空を握り締めた。
俺の彼女、藤林裏葉が聞いてきたのだ。ヒョータの好きだった人はどんな人だったのかと。
「うん、優しい人だったよ。芯がしっかりしていて、賢くて、言葉遣いも丁寧だった」
「可愛かった?」
「……うん。普通にしていても可愛いんだけどね、笑った顔がすっごく可愛かったよ。爆笑しているときの顔が可愛い人なんて、なかなかいないと思うな」
「今でも好き?」
「…………」
「ねえ、なんで私と付き合ってくれたの?」
「…………」
「先輩を忘れるため?」
「忘れる……つもりはない。ただ、俺も前を向かなくちゃなって……」
「もし、もう一度先輩に会えたら、どうする?」
「…………わからない」
「…………」
「どうしたら、いいかな。わからないよ。俺は、俺は…………」
無力だ。俺はただ、爪が食い込むくらい、握り締めることしかできなかった。
「痛いよ。そんなに握り締めたら」
裏葉の手が、優しく俺の手を握ってきた。
ダメだ。今そんなに優しくされたら、俺は、俺は……。
熱いものが込み上げてきた。
「よく、頑張ったんだね」
ダメだ。やばい。熱いものが今にも決壊し、溢れ出しそうだった。
「つらかったね」
「俺は、そんなに優しくされるべき人間じゃないんだ」
「そんなことない。だってほら、ヒョータは何も悪いことしてないよ」
「してきたさ、悪行の限りを」
「だったら私が赦してあげる。全部」
「…………」
「だからその十字架、もう降ろしていいよ」
いいのか? もう、俺は赦されても。そしたら、どれだけ楽になれるだろう。楽? いや、俺はそんなことを望んでいるわけじゃない。赤く腫らした目で、口を開ける。
「いや、俺はこのままでいい。俺が先輩にしてきたことも、先輩が俺にしてくれたことも、どんな思い出も、全部、忘れたくない」
「……そっか。強いね」
その先は、何も言わなかった。
俺は先輩に憧れていた。先輩は俺の目指す目標で、これまでと何も変わらない。俺は俺の道を歩く。
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