第53話 神の実力
「…………でけえ」
遠浅の浜辺から姿を現した巨体にエルロイは目を見張る。
身長はおよそ三十メートルには達するであろう。
魚とも蛸ともつかぬ異形の身体が発する強者の気配は確かにエルダーサイクロプスの比ではなかった。
そして主を守るようにして数千もの半魚人たちが、特徴的な銛を手に海をかき分けて進んでいた。
神話の世界から飛び出したような威容に、ホルラトの村人たちは恐慌をきたし、自らの不遜を呪った。
どうして自分たちはすぐに逃げることを選ばなかったのか。
あんな存在を相手に人間が勝てるはずがなかった。
「影(シャドウ)の断頭台(ギロチン)!」
そんな村人たちの絶望を歯牙にもかけずユイが放った影の刃が、半魚人たちの太い首を次々と斬り落とす。
しかしさすがというべきか、海神の肌を滑るようにして影は力なく弾き飛ばされただけであった。
「手強いわね……私の影が侵食できないなんて」
ユイは自分の影が海神になんのダメージも与えられなかったことに眉を顰めた。
影の魔力が海神の魔力防壁を突破できなかったのである。
かつて竜の魔力防壁すら突破したユイの影が、だ。
「気を落とす必要はありません。今は雑魚を一掃することに集中しましょう」
最初からこの事態を想定していたベアトリスは冷静であった。
まだ放浪の旅を続けていた頃、偶然に海神に遭遇したベアトリスは危うく魔力の全てを失いかけた経験がある。
まだ若返りからそれほど間がなかったはずなのに、ほぼ全ての魔力を投入して互角を維持するのが精一杯だった。
大技以外ではいかにユイでも傷ひとつつけることも難しいはずだ。
「…………少し癪に障るわね」
まだ奥の手がないこともないが、通用するかどうかは微妙だとユイは判断した。
やむをえず影の矛先を半魚人たちへと向ける。
目標になった半魚人たちにとっては災厄というほかはない。
海神ほどの魔力防壁を持たない半魚人はなすすべもなく影に飲みこまれ、抵抗することもできぬままに次々とミンチへ変わった。
数千を超える数もまるで問題にならない。
蟻が少しばかり数を揃えたところで一頭の象には歯が立たないのだ。
同時にそれは、エルロイ達にも言えることであった。
海神にとってエルロイ達が蟻でないという保障はどこにもないのである。
「ガアアアアアアアアアアアアアア!」
眷属たちが壊滅してしまったのを見た海神は怒りの咆哮をあげた。
こんな怪物でも仲間を殺されるのには怒るのか。
あるいは神である傲慢が、人間の反抗を許容することができないのか。
怒りの咆哮はすぐに圧倒的な水の奔流となってエルロイたちに襲いかかった。
「影よ渡れ!」
海神の体そのものには侵食できなかったが、攻撃の手段である水に対してはユイの影が効果を発揮する。
一番の回避手段は影の世界に逃げることなのだが、それではホルラトの村が水没してしまうのでやむを得ない判断だった。
「……くっ! 勢いが…………」
「土壁(アースウォール)複合展開(フラクタル)!」
怒涛の勢いを完全に防ぐことのできなかったユイを、ベアトリスの魔法が助ける。
一国の宮廷魔法士を凌駕する二人の技量をもってして、海神の小手調べを防ぐのが精一杯であった。
やはり相手が悪かったのではないか。
ベアトリスはもちろん、ユイの胸中にも暗い思いが湧き上がっていた。
(最悪の場合、私が犠牲になって…………)
ユイにいたっては自らを犠牲に、あの海神とともに影の世界へ封印することすら検討を始めたときである。
「悪い。待たせた」
エルロイはようやく用意していた切り札のひとつを切ろうとしていた。
「人間と違って海神には毒は効かないからなあ…………」
人間相手なら、毒や場合によっては空気ですら強力な兵器と化すことができる。
