第6話 威圧感

 さきちゃんと、ただの友達から男友達になってから、翌日。火曜日。

「一緒に帰らない? ヒョータ君」

 声をかけてきたのは、さきちゃんだった。崎咲、見た目は女、中身は男の、どこにでもいる普通の子だ。別々の講義だったから、廊下で声をかけられたのだ。ちなみに男のさきちゃんだから、なるほど、夢の中だ。裏葉はというと、先に終わったみたいで、もう帰ったらしい。

「ああ、いいよ」

 さきちゃんと並んで、階段を一段一段体を落とすように降りる。

「ああ、疲れた。退屈だよ。聞くだけの講義なんて」

「そう? 自分は楽しかったよ」

「さすがだな、そう思えるのは、さきちゃん、すごいと思う。で、何の授業だったんだ?」

「数学」

「文系の学部なのに、数学履修してるのか? 俺なんて数学なんかもうごめんだよ」

 中学の頃までは得意だった。全国模試でも、偏差値75と、それなりに自信のあった教科ではあった。しかし、高校に入ってから、格段に難易度が上がり、ついていけなくなったのだ。そのまま、数学は得意科目から苦手科目にひっくり返ってしまった。まさにもうごめんなわけである。

「うーん、数学の先生がおもしろくてね。なんかもう数学の授業というより、キャリアデザインに近かった」

「数学なのに?」

「数学なのに。でも確かに今の時代、計算なんかは全部機械がやってくれるもんね。代わりが効く人材じゃなくて、意味価値のある人材になれっていうメッセージがすごく伝わってくるんだよ。そのための、『使う』数学って感じでね。それがすごく楽しいんだ」

「なるほど、でも、数学受けてる人少なそうに感じるけど?」

「うん、10人ぽっちだよ。自分は受けてない人がもったいないことをしてるなと思うよ」

「なるほどな、楽しそうじゃん。俺も履修すればよかったかも」

 話に夢中になっていると、気付けばもう大学の敷地内を出ていた。さきちゃんの話はいつ聞いても勉強になる。有意義な関係性だと思う。


 と、その時だった。

「ひ、ヒョータ君‼︎ い、一緒に、かか帰ってくれないかな⁉︎」

 突然話しかけてきたのは、東郷ゆめだった。彼女もまた、10人いる友達のうちの1人だ。

 すごい形相だ。息を切らしている。

「どうした⁉︎ 何かあったのか⁉︎」

「うう後ろ‼︎ ここ怖くって……‼︎ 追いかけてくるの‼︎」

「まさか、ストーカーか⁉︎」

 バッと後ろを振り向く。すると。

 なんだあれは! そこには、何か悍ましいものがあった。いや、いたというべきか。人間? 獣? 怪獣? 真っ黒な塊のようにも見えるし、真っ白なモヤのようにも見える。つまるところ、それが何か判別できないものだった。ただはっきりしているのは、大きいということ、だった。ものすごい威圧感だ。目には見える。でも、遠くにいるのか、それともすぐ近くにいるのかもわからなかった。それは、この世の理を無視した「何か」だった。そいつが、こちらをずっと見ている。

