第7話 説得
「あの、一緒に帰ってくれないかな?」
今日は水曜日、昨日の今日でずいぶんと頼られるようになったようだ。
東郷ゆめ。おそらく精神疾患を持った女の子だ。だからと言って特別おかしい子でもなく、いや、少し変わった雰囲気を持った子ではあるかもしれないが、もし自分を頼ってくれるなら、喜んで手を差し伸べたいと思わせてくれる、そんな子だ。少なくとも、俺はそうである。
しかし、俺は今彼女と一緒だ。藤林裏葉。俺は別にいいのだが、彼女がどう思うかは別だ。
「この子は?」
「東郷ゆめちゃんだよ」
心なしか、裏葉の機嫌が良くない気がする。
「あの、裏葉」
ギロリと睨みつけてきた。怖い怖い怖い目が怖い。
「えっと、ゆめちゃん、き、今日は一人で帰ってくれないかな。ごめんな」
「そ、そう。こちらこそごめん」
さりげなく後ろを振り向いてみた。
今日は何もないみたいだ。
「行こ、ヒョータ」
急かす裏葉。だがしかし、これではあまりにもゆめちゃんがかわいそうだ。
「ちょっと待って」
俺はそう言って裏葉を引き止めた。
「なあ、ゆめちゃん。もっと友達作った方がいいぞ。そしたら一緒に帰ってくれる人も他にいくらでもできると思う。今日は一緒に帰れないけど、きっと大丈夫だよ。じゃあな」
そう言って、踵を返した。
「お、おまたせ」
俺の彼女さんはまだこちらを睨みつけている。あまりに冷たくないか?
「つ、次の土日、どっか遊びに行かない?」
機嫌を取ろうといつのまにかそんなことを口走っていた。
「無理!」
「え、なんで?」
「バイト!」
やけにはっきりした口調で言う。だから怖いって。
「きゃー‼︎」
後ろから叫び声が聞こえた!
なんだ? もしかして……!
もう一度踵を返す。そして、目に映ったのは、ヤツだった。
やはりか……。
例の化物。「威圧感」だった。
ゆめちゃんはと言うと、道で蹲っていた。
慌ててゆめちゃんに駆け寄る。
「大丈夫か⁉︎」
くそ! 振り向くとそこにはじっと俺たちを見つめてくる化物がいた。人型なのか、怪物なのか、依然として判然しない。けれど、大きいのは確かだ。
目には目を、歯には歯を、「威圧感」には威圧感だ!
「来るんじゃねえ‼︎」
ゆめちゃんはきっと、こんな化物と、ずっと戦ってきたのだろう。もう、許してあげてもいいじゃないか。
「この、化物がぁ‼︎」
すると、スッとヤツは消え去った。
「大丈夫か? ゆめちゃん!」
「ご、ごめんね。また、迷惑かけちゃった」
「いいよ。それよりさっきはごめんな。やっぱり一緒に帰ろう」
いいよなと、裏葉に視線を送った。溜息を吐く裏葉だった。
カタンコトン。
俺たちは、電車の中にいた。ちなみにこれは現実である。駅までの道すがら、「一緒に帰ってくれないかな?」とゆめちゃんが声をかけてきたのである。それに対し、俺たち、俺と裏葉は、快くOKした。いや、実際裏葉は、心のうちでは、嫌だったのかもしれない。だが、裏葉はあまり気持ちを表にする方ではない。というかたいていの人は、嘘でも嫌な顔はしないだろう。裏葉は良識を備えていた。
逆に、ゆめちゃんはというと、俺たちに引け目を感じているのだろう。そういう表情をしている。こちらもまた良識を備えているようだった。
なにこれ、気まずい! 誰も悪いことはしていないはずなのに、なんだこの空気。誰も一言も喋らない。まずい。非常にまずい。ディスコミュニケーションは、後々深刻な影響をもたらすこともあると、経験と直感が心に訴えかけてくる。何か話さなくては。
「なあ、ゆめちゃん、昨日は大丈夫だったか?」
「あ、うん……。実は昨日、お母さんに相談したの。病院に行きたいって」
「おお! 頑張ったな! で、どうだった?」
ゆめちゃんは首を振った。
「ダメだった。仕切りに『なんで?』って聞いてくるの。そのくせ私の話なんかまともに聞いてくれなかった」
「そっか。でも、頑張ったな」
「う、うん……。ねえ、ヒョータ君。昨日、力を貸してくれるって言ってくれたよね。説得、協力してくれないかな……?」
