第39話 兄嫁が未亡人になって押しかけてきた 第一部 完
ムートンの言葉に二人は息を呑む。
このまま時間が過ぎれば魔道具の効力が切れるし、手あたり次第に火を放たれても逃げきれないことは明らかだ。
「…………コーネリア」
「いやです」
姉が自分が囮となろうとしていることを察して、コーネリアは一言のもとに切って捨てた。
それにあの男爵は、魔法か魔道具か知らないが、こちらの大体の場所を特定できるようだ。
まさか匂いで追われているとはコーネリアは気づいていない。もし気づいていたら、このところ入浴もしていない自分に羞恥で悶え苦しんだことだろう。
「早くしないと間に合わなくなりますよ?」
ムートンは兵たちを円状に配置してマルグリットとコーネリアを完全に包囲した。
この状態で火を放たれれば二人は確実に焼死する。
断腸の思いで二人はエルロイに託された魔道具を停止させた。
「そんなところに…………」
「私たちをどうするつもりですか? アルム男爵」
つい今まで、絶対に誰もいなかった場所に、二人が佇んでいるのを発見したムートンは驚愕に息を呑んだ。
いったいどうやって隠れ通すことができたのか。
そんな疑問がムートンの頭をかすめたが、それ以上に彼の視覚を刺激したのは庶民の衣装に着替えてもなお隠し切れない二人の美貌であった。
アンヘルやヘルマンの基準が異常なだけで、ムートンのような男爵程度の貴族にとって、マルグリットとコーネリアはまさに高嶺の花であり、これほど
の美女とめぐり合う機会はないに等しかった。
「貴女方の身柄をお預かりします」
「お断りするわ」
「お立場というものを考えて欲しいですな。今や貴女方は我が国にとって敵国の王女なのですよ?」
「もう私たちの祖国じゃないわ」
「――――忘れてもらっては困りますな。貴女方の生殺与奪は私が握っているということを」
そう言ってムートンは凶暴な笑みをむき出しにした。
ここにマルグリットとコーネリアがいることを知っているのは自分だけだ。
政治的に利用するのも価値があるが――その気があれば人知れず愛妾として飼うことだって可能なのだ。
そう考えてムートンの瞳に獣欲の色が浮かんだのを敏感に察したマルグリットとコーネリアは嫌悪感に身を震わせた。
こんな男に身を任せるくらいなら、いっそ死んでしまったほうがいいのではないか。
「さあ、いらっしゃい」
「きゃあああっ!」
「ちょ、コーネリアから離れなさい!」
ムートンは乱暴にコーネリアの右手を引き寄せる。
コーネリアの華奢な身体がまるで羽のようにムートンの胸へと抱き寄せられ、マルグリットは必死にムートンの腕を振り払った。
そのとき――――
大事にコーネリアが握りしめていたエルロイから渡された大切な魔道具が、ぽとりと地面へと落ちた。
「あっ!」
慌てて大事に魔道具を抱えなおすコーネリアの反応に、ムートンはピンとくるものがあった。
見たところなんの変哲もない手鏡のように見える。
高貴な女性が持っていても不思議はない程度に装飾されているとはいえ、それだけで今のコーネリアの反応は説明がつかない。
「なるほど、それが貴女方が隠れていられた原因というわけですか」
びくりとコーネリアの肩が震えた。
そこに確かに存在するにもかかわらず、いるということを認識できない魔道具。
その価値はある意味マルグリットとコーネリアの身体をも上回る。
ムートンの部下に犬並みの嗅覚スキルを持つ人間がいなければ、二人を見つけることは叶わなかったであろう。
悪意をもって使うならば、どんな場所に忍びこむことも可能であろうし、盗み放題、殺し放題の力が手に入るようなものだ。
「それをよこしなさい」
「いやっ!」
絶対に離すまいと抵抗するコーネリアに、ムートンは容赦なく平手打ちを浴びせた。否、浴びせようとした。
だが、ムートンの手は大地から生えた黒い影によって完全に拘束されていた。
「な、なんだこれは…………?」
理解が追いつかない。
この影はいったいなんなのか。そもそもなぜ影に実体を拘束する力があるのか。
「――――それは俺が彼女にあげたものだ。薄汚い手で触れるな」
ずっとずっと聞きたいと渇望していたその声を聞いた瞬間、まるで決壊したかのようにコーネリアの瞳から涙が零れた。
「エルロイ君!」
「遅くなってごめんね。コーネリアお義姉様。ちょっと探すのに手間取って」
危ないタイミングだった、とエルロイは思う。
ここまで合流が遅れてしまった原因は、マルグリットとコーネリアが身を守るために展開していた防御結界である。
