第5話 友達
ーーでも、ヒョータ君、まだ童貞でしょ?
「は⁉︎」
ヂリヂリヂリヂリヂリヂリ!
なんか、見知らぬ男に失礼なことを言われたような気がする。
いつものように、パンの袋のバッグ・クロージャーを外す。今日は、コーヒーにしよう。カフェインを取らなきゃやってられない。いや、紅茶にもカフェインは入ってるんだっけ。カフェインという名前だからと言って、コーヒーだけに入っているとは限らない。ややこしい名前だな。
文学の科目の講義だった。題目は桃太郎について。思うところを話し合ってみよというグループワークの時間。相手は崎咲になった。「崎」が名字で「咲」が名前である。クラスのみんなからは「さきさき」と呼ばれている。明るくフレンドリーなタイプだ。
「ヒョータ君は桃太郎の話、どう思う?」
「うーん、勧善懲悪の物語、かな」
「なるほど、善を勧め悪を懲らす物語、か。一言でまとめあげるなんてさすがだね、ヒョータ君」
「さきちゃんはどうなんだよ」
「うん、ヒョータ君はつまり、善である桃太郎が悪である鬼を懲らす物語っていう意味で言ってくれたんだよね」
「ああ、そうだな」
「でもね、自分はこう思うんだ」
自分……。さきちゃんは自分のことを「自分」という。
「どう思うんだ?」
「桃太郎こそが悪だと」
「なんで? 鬼が悪さしたんだろ? 悪は鬼じゃないのか?」
「別に鬼が悪じゃないとは言ってないよ。でも、そもそも桃太郎と鬼って面識ないじゃん? なのにいきなり、住処に侵入して、暴力をはたらく。挙句の果てに金品を強奪し去っていく。なんて酷い奴らなんだ、桃太郎たちは。正義の味方ですらないよね」
「なるほど」
目から鱗だった。そんな考え方があったなんて。
「しかも、そんな物語が童話になってる。つまり進んで子供達に読み聞かせてる。良くないと思うなあ」
「でも、今考えを聞かせてもらって実感したけれど、子供の時と大人になった時とじゃあ、見方も変わる。感想も変わるわけだ。そういう奥深さが、桃太郎という物語には、あるんじゃないのか?」
「なるほど、そう言われてみれば、子供に読み聞かせるのも、長い目で見れば、ありなのかも」
「そういうこと」
「さすがはヒョータ君、自分なんかより一枚も二枚も上手みたいだね」
「いや、褒め過ぎ」
何かとさきちゃんは俺を褒めたがる。高く評価してくれているのは、ありがたいが迷惑だ。ありがた迷惑というやつだ。
そんなこんなで講義は終わり、昼休みになった。裏葉とは食堂で待ち合わせている。ちなみにうちの大学の食堂には、カフェが併設されている。たいていそこでパンを買い、コーヒーを買い、食べる。もともと安いのだが、学生証を見せれば更に安くなるという学生の財布に優しいお得なシステムが採用されている。
さて、俺はクロワッサンとバターパンとサンドイッチを鷲掴みにして並び、コーヒーを注文した。これだけあれば足りるだろう。
「あ! ヒョータ君、こっち!」
「おう! お待たせ」
既に裏葉はパンを買って座っていた。テーブルに向かって反対側の相席に座る。
「なあ、裏葉ちゃん。呼び方、その『ヒョータ君』っての、やめようぜ。俺たちもう付き合ってんだから」
「じゃあ、ヒョータ君こそ、私のこと『裏葉』って、ちゃんと呼び捨てで呼んでよ」
「そうだな。じゃあ……改めてよろしく。裏葉」
「こちらこそ。ヒョータ」
照れ混じりに言う俺に対し、笑顔で答える裏葉だった。
こうして、俺たちは、互いを呼び捨てで呼び合う関係になった。
でへへ。幸せだ。俺、
「もう死んでもいいかもしれない」
「何言ってるの。まだ始まったばかりじゃない!」
「だっていろいろ夢が叶った瞬間なんだもん。あと夢と言ったら、幸せな瞬間に死ぬことくらいだよ」
「そんな心持ちの低いことでどうするの?」
「じゃあさ、明日世界が終わるとしたら、今日をどう過ごす?」
「え? うーん。パッとは思いつかないかなあ」
「だろ? そういうもんなんだよ。幸せな瞬間があったなら順番なんか関係ない。終わり良ければ全てよし。なんて言うけど。振り返ったときに良い思い出さえあれば、全てよし。になるんだよ」
「なるほど? いやいや、さっきと言ってること矛盾してるよ」
「にゃー細かいことは気にするな。つまり俺の人生に一片の悔いなしってことだ。だから俺は今死にたい」
「だからやめてよもお」
「でも、ヒョータ君、まだ童貞でしょ?」
「は⁉︎」
会話に割り込み、その場の雰囲気と思考に水を刺したのは……、
さきちゃん⁉︎
「え、なんで?」
「なんでって、ヒョータ君、そういう顔してるもん」
「いや、別に、なんで童貞かわかったかを聞いてるんじゃなくて……」
「じゃあ、何?」
そうだ、ここまでは何の違和感もなかった。しかし、一つ決定的な違和感が発生したのだ。一つの衝撃とも言える違和感が。俺たちの話に水を刺したのは、男だったんじゃないか?