「もちろんいいよ、どれだけ力になれるかわからないけど」
こうして、それぞれ日程を調整して、次の土曜日、ゆめちゃんとゆめちゃんママと俺の3人で、話し合いの場を設けることになった。案外すんなりセッティングできたものだ。
当日、俺は平日のように、目覚まし時計の音で、目を覚ました。土曜日に授業はない。だからいつもならもう少し休んでいるところだ。でも、不思議と寝覚めは良かった。うん、これならきっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせた。
待ち合わせはとある喫茶店。早めに着いて、今日はその喫茶店で朝ごはんを済ませてしまおう。
早々と支度を済ませて、家を出た。
余裕を持って、集合時間の1時間前に、喫茶店にたどり着いた。
カランカラン。
レトロな雰囲気の喫茶店だ。俺は早速モーニングセットを頼んだ。厚切りトーストと目玉焼きにコーヒーのセットだ。
そして食事が運ばれるや否や、ぺろりと平らげてしまった。
残りの時間を、読書に充てた。ミステリー小説だ。俺は、ミステリーやサスペンスが好きだ。一つの謎を、いろんな視点、角度から見ようと試みる。そうすることで、謎の答えだけではなく、その背景や人の思いなども見えてくる。一つの謎は多くを語る。そんな懐の深さがこのジャンルにはあると思うのだ。故に好きだ。
コーヒーがなくなってしまったので、おかわりを頼んだ。そのとき、カランカランと出入り口の扉が鳴った。ゆめちゃんだ。一緒に入ってきたのはゆめちゃんママか。いかにも真面目そうな雰囲気の人だ。
「こちらです!」
俺は立ち上がり、手をあげてこちらに誘導する。
「こんにちは。俺はゆめちゃんと友達として仲良くさせてもらっておりますヒョータと申します。今日はお忙しい中足を運んで下さってありがとうございます。どうぞ、お掛けになってください」
「ご丁寧にどうも」と2人が椅子に腰掛ける。それを確認した俺も椅子に座った。
「驚きました。話し合いに応じてくれるとは思っていなかったので」
「この子が会って欲しい人がいるからって、どうしてもって、言うから。あ、コーヒーと紅茶」
次いでのように注文するゆめちゃんママ。スマートな人だ。
「そうでしたか。まず今回はどういった件のお話かどこまで把握されていますか?」
「ええ、心の病院に行きたいってことでしょう?」
「はい」
「冗談じゃないわ。この子が病気だとでも言うの?」
「その可能性はあります」
「勝手にこの子を病人扱いしないで!」
ダン!
テーブルを叩く音が周りに響き渡った。
「……お母さん。ゆめちゃんが、どんなことに苦しんでいるか、ご存知ですか?」
「一通りは把握しているつもりだけれど」
「ゆめちゃん、もう一度お母さんに説明してくれるかな? お母さんはしっかり最後まで聞いてあげてください」
「……わかったわ」
ゆめちゃんはゆっくり語り始めた。
「お、お父さんとお母さん、いつも喧嘩ばかりしてたよね。それが怖くて、いつもビクビクしてた。何か音が鳴るだけでも、また喧嘩してるんじゃないかって、ずっと怖かった。それで去年の秋頃、これまでで一番大きな喧嘩になって、その時くらいからかな。ずっと誰かに悪口言われてるような感覚になって、友達関係でも疑心暗鬼になって……」
「なに、私が悪いって言うの?」
「ごごごめんなさい!」
「お母さん、最後まで聞いてくださいと言いましたよ」
「わかったわよ。続けてちょうだい」
「と、友達関係でも疑心暗鬼になって、それどころか、私の心の中読まれてるんじゃないかって。それどころか、家にいる時でも、どこにいる時でも、誰かに監視されてるんじゃないかって。それどころか、自分の考えとか気持ちも全部、漏れ出て、見られてるんじゃないかって! そうこうしてるうちに、もう自分がわからなくなって、他人がわからなくなって、自分と他人の境界線も曖昧になってきて……。自分自身を保てなくなった。まるで多重人格にでもなったのかなって感覚だった。なんだか一人でいるのがとても怖くなった。すごく、ものすごく不安なの。怪物にでも目をつけられたかのように……」