対物理、対魔法の防御用の結界で休息中の安全を確保していたのは正しいが、そのためにベアトリスの「運命の指針(フェイトガイドライン)」で捜索しても二人の居場所を探り当てられなかったのだ。
運命の指針(フェイトガイドライン)も万能というわけではなく、応用範囲が広いだけ簡単な魔法で妨害されてしまうらしい。
二人が結界を解除するのが夜間の移動中と気づき、小さなすれ違いを繰り返し今日ようやく発見することができたのは、ムートンが見た目にも派手な山狩りを実施していたせいもあるだろう。
いずれにしろ危機一髪のところでエルロイは間に合ったのである。
「コーネリア様! ご無事で!」
「姫様! お怪我はありませんか?」
颯爽と登場したエルロイというヒーローへ駆け出そうとするよりも早く、ガリエラとユズリハががっちりと二人を拘束した。
二人とも心底主君を心配していたので、やむを得ないところではあった。
「さて、この二人は俺が連れていく。まさか逆らうとは言うまいね?」
「私が従うとでも?」
ムートンが目がくらむのも無理はなかった。
一国の王女、しかも目が覚めるような美女が二人に、国宝級の魔道具を目の前にぶら下げられて簡単に諦められるほうがどうかしている。
「逆らうだけ無駄だから言っているのさ」
「な……これはっ!」
腕を拘束していた影がぞわぞわと喉元へと這い上がる。
ムートンは咄嗟に部下に助けを求めようとしたが、その場にいた兵士と住民の全てが完全に影に拘束されてしまっていた。
こんなことができる人物に、ムートンは一人だけ心当たりがあった。
「影使い(シャドウマスター)…………」
「皆殺しにされるほうが好みかい?」
「め、滅相もない! わわ、私は何も見ておりません! な、何も知らない!」
「うん、それが賢い生き方だね」
一国が総力をあげるべき魔王のごとき災厄。
そんなものがエルロイを守護しているとすれば、たかが一男爵が逆らうなど自殺行為以外の何ものでもない。
そしてその事実が今まで秘匿されていたということは、自分が触れてはならない裏があるのだと、弱者特有の勘がそう告げていた。
「ご苦労様、悪夢と思って忘れるんだね」
「は、ははあっ!」
影による拘束が解除されると、ムートンと一党は挨拶もそこそこに転がるようにしてその場を離れていった。
いかなる野心も身体で覚えた生命の危機の前には、何の障害にもならなかった。
「――無事で良かったよ」
ようやくガリエラとユズリハの感動の拘束から逃れたコーネリアとマルグリットにエルロイが微笑む。
「全然無事じゃない!」
ぼろぼろと涙をこぼしたままコーネリアが叫ぶ。
「すごくすごく寂しかった!」
「ごめんね」
コーネリアの足が無意識にエルロイへと駆け出す。
もう会えないかもしれないと覚悟した。
ヘルマンの妻になるのだ、と一度は諦めた夢だった。
でも、もう我慢する理由は何もない。
「大好き!」
「んむっ??」
抱きしめてあげようと両手を広げたところを、カウンターのように熱烈な口づけをもらって、エルロイは間抜けな声をあげた。
「何をやらかしてくれてんですかああああああ!」
「空気読みなさいよ」
反射的に暴れだそうとしたユイをベアトリスが抑えこんでいる。
ユイも本気でないとはいえ、ベアトリスもなかなかに侮れない力の持ち主であった。
もっともエルロイが冷静にそんなことを考えられたのはずっと後のことである。
酸欠になりそうな長い長い口づけが終わり、ようやくコーネリアの唇がエルロイから離れた。
「ヘ、ヘルマンにも許してないのよ! わ、私のファーストキスなんだから!」
真っ赤になって俯きながら叫ぶコーネリアに、エルロイは困惑して返す言葉がなかった。
もちろんうれしい気持ちもある。心臓も痛いほどに揺れている。
しかし――――
「――――人妻はまずくありませんか?」
エルロイが無意識のうちにマルグリットとコーネリアを恋愛の対象から外してたのは、前世と今生の倫理観によるところが大きかった。
そんなエルロイの鼻先を、マルグリットは人差し指で軽く弾いて満面の笑みを浮かべた。
「もう人妻じゃないわ。伴侶を失った《未亡人》には自由に恋愛する権利があるの。覚悟しておくことね」
「マルグリットお義姉様、貴女もですか」
なぜか兄嫁たちが未亡人になっておしかけてきた。
がるるるる、と威嚇しているユイを見て困ったことになった、と思いつつも、どこか心が浮きたつのを抑えることのできないエルロイであった。
第一部 完
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