第54話 決着

「祝詞をあげよ!」

 船団から神官らしき男が立ち上がった。

 朗々と始まる祝詞の歌声。

 その歌声が海神に届くやいなや、再生しつつあった海神が不快気な悲鳴のような声をあげた。

「長き我らの宿願! 我らの守り神、海神(わだつみ)を取り戻すときは今ぞ!」

 どうみてもホルラトの民ではない第三者の介入に、エルロイの肩から力が抜ける。

 正直、かなり救われた思いであった。

 現に海神は謎の祝詞によって動きを止められている。

 これなら再生したとしても、先ほどまでと同じ力を発揮するのは難しいだろう。

「――――何者だ?」

「おそらくは海の民ですね。なぜ彼らがこんなところにいるのかはわかりませんが」

 エルロイの問いにトルケルが答えた。

「海の民?」

「どうしてこのような北の地にいるのかはわかりませんが……中部と南部の海を住処とする特殊な民です。こと海上において彼らに勝る勢力はないと聞いております」

「噂には聞いていたけれど、ようやく繋がったわ。そういうことだったのね」

 何かを悟った体でしきりに頷くベアトリスにエルロイは目線で尋ねる。

「海の民はいかなる国家にも属さない。その団結はどこからくるのか国家の指導者はやっきになって探っていたのよ。その調査の結果わかったのは、彼らはある種の宗教によって共同体を構成しているということだったの」

 かつてベアトリスがマールバラ王国の王妃であったころ、海上貿易の相手として海の民の名は有名だった。 

 この北の地までやってくる商船は少なかったが、船の大きさ、速度、艤装全てがマールバラ王国のものとは比べ物にならなかったものだ。

「まさか…………あれを?」

 エルロイが怪訝そうにグロテスクで見る者に恐怖しか与えなそうな海神を指さすと、ベアトリスは薄く嗤った。

「神が穢れて魔物に堕ちる――別に珍しくもない神話のお話ですわ。実際にこの目で見れるとは思っていませんでしたけれど」

「つまり彼らは自らが信仰する神の狂気を取り払うため、遥々この北のへき地まで海神を追ってきたというわけか」

 北の海は穏やかな南洋と違って、恐ろしく冷たく、そして危険だ。

 それでも宗教的信仰心が理由であるならば、理解できないことはなかった。

 かつて前世で神職を務めていたエルロイは、ふと彼らに尊敬とも羨望ともつかぬ感情を抱いた。

 神があの様になってさえ、揺るがぬ信仰を抱き続けるということは、とても美しいものに思われたのだ。

「――――強き人よ!」

「うん?」

 明らかにエルロイへ向けた呼びかけだった。

 たまたま乱入してきえ都合が良かったとはいえ、互いに面識はなく敵か味方かもわからない相手である。

 だが、状況からして協力したほうがよいことは自明であった。

 信仰に関わる問題だけに彼らも必死なのだろう。

 年長の司祭らしき老人は叫ぶ。

「我らの力及ばず、穢れが再び浸食しつつある。願わくばもう一度我が神を吹き飛ばしてくれまいか?」

「簡単に言ってくれるぜ」

 あの核分裂術式は現状エルロイの切れる最強の切り札だ。

 制御に膨大な集中を要するのはもちろん、放射能を撒き散らさないために圧縮と封印まで手間がかかる。実のところこうして立っているだけでも膝が笑うのを抑えることができない有様だった。

(――――だからどうした!)

 それが勝てる唯一の手段なら躊躇なくそれを使う。

 逃げるという選択肢を捨てた以上、それしか手は残されていないはずだった。

 むしろ海の民の登場がなければ、あの場でエルロイが、あるいはユイがあの海神の犠牲になっていた可能性が高い。

 躊躇する理由は何もなかった。

「――――やってやるよ」

 なぜかエルロイの口元が楽しそうにつり上がっていく。

 今や海神は全身の復元を完了しようとしていたが、あの禍々しい触手や牙の数が半減している。

 先ほどまでの圧倒的な威圧感がもはや感じられなくなっていた。

 今なら勝てる――その確信がエルロイにはあった。

「神か何か知らないが、せっかく崇めてくれてる信者を悲しませんじゃねえよ!」

 神職であったエルロイは、神に見返りを求めてはならないと考えている。しかしそれは神が人間を見守ってくれていると信じるからこそのことだ。

 神は願い事を叶えてくれる便利な存在ではない。人の心の在り方を見守ってくれる絶対の信頼を寄せられる象徴である。

 少なくともエルロイはかつてそうして神職を務めてきた。

「祟り神はご退場! ってな!」

 魔力を集中させるエルロイの足元がぐらりと揺れた。

 先ほどの核分裂術式で魔力が不足しているのを無理やり起動しようとした弊害だった。

「―――ご主人様」

 足元の影から感じるユイの魔力。

 使い魔であるユイの影との空間と魔力の共有によって、エルロイの魔力欠乏は急速に回復していった。

「ありがとうユイ」

 同じ魔力と影を共有する使い魔の存在は、エルロイが決してひとりではないことを認識させた。

 さすがは頼りになる使い魔――ある意味家族以上に近い存在であった。

 二人の絆の深さを見せつけられる形になったベアトリスは、不機嫌そうに頬を膨らませた。

「私だって魔力供給くらい…………」

「すまんベアトリス、力を貸してもらえるか?」

「は、はいっ! お任せくださいですわ!」

 ぱっと表情を輝かせてベアトリスは右手をエルロイに差し出した。

 手のひらからベアトリスの魔力がエルロイへと流れこむのがわかると、今度はユイが不満そうに頬を膨らませた。

 さすがに今は、あの海神を倒すためには仕方がないと割り切っているが、乙女心は複雑なのだ。 

 男冥利に尽きる光景でも、エルロイの心は全て海神へと向けられていた。浮ついていられる余裕は、あの堕ちた神を相手には微塵も持てなかった。

(さっきのは収束が甘かった…………)