「何なんだ⁉︎ あの化け物は⁉︎」

「わかんないけど、ずっとついてくるの!」

「逃げるぞ! ゆめちゃん! さきちゃん!」

 俺たちは一斉に駆け出した。しかし、それは遠ざかりはしなかった。どれだけ逃げようが、それはそこにあった。

「ヒョータ君、自分がヤツを追い払う! ちょっと待ってて!」

 さきちゃんは、そう言って踵を返し、ヤツの方へと向かっていった。

「何なんだ! お前は! 女の子が怖がってるじゃないか⁉︎ いいから立ち去れよ! この怪物が‼︎」

 気圧されたのだろうか、気付けば、そこからヤツは消え去っていた。

 さきちゃんが駆け戻ってきた。

「もう大丈夫だよ。安心して、ゆめちゃん」

「イケメンだなおい」

 あ、さきちゃんの顔が紅潮している。

「二人とも、あ、ありがとう……」

 やっと安心した表情を見せてくれた。

 しかし、何だったんだ。今のは。今は確実に夢の中だ。でも現実に戻った時に、この現象はどう再現されるのだろう。

 東郷ゆめ。彼女はなんというか、謎に包まれている。


「一緒に帰らない? ヒョータ君」

 見た目は女のさきちゃんだった。なるほど、現実だ。

「ああ、いいぜ」

 例によって、数学の話をしながら歩いていた。

 大学の敷地内を出たところで、

「ひ、ヒョータ君‼︎ い、一緒に、かか帰ってくれないかな⁉︎」

 彼女は話しかけてきた。東郷ゆめ。

 すごい形相だ。息を切らしている。

「どうした⁉︎ 何かあったのか⁉︎」

「わ、わからない。でも、お願い、一緒に帰って欲しいの」

「いいよ。さきちゃんもいいよな?」

「もちろん」

「あ、ありがとう」

 しかし、彼女の形相は変わらない。ずっと何かに怯えている。

 俺は無意識に後ろを振り返っていた。そうだ、追いかけられたんだった。化け物に。威圧感に。しかし、後ろには何もない。でも、彼女の目には映っているということなのだろうか。少なくとも、彼女は何かを感じ取っているように見えた。それは彼女の表情を見れば一目瞭然だった。

「なあ、ゆめちゃん、大丈夫だからな。俺たちがついてる」

 こんな言葉は気休めにしかならないだろう。だけど、

「あ、ありがとう」

 俺には何もできなくても、救えなくても、せめて気休めくらいは……。


 俺たちはゆめちゃんの歩くスピードに合わせ、ゆっくりと駅を目指した。そしてやっとたどり着いた電車の中。

「なあゆめちゃん、答えたくなかったら、答えなくてもいいよ。何かあったのか?」

「別に、特にそういうわけじゃないよ」

「じゃあ、さっきのはいったい何だったんだ?」

「わ、わからない……。自分でもよくわからないの」

「威圧感……じゃないのか?」

 ゆめちゃんは、目を見開き、驚いた表情を見せた。

「そう、そんな感じ」

「とにかく大きかったか?」

「うん」

「じっと見つめられてるような感じだったか?」

「うん」

「ずっと追いかけられてるような感じだったか?」

「うん。何でわかるの? 自分でもよくわからない感覚なのに」

「俺は超能力者だからな」

 冗談のつもりで言った。だが、しくじった。ゆめちゃんは人にツッコミを入れられるようなタイプの人間ではないのだ。

「あはは、えーっと、今のは冗談。それより、いつからそういう現象が起こるようになったんだ?」

「去年の秋頃……かな。急に不安になって、パニックになって、怖くなって。一人で帰れなくなった。その怖さは、まるで怪物にずっと見られてるみたいな、そんな怖さだったよ」

「何か原因について思い当たることは?」

「うん……、家庭崩壊、かな。うち、ちょっと家庭が複雑なんだけど。一度家庭が崩壊しきった後くらいからかな。誰かに監視されてるような感覚とか、自分の考えが漏れ出てるような感覚とか、自分と他人の線引きがわからなくなったりとか、するようになった」

 なるほど、ならばヤツはきっと、アレの権化だ。

「ゆめちゃん、それ、病気だよ」

「え?」

「心の病気」

 そう、心の病の権化。

「そんな。どうして……?」

「俺も同じような経験があるからさ」

「そうなの?」

「ああ。ゆめちゃん、心療内科で受診してもらいなよ。俺にも専門知識があるわけじゃない。だけど、そもそも心療内科なんかはもっと気軽に行って然るべきなんだよ」

「…………。でも、親が許してくれるかどうか……」

「それは説得次第だな。でも、そんな悠長なことは言ってられないレベルだと思うぜ。躊躇いがあるなら、俺が背中を押してやる。説得も必要なら協力する。変わらず友達として側にいてやる。俺ができるのはそれくらいのことだ。だけど、お前はもう十分に苦しんだ。だから、助からなきゃいけないんだ。でも俺に助けられる力はない。お前は自力で助かるんだ。助かるために、もう一踏ん張り、頑張ってみないか?」

 ハッとした表情だった。

「うん、わかった。もう少しだけ頑張ってみるよ」

 俺にも経験はある。漠然とした不安、莫大な不安。それが発作やパニックとなって現れてしまうのだ。病気になってしまえば、自力でどれだけ頑張ろうが我慢しようが治るものではない。だから心療内科を受診して薬を処方してもらう。でも、薬に頼り切ってはいけない。あくまで自分の力で助かる努力をしなくてはならない。その手助けを周りに仰ぐのも、自分の力だ。そして、ゆめちゃんは自分に助けを求めてくれた。それは紛れもなく、ゆめちゃん自身の力なのだ。だから、言った。

「大丈夫、きっと治るよ」

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