しばらく無言が続いた。
「お母さん、病院に行かせてください。私は、治したいです」
「それって、病院に行くほどのことなの? そりゃ、人間関係が上手くいかない時って、誰かに悪口言われてるような感覚になったりもするでしょう。自分と他人の境界線? もともとあんたは自分ってのを持ってなかったじゃない。それにあんたくらいの年頃なら、漠然とした不安を感じることも、まああると思うわよ。別にあんたが特別病気ってわけじゃない。思春期なら誰もが抱えてる問題よ。それより病院行くのにはお金がかかるでしょう。誰が払うのかちゃんとわかってる?」
「お、お金は、将来、ちょっとずつでも返します。だから、だから……」
今にも泣き出しそうな表情だった。助け舟、入れないとな。
ゆめちゃん、よく頑張ったな。
思いを視線に込めて放ち、ゆめちゃんママに向き直った。
「お母さん、行かせてあげてくれないでしょうか? もちろん、俺がこんなこと言っているのも、差し出がましいことだというのは分かっています。でも、普通だったら病院に行くのも嫌だって言う人の方が多いと思うんです。だけど、ゆめちゃんは……。ゆめちゃんは、きっと相当な覚悟と勇気を持って言っているのだと思います。ゆめちゃんは、ずっと一人で戦ってきたんです。誰にも理解してもらえないし、自分自身でもよく分からなくて、ひたすら怖くて、孤独な思いをしてきたと思います。でも、やっとゆめちゃんは人の力を借りようとしている。ちゃんと助けてって言っている。その言葉に耳を傾ける役目を周りは担っているのではないでしょうか」
「……でも、それでもし、なんともなかったらどう責任を取るつもりなの?」
「お母さん、そもそも、精神科や心療内科は、もっと気軽に行くことのできる病院であるべきです。ただでさえストレス社会の世の中です。話を聞くのが、医師やカウンセラーの仕事なのですから」
「でも……」
「お気持ちを詮索するようで、申し訳ないのですが、お母さんは、ご自身の娘さんが何の問題もなく、健康であって欲しいって、疾患など持っていないって、そう思いたいのではないのでしょうか? だから、ゆめちゃんが訴えていることも、受け入れられないのではないでしょうか?」
「それは……」
「それは、本人もきっと同じはずです。自分が病院に行かなくてはならないほどの患者だなんて、誰も思いたくないはずです。おそらくゆめちゃんだって……。でも、そう思い続けることを諦めて、治そうって、ようやく前を向いたところなんです。どっちが前かわからないような状態でも、少なくとも顔をあげて、歩き出そうとしている。もう十分傷ついたし、戦った。それでもこれからも戦っていかなくてはいけない。生きていかなくてはいけない。だけど、たった一人で戦うのも、生きていくのも、辛すぎます。みんなで戦って、みんなで生きていけば良いんだと思います。ゆめちゃんにとっての、その一員になってくれませんか?」
…………。
「そうね、わかったわ。ゆめ、気付いてあげられなくて、ごめんなさい。いえ、本当は気付いていたのかもしれない。それを心のどこかで認められずに否定していたのかもしれない。ごめんなさい。ゆめ、ここからやり直しましょう。ゆっくりでも良いから、一緒に歩いていこう。よく頑張ったわね。もういいよ。病院行こ」
話しているうちに口調が徐々に柔らかくなっていくゆめちゃんママを見て、ホッと胸を撫で下ろした。
「うん、ありがとう、お母さん」
「ううん、ごめんね。えっとヒョータさんと言ったかしら」
「はい」
「ありがとうね」
ゆめちゃんママ、ちゃんと話せば聞いてくれる、素直な人でよかった。
「はい」
こうして話し合いは早々に終わり、しばらくコーヒーをお供に歓談した。これを機に親子の関係が回復すれば良いな。
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