 それが問題にならないくらい高威力ではあったが、今度は万に一つも失敗は許されない。

 そればかりでなく制御に失敗すれば、爆発は生き場を失って、エルロイとその仲間たちも巻きこんでこの地を放射能で汚染するだろう。

「――――とっとと悪夢から目を覚ましやがれ! 堕神! 核撃(ニュークリアフュージョン)!」

 ユイとベアトリスから託された魔力と、残り僅かな全魔力を振り絞ってエルロイはほぼ全身を復元していた海神を根こそぎ焼き払った。

 収束しそこねた超高温で海面が沸騰し、圧力で海底が見えるほどだったが、今度こそ跡形もなく堕ちた海神はこの地上から消滅したのである。

「いまじゃ! 全精力をそそぎこめ!」

 海の民は正しくここが正念場と言わんばかりに祝詞を捧げた。

 彼らにとって、守護神である海神(わだつみ)が穢れに堕ちたのはこれが実は三度目のことであった。

 民の信仰によって清められている海神が堕ちる理由はいつも同じである。

 信仰の担い手である聖職者と民が堕落するか、あるいは為政者によって信仰を捻じ曲げられるかのどちらかだ。

 海神(わだつみ)の総本山であるポセイディア、その大主教の地位をめぐり血みどろの闘争が繰り広げられた。

 海の民の海上交易の莫大な収入から寄付金を得られる大主教の地位は、誰もがうらやむ権力と財産を保障してくれるものだ。

 いつしか信仰心を失っていた聖職者たちは大きく三つの派閥に割れて醜く争いあった。

 民を導くべき聖職者が物欲に溺れ争っていれば、当たり前だが民はそんな神殿を見放し信仰から離れていく。

 そして買収と暗殺の果てに、もっとも凶悪で無慈悲な男が大主教となったそのとき、海神は堕ちた。

 堕ちて大主教と神殿を丸ごと海の底深くに引きずりこんで、聖職者とその従者数百人を道連れにポセイディアは壊滅したのである。

 不幸中の幸いというべきか、ポセイディアとは離れた副王都アポロニアに世俗派とは一線を画した隠者派と呼ばれる聖職者たちが残っていた。

 彼らは失われた神を取り戻すため、この数十年以上を神の捜索と浄化を達成するべく全力を挙げていた。

 その成果としてこのホルラトの村近くに堕神とその眷属が住みついていることを発見したのは実は数か月前に遡る。

 しかし眷属を排除して神の穢れを払うには、彼らの戦力はあまりに乏しかった。

 いかに海の民といえども、この北の海に大戦力を集中することは危険が大きすぎたのだ。

 切歯する思いで機会を待ち続ける間にも、慣れぬ北の大地で遠征に参加した神殿の仲間はひとり、またひとりと数を減らしていった。

 もう彼らに二度目のチャンスはない。

 正しく命を捨てる覚悟で全精力を傾けた彼らの祈りは、エルロイの核撃で穢れた身体を吹き飛ばされた神の元へと届いた。


 ――――パキーーーーーーーーン!


 何か途轍もなく硬い物が砕けたような、硬質の響きがこだました。

「やったか?」

 エルロイの核撃に吹き飛ばされ、何もなくなった空間に、ゆっくりと海神の身体が再生を始める。

 これでまだあの堕神が誕生したらもう勝ち目はなかった。

 固唾を飲んでエルロイたちと海の民たちが見守るなか、巨大な三又の鉾が光とともに生まれた。

「ト、トリアイナ!」

 それは海神の持つ神器で、一振りで津波を引き起こし、また突き立てればたちまち海が割れたという。

 海神が堕ちてからはいずこともなく消えていた武器だっあ。

「おおおおおおっ!」

 失われていた神器の出現に、ついに念願が叶ったことを予感した司祭は感涙に咽んだ。

 蛍のような淡い光がぽつりぽつりと宙を舞い、神秘的な七色の光が明滅する。

 そして再生されていく巨大な身体は、あの生理的嫌悪感を催す怪物の醜悪な姿とは明らかに異なっていた。


『小さき者よ。穢れから解放してくれたこと、礼を言うぞ』

「ああっ! 我が海神(わだつみ)! この日をどれだけ待ち望んだことか!」


 光の収束とともに現われたその姿は、三つの首を持つ巨大な竜であった。

 今度こそ悪しき海神(ダゴン)が消失したことを確認して、エルロイは全身の力が抜けてそのまま仰向けに砂浜に倒れこんだのである。



 書籍化に伴う大幅な改稿のためまたしばらく更新が遅れます。

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