第56話 砂漠の民

 ラングドッグ村へ帰還すると、もはや恒例行事のようにベアトリスがエルロイに背後から抱きつこうとするのをユイが般若の顔をして止めに入った。

「スキンシップのひとつくらい許しなさいよ」

「ご主人様に触れないでください!」

「束縛する女は嫌われるわよ?」

 余裕たっぷりにベアトリスに言われると、ぐっと詰まってしまうユイである。

 そんなことありませんよね? という不安そうな視線を向けられて、慌ててエルロイはコクコクと首を縦に振った。

「ところで――――」

 そんなユイの反応に不敵な笑みを浮かべて、ベアトリスはするりとエルロイの腕に抱きついた。

「ご提案があるのですけど」

「うん?」

「エルロイ様の領民は数が少なすぎます。これはノルガード王国ないしヴェストファーレン王国を敵とするうえで大きな弱みであるかと思います」

「その通りだ。このウロボロスラントは実質宝の山なのだが、いかんせんマンパワーが足りな過ぎる」

 ラングドッグの村とソルレイスの村を加えてもたった四千程度。ノルガード王国ではごく普通の町の人口ほどにすぎない。

「まだまだ足りないとは思いますけど――五千ほどのあてならありますわ」

「本当か?」

 ベアトリスの予想通り、エルロイはこの情報に飛びついた。

 下手に大量の移民を募れば、ウロボロスラントの内情が他国にばれる。

 そうなればエルロイはたちまちウロボロスラント大公の地位を取り上げられ、冤罪でもでっちあげられるだろう。

 情報漏洩は防ぎたいが、マンパワーと商売相手は欲しいという二律背反にエルロイは悩んでいた。

 その悩みを正確に洞察したのはベアトリスが元王妃として為政者の立場にいた経験があることが大きい。

「ウロボロスラント西方の荒野に砂漠が広がっているのはご存知?」

「いや、開拓民以外など聞いたこともない」

「私も荒野の魔女となる前は知らなかったのですけれど。精霊を信仰する部族がいるのです。こんな北の果てだというのに灼熱の大地に生きる部族が」

「――――どういうことだ?」

 酷寒というほどではないが、冬になれば普通に雪が積もる程度にはウロボロスラントは寒い。

 灼熱の大地という表現は、いかにも似つかわしくないように感じられた。

「精霊力が狂っている――――と部族長には聞いています。そのため千年もの間、砂漠の中心のオアシスから出れずにいるのです」

 ベアトリスが偶然彼らの里を発見することができたのは、刺客から追われて空を飛んで逃げていたからだった。

 そうでなければ旅人はあの砂漠を越えてオアシスにたどり着くのは不可能であろう。

「その点、エルロイ様は問題ありませんし」

 ユイが持つ影疾走は、外の環境が灼熱であろうと酷寒でろうと気にする必要はないある意味万能の移動スキルである。

「もしあの精霊力の狂いを治すことができたら、あの部族はエルロイ様に忠誠を誓うと思いますよ?」

「なんて名前の部族なんだ?」

 そう答えたときにはエルロイの気持ちは決まっていた。

 新たな民と新たな生存領域、それを知って放置する余裕はこのウロボロスラントにはない。

「――――確か、ヘレス」


 

「せっかく戻ってきたばかりですのに」

 村長やゴランたちは、再びエルロイたちが出発するのを不本意そうに見送った。

「護衛役もあがったりだよ」

 灼熱の砂漠ということもあって、ついていけないガリエラとユズリハも渋面を隠さない。

 彼女たちはそもそもコーネリアやマルグリットにエルロイの護衛をするよう命令を受けてこのウロボロスラントへやってきたのだから当然であった。

「すまない。不在の間ラングドッグ村をよろしく頼む」

「すいませんねえ。結界を張れない人間はたぶん半日もしないで干上がってしまうところですから」

 エルロイの身体がユイの影の中にトプンと沈む。

「では、行ってまいります」

 そう告げるとベアトリスは空へと舞い上がった。

「…………さすがは荒野の魔女」

「宙に浮くだけならまだしも、どうやって飛行状態を制御しているのかしら?」

 ユイの影を追うようにして、矢のように飛び去ったベアトリスの飛行魔法に、驚きを隠せないユズリハとガリエラであった。

 もしあの魔法を軍に普及出来たら戦争の様式が変わるであろう。

 伊達に数百年の歳月を生き抜いてきたわけではないらしい、と背筋に寒いものが走る二人であった。



 何もない漆黒の空間であるユイの影のなかで、何かにぶつかるような衝撃がある。

「なんだろう?」

「…………あの女がいう精霊力の狂いというのは本当のようですね」

「要するに?」

「私の影に抵抗する精霊力が働いているということです」

 よほどの強力な結界でないとユイの影の侵入を防ぐことは難しい。

 正直なところノルガード王国の宮廷魔法士が張る程度の結界は、ユイならば容易く突破が可能である。

 さすがに国王の居室は難しいだろうが、馬鹿王子の部屋ぐらいならほとんど素通り同然であろう。

 そのユイの影に衝撃が伝わる、ということは相当な精霊力の強度であるはずだった。

「いったん外にでましょうか?」

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