しかし海神のような魔物にはそうした搦め手は通用しない。
純然たる攻撃能力が必要となるのである。
「点火(イグニッション)は使い勝手はいいんだが、どうしても威力がなあ」
点火の術式は単に銃の構造を魔法で模倣しただけだ。
それでも並の銃弾より早い千メートル/秒を実現しており、その速度は人間の動体速度を超えている。
だが魔法の力を利用すれば、さらに圧縮を重ね熱量を極限まであげることが可能だ。
それでもこの海神には通用しないだろう。
「生憎と秒速千キロは実現できなかったが…………」
理論的には秒速千キロ以上のスピードで重水素と三重水素を衝突させることができれば核融合反応が可能である。
もっともそのためには一億度近い熱が必要で、太陽の中心温度が千六百万度だからいまだ見果てぬ彼方の話ではあるのだが。
「――――でも、核分裂ならなんとかできないでもない」
プルトニウム239は自然界には存在しないが、ウラン235はこの世界にも存在する。
解析の過程でそれを発見したエルロイはこの日のためにその精製を終了して、ユイの影のなかにそれを保管していた。
ウラン型原爆の構造自体は単純である。
核分裂の中心となるウラン235をタンバーで覆い、三百六十度均等に爆縮してやればそれだけで核分裂反応は始まる。(これはヒロシマ型原爆のガンバレル方式とは異なる)
さらに核分裂反応のエネルギーを圧縮し、指向性をもたせてやればその攻撃力は何十倍にも跳ね上がるであろう。
現状エルロイが切りうる最大の切り札であった。
「ぶっとべ怪物!」
原子爆弾の中心温度はおよそ百万度を超えるという。
その全てを焼き尽くす超高温が、猛烈な爆発エネルギーとともに海神へと叩きつけられた。
いかに超絶の怪物といえど、抵抗できるようなエネルギーではなかった。
ほぼ一瞬にして海神の体表は沸騰して泡立ち、さらに爆風で千切れながら蒸発して虚空へと消えていった。
気がついたときには海神の身体は消失し、ただ海面の下に隠れていたヒレのついた足だけがぽつりと残されていた。
そしてスローモーションのようにゆっくりとその足も倒れていき、水しぶきとともに海面下へその姿を消したのである。
「はんっ! 人間なめんなよ、神」
額から滝のように汗を流しながらエルロイは会心の笑みを浮かべた。
思っていたとおり、制御に要する集中力と魔力が半端ではない。
だが、その労力に十分見合う破格の破壊力であった。
これは兵力で比べるのも億劫なほど弱小のウロボロスラント公国が、今後生き延びるための切り札でもあるのだ。
ぶっつけ本番ではあったが、確かな手ごたえをエルロイは感じていた。が――――
「――――おいおい」
一瞬にして疲労の汗が冷や汗へと変わる。
倒したはずの海神の足から再生が始まったのである。
次第に上半身が復元されていき、背中や腕が形造られていく。
生物ならありえない再生能力であった。
これでは事実上、あの海神をエルロイが倒すのは不可能ではないか。畜生、神ってのはプラナリアか何かか。
青い顔をしてユイが背中にエルロイを庇うように前に進み出た。
自分を犠牲にエルロイを守る覚悟を固めたのだ。
もちろんそんなことを認められるエルロイではなかった。
今度こそは再生ができなくなるまで吹き飛ばしてやる――そんな薄い勝算に全てを懸けようとしたそのとき。
エルロイが持つもっとも強大でもっとも使い勝手の悪いスキル、重大な危機下における幸運(オールオアナッシング)は発動した。
「海神よ! 今こそ正気を取り戻したまえ!」
「千載一遇の好機ぞ! 穢れを払い、我らが海神(わだつみ)を取り戻すのだ!」
海上から数隻の船に乗った謎の一団が姿を現したのである。
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