「え、いやぁ、えーっと……。なななんで、童貞ってわかるんだよ⁉︎ 俺が童貞とは限らないだろ⁉︎ 俺なんて実はヤりまくりの男だぞ!」
俺はあからさまになんとか誤魔化そうとした!
「え⁉︎ ヒョータ、そうなの?」
こっちにもめんどくさい反応するやつがいた!
「いや、えーっと、えーっと」
「だから顔見りゃ分かるんだって、ねぇ〜ヒョータ君」
「あ、はい、童貞です……」
「あ、そうなんだ。なんか安心した」
「こんなことで安心されても嬉しくねぇ……」
なんとか二人とも各々誤魔化せたようだ。
それにしても、さきちゃん、どうして男の姿で夢に現れたんだろう。
今週、ずっとそんなことを考えることになる。
次の週の月曜日。
「おはよう、ヒョータ君」
「おはよう」
って、こいつ、夢の中に現れたあの失礼な男じゃないか。つまり、これは夢だ。
「なあ、お前、さきちゃんなのか?」
「やめてよその呼び方」
「男だからか?」
「うん……」
「別に男でも、あだ名なら、ちゃん付けもするだろ」
「あ、そっか。ならいいよ」
「単純なやつだな。で、なんで男の格好してるんだ?」
「だって自分、男だから」
「え?」
そう声に出しながら、心が思い当たったことに気付き始める。
そっか……。そういうことか。
「え、もしかして、お前、そういうことなのか……」
「そういうことって、どういうこと?」
「いや、なんでもない。なんでもないよ」
微笑みながら俺は答えた。
そうか。俺が間違っていた。なんてことのない話だ。
さきちゃんは、崎咲は、つまりその、男なんだ。中身が。たったそれだけの話だ。
よくある話だ。体が男だけど心は女の人、心も女だけど女を好きになる人、そして体が女だけど心は男の人。なんの不思議もない。それだけの話だ。
だから、どうすることもない。もちろん、彼女、いや彼には、自身のジェンダー問題で、戸惑うことや悩み事があるかもしれない。でもそれは、彼女の問題だ。あるいは社会の問題だ。俺が今どうにかするようなことでもない。俺はさきちゃんの秘密を知った。いや、秘密でもない。単なる事実だ。だからといって、何も変わることはない。今までと同じ、友達だ。
「おはよう、ヒョータ君」
「おはよう、さきちゃん」
今日の文学の講義は、『蜘蛛の糸』についてだった。
どんな話だっけな。確か……。
ある日、地獄で罪人が蜘蛛の命を助けた。それを覗き見ていた御釈迦様が、チャンスをやろうと極楽から蜘蛛の糸を垂らした。それに気付いた罪人が、蜘蛛の糸に縋り付き、登り始めた。かなりの高さまで登ったところで、下から我先と次から次へと他の罪人たちも登ってきた。それに対し、「来るな! そんなにぶら下がったら、糸が切れてしまうではないか!」と怒鳴る。その途端、ぷつんと掴んでいた手の先から、糸が切れてしまい、落っこちてしまったのだ。それを見て御釈迦様は「おお哀れじゃの〜」と呟いた。と、そういう話だったはずだ。
「ヒョータ君はどう思う?」
「ああ、罪人の自分だけ助かろうとする邪まな気持ちが、裏目に出ちゃったって話だよな。でもなんか可愛そうだなぁ。誰にでも、助かりたいって気持ちはあるだろうに」
「ヒョータ君は優しいね」
「御釈迦様が厳しいんだよ。さきちゃんはどう思う?」
「うん、『アーサー王伝説』に、王を選定する岩って出てくるよね」
「ああ、その岩から剣を抜いた者が王になるってやつか。確か剣の名前は『エクスカリバー』だっけ?」
「そうそう、今回に出てくる蜘蛛の糸も、王を選定する岩によく似てるな〜って思って」
「どういうことだ?」
「罪人が極楽に招くに値する人間かどうかを選定する蜘蛛の糸ってこと。御釈迦様の意志ではないんだよね。道具を使って、道具にその結果を委ねてる。だからあんな達観した感想を呟けるんじゃないかな」
「なるほど。さきちゃん、格好良いな」
「え⁉︎ そ、そう⁉︎」
「うん、格好良いよ。いろいろ自分の考え持ってて」
さきちゃんの顔は紅潮していた。
「どうした?」
「いや、可愛いって言われることはあるけれど、あまり格好良いって言われたことなかったから。その、嬉しくて」
「そっか。格好良いよ。さきちゃんは」
「そっか、格好良いか。ありがとう」
その笑顔は、キラキラと輝いていた。それは正しく、少年の顔だった。
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