第55話 海の民

 後頭部に柔らかい弾力を感じる。

 無意識に頬をその柔らかさに押しつけると、何とも言えず心地よい香りがエルロイを包んだ。

 どうやら自分が膝枕をされているらしいことにようやくエルロイは気づく。

「うん…………?」

 右手が動かない。というより二の腕のあたりから柔らかい何かに埋もれているような感覚がある。

 目を開けると心配そうに上から顔を覗き込むユイの顔と、添い寝するように右手に絡みついているベアトリスの顔が視界に飛びこんできた。

「どういう状況……?」

「エルロイ様はあの海神を倒して……魔力切れで倒れてしまったのです。意識を失ってからまだ五分も経っていません」

「本当にすごかったですエルロイ様…………」

 ユイはともかく、ベアトリスはエルロイの本気を初めて目撃した。

 海神はその辺の魔物とは違う歴とした神である。

 厳密には神として信仰されている高位の魔物なのだが、その存在感と力はもはや神の領域と考えてよい。

 それを曲がりなりにも撃退したエルロイの力は明らかにベアトリスの知る一流の枠組みを超えるものであった。

 疑似的な不老不死を達成している自分でさえ、神と戦えば逃げるのが精一杯なのである。

 コーネリアとマルグリットを奪還した戦いでも、規格外の強さを見せつけたエルロイだが、まだ人を逸脱したというほどではなかった。

 同じ魔法の使い手として、自分が見こんだ男の凄みを見せつけられベアトリスの好意は天元を突破する勢いであった。

「すごい! すごすぎです!」

 興奮に導かれるようにベアトリスは巨大なメロンのごとき胸にエルロイの右腕をかき抱いた。

「うわっ! ちょっ!」

 どこまでも柔らかな感触が右腕を刺激して、「はふぅ」と間抜けな声がエルロイの口から漏れる。

 もちろんそれを黙って見過ごすユイではなかった。

「ご主人様! 大きいだけの堕乳に騙されてはいけません! 形と張りなら絶対に私の勝ちですからっ!」

「わぷっ!」

 膝枕の体勢から、エルロイに覆いかぶさるようにしてユイは自らの胸にエルロイの頭を埋もれさせたのである。

 柔らかく弾力的な魅惑の空間に顔を埋めながら、呼吸困難になるエルロイであった。

「し…………死ぬ……胸に溺れ死ぬ」

「あ~~~~取りこみ中失礼だが、助けたほうがよいか?」

「た、……助けて」

「お嬢さん方、離してやりなされ。お前さん方の大事な人が死ぬぞい」

「「はっ!」」

「…………そっちのお嬢さんもじゃ」

「はうっ!」

「ガリエラ、お前もか…………」

「ああっ! トルケル様! しっかりして!!」

 爆発に巻きこまれたトルケルを膝枕していたガリエラもユイのように頭を巨乳に抱き寄せいたらしい。

 危機一髪、窒息寸前のエルロイとトルケルを救ったのは、船を寄せ上陸してきた海の民の老司祭であった。

 醜態を晒していたエルロイに対して、微塵の躊躇もなく老司祭は跪いた。

「海神の大司祭ディンゴと申します。我が神を取り戻せたのは貴殿のおかげだ。我が海の民を代表し心より感謝申し上げる」

「ウロボロスラントの大公でエルロイ・モッシナ・ノルガードだ。いやいや、こちらこそ助かったよ。あのままなら負けていたのはこっちだった」

 掛値なくエルロイの本音であった。

 もしあの海神が堕ちたままであれば、今頃は再生を果たしエルロイたちはこの世にはいなかったであろう。

「堕ちたる神を探して幾星霜。ようやく見つけた神も我らの力では正気を取り戻すこと能わなかった。我らのできることであればなんなりと申しつけいただきたい」

 はらはらとディンゴは感極まったように涙を流した。

「まさか私の代で海神を取り戻すことが叶うとは……人生これほどの名誉がありましょうか」

「そんなに以前から?」

「記録によれば三百年近くは昔のことになります。あの憎き女神ルシェイドの呪いにより、我が海神は悪神に堕とされたのです」

「女神ルシェイドって……まさかメイザード神聖国の?」

「あれは中部で一度滅んだルシェイド皇国の残党が立ち上げた新たな国家にすぎません。我が海神が呪われたのと同様、女神ルシェイドもただではすまなかったのです」

「知っていたか? ベアトリス?」

「――――いえ、マールバラ王家は小国でしたから、それほど大陸中部の情報は……」

 滅んだということは女神ルシェイドも海神のように堕ちたか、あるいはしばらく回復不能なダメージを負ったのだろう。

 その結果、ルシェイドの存在に頼りきっていたルシェイド皇国は滅亡したということではないだろうか。

「我ら海の民は国家ではありませんですのでな。五大商家と三大水将が合議で民の方針を定めはしますが、基本的に自立自尊の自由民です」

 ディンゴは咳払いをして居住まいを正す。

「――――ゆえにこそ、海神の不在は正しく我ら海の民の存亡にかかわる大事でございました。かろうじて信仰を繋ぎとめて参りましたが……」

 大海に浮かんだ人の力はあまりに小さい。船が沈めば船員は一人の例外もなくおぼれ死ぬ。だからこそ海の民の海神に捧げる信仰は絶大だった。

 だが海神の加護がなければ、孤独な航海を支える精神的な別の支柱が必要になるのは道理だ。

 いつの間にか海の民のなかから信仰の団結が失われ始め、中には戦争によって港を奪うべきだと主張するものまで現われた。

「もしあと一世代神の奪還が遅れていたらと思うと……ここでエルロイ殿下の助けを借りられたのは奇跡でありました」

 人跡未踏の魔物の領域、ウロボロスラントでエルロイやユイのような高度な魔法士とめぐり合う可能性は本来なら皆無に等しかった。

 海の民の神官の力だけでは海神の目を覚ますことはまず不可能であったろう。

「それにしても――ノルガードというとエルロイ殿下はノルガード王家の?」

「ええ、第五王子でしたが、このウロボロスラントへ追放されて来ました。ディンゴ殿にお願いなのだが、我がウロボロスラント公国と同盟と交易条約を結ぶわけにはいかないだろうか?」

「それくらいなら造作もありません。神殿の責任において必ずや」

「――――助かる。我が公国には若返りの光冠草を始め鉱物資源にも恵まれているのでね」

「なんと! そのような宝の山が辺境に埋もれていたとは!」

 エルロイの言葉が真実であるとすれば、ノルガード王家は北部随一の宝を自ら放り出したに等しい。密かにノルガード王国との貿易縮小を決意するディンゴであった。

「もし可能ならこのホルラトの村の港の整備も支援してもらえるとありがたい。この村が当面、海の民との交渉窓口になるだろうからね」

「早速、海界(ニライカナイ)へ戻り手配をいたしましょう」


 こうして海神との死闘は望外の幸運をエルロイにもたらしたのである。

 海の民は海上においては大陸最強の一角であり、その交易における資産は優に数か国の国家予算を凌駕した。

 その販路と海軍力をあてにできるということは、人口と経済力で貧弱すぎるウロボロスラントにとってまさに天祐でしかない。

 生きるか死ぬかの目にあったとはいえ、やはりエルロイの重大な危機下における幸運(オールオアナッシング)の効果は絶大であった。



 改稿作業が終わったら更新速度あげていきますのでもう少々お待ちください。

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