第64話 戦雲

 いまだラングドッグ村になるエルロイの屋敷は粗末なままである。

 これなら平民でももっとよい屋敷に住めるくらいだ。

 しかしそんなことが全く気にならないほどにノリスは驚愕していた。

「ま、まさか……あなたは……!」

「ああ、辺境伯にはご無沙汰一瞥以来か。今は一介の戦士トルケルと名乗っているのでそう及びいただきたい」

「デルフィン殿下! なぜこのウロボロスラントに!」

 かつてまだノリスが辺境伯を継ぐ前、王都で騎士団に籍を置いていたころ紅の狼と謳われたデルフィンに会ったことがある。

 年齢はデルフィンの方が若かったが、武人として遥か高みにいた憧れの人物であった。

 そのデルフィンが今目の前にいるのだ。

 興奮と困惑でノリスはぶるぶると震えたまま立ち尽くした。

「なんとも面はゆいことでございますな。今はただの戦士にすぎませぬ」

「ただの、にしておくつもりはないけどな」

 エルロイの構想ではトルケルはもっとも機動力のある遊撃の騎兵集団を任せるつもりでいる。

 そしてゆくゆくはレダイグ王国を奪還し、彼をその王として堅い同盟関係を結んでスペンサー王国に対抗する予定であった。

 本人はあまり為政者の地位に興味はないようだが、ガリエラの草の民の復興や属国として苦しみあえぐ国民を見捨てられるような性格ではない。

 もっともしばらくはエルロイ配下の実戦指揮官として活躍していくことになるだろう。

「心底驚きましたぞ殿下、いったいどんな魔法を使ったら不毛のウロボロスラントを豊饒の大地に変え宿将まで得られるものか」

「すまんがノリス殿、このウロボロスラントの秘密はこの程度ではない」

 もし噂が流れてきたといても、確実に失笑する現実味のないのが今のウロボロスラントである。

「久しぶりですねフーリドマン辺境伯殿」

「なあああああ! マルグリット殿下にコーネリア殿下? い、生きておられたのですか!」

「祖国(ヴェストファーレン)に知られるわけにはいかないから辺境伯も内密にお願いしますわ」

「悪いな。ノリス殿のミスチルの関所を通過したのも元はと言えば二人を救いに行くためだ」

「――――まさかエルロイ殿下がお二人と想いあっておられたとは……」

「いやいや、そういう邪な色恋とは関係なくね!」

 ノリスの勘違いをエルロイが慌てて否定すると、マルグリットとコーネリアの表情がたちまち般若に変わる。

「――――今何かいいましたか?」

「命よりも大切な義姉様をお救い申し上げた、と」

「見解に相違があるようですが、いずれ変えてみせますよ。それも近いうちに」

 ぞっとして冷や汗を浮かべるエルロイに、ノリスもうっすらと事情を察した。

 どうやらエルロイに一方的に思いを寄せているのは王女のほうらしい。

(…………自分の価値をわかっている女性から逃れるのは至難の業でしょうな)

 ノリスの妻は隣接する伯爵家の令嬢であった。

 幼いころから交流はあったが、農地開発や軍事訓練などの両家の提携が強化され、さらに令嬢を目に入れてもいたくないほど父伯爵が可愛がっているとなれば、もはやノリスに選択の余地などなかった。

 ちなみに両家の提携の発端が妻のわがままから始まったと聞かされたのは、結婚してからしばらくしてのことだ。

 一目会ったときからずっとノリスと結婚するために計画していたらしい。

 おそらくエルロイも似たような状況になるはずであった。

 きっと捕食者からは逃げられまい。

 人知れず同情の思いを抱くノリスである。

「…………何か変なことを考えてないか? ノリス殿」

「滅相もない」

 慌てて首を振ってノリスははたとあることに気づく。

「――――なるほど、王女殿下がここにおられるということは……そのせいか」

「何か思いあたることが?」

「実はヴェストファーレン王国軍が戦線を縮小しているのです。それも相当に大規模に」

 王都を奪還されたとはいえ、まだまだ戦線はヴェストファーレン王国軍に優位であったはずである。

 それがわざわざ戦線を縮小したことで、すわ撤退か! と喜び勇んだのがハーミースだったらしい。

「戦線を縮小するのと撤退することは全く別なのですがね」

「ということは追撃を?」

「ええ、部下が止めるのも聞かず全面攻勢に打って出たようです」

 ハーミースは王都を奪還したにも関わらず、一向に進まぬ戦況に業を煮やしていた。

 その原因のひとつがノリスを筆頭とする北部諸侯がハーミースを新国王として認めないことでもあったのだが、いずれにしろヴェウトファーレン王国軍の撤退は彼の権力を固める絶好の機会に思われた。

 少なくともハーミースはそう信じた。

「戦力が上のヴェストファーレン王国軍が戦線を縮小するには必ず理由があります。その理由がわかるまでこちらから動くべきではありません!」

「戦を知らぬ女が余計な口出しをするな!」

 カトレアの必死の慰留をハーミースは一顧だにせず拒絶した。

 そもそもレオン王国の支援を受けて以降、カトレアの存在感は増すばかりであり、それをハーミースは快く思っていなかった。

 今こそ主導権を確保する好機とばかりにハーミースは攻勢に前のめりになるばかりだった。

 もちろんそんな杜撰な攻勢を黙って見逃すほどヴェストファーレン王国軍もおひとよしではない。

 王都を奪還され手柄に味噌をつけたランス将軍は汚名返上とばかりに、デファイアント街道で迎え撃った。

 追撃戦で戦線が伸び切っていたハーミース軍の先鋒は、左右から挟撃され瞬く間に千を超える死者を出して敗走した。

 後続の軍が到着したころには先鋒五千の軍はすでに壊滅しており、後続も追撃を諦めざるを得なかったという。

 大敗北にショックを受けたハーミースはそれ以来引きこもってしまったらしい。

「やれやれ、そんな無理をしなくとも労せずして幾分かの土地を奪回できたろうに」

「挫折の苦労も知らぬ箱入りには荷が重かったということでしょう」

 一国を背負う重圧、まして敗戦国のそれを担うにはハーミースではいかにも役者が不足していた。

 この敗戦から挽回できなければ、今後ますます求心力が低下していくことは避けられまい。

「――――そのヴェストファーレン王国軍ですが、北方面に集結中であることがわかっています」

 ノリスはこほんと咳払いをしてマルグリットとコーネリアに視線を送った。

「お二人がここに匿われていることがばれたのではないでしょうか?」

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