第35話 脱出

「な、なんだ?」

『流離いの魔導書(グリモワール)、そしてご主人様第一の使い魔はこの私、賢き怠け者(クレバーレイジー)アイアスってこと!!』


 たちまち三メートルはありそうな巨大ゴーレムが錬成され、その声の主がゴーレムの手のひらに浮かぶ魔導書にあるらしいことにコーネリアは気づいた。

「怠け者って…………」

『そこっ! 余計なところに突っ込まない!』

 気分を害したような声こそするが、ゴーレムの手のひらでふらふらと浮遊するのは古ぼけた魔導書(グリモワール)が一冊。

「人格付与魔導書(インテリジェントグリモワール)だというのか……」

 副官の目が驚愕に見開かれた。

 かつてこの大陸にまだ神と使徒が暮らしていたころ、神は人間を導くために十二冊の魔導書を与えたという。

 しかしそうした魔導書の多くは、メイザード神聖国が主導した焚書によって焼かれてしまい現存していないと思われていた。

 もしノルガード王国がそれを承知で保管していたのだとすれば、メーザード神聖国を敵に回すということでもあるのである。

『ちょっと道を作ってあげるからその間に逃げてねってこと!』

「もしかしてあなた、エルロイの――――」

 エルロイの名を口に出して、コーネリアは胸をキュンと締めつけられるような衝動に襲われた。

『ご主人様もあまり女性の趣味はよろしくないわよねってこと!』

「なんでよ!」

『人妻は倫理的にアウトってこと!』

「まだ結婚の宣誓はしてないわっ!」

『婚約している時点でアウトだと思うってこと!』

「ぐぬぬ…………」

「お前らいい加減にしろ」

 苛立たし気にコーネリアを斬り殺そうとする副官を衝撃波が襲う。

 先ほどからこの不可視の衝撃波がコーネリアに近づく騎士を吹き飛ばし続けているのだ。

 だが、聖堂内にいる兵力はヴェストファーレン王国側が八割に達しようとしており、時間の経過はこちらの利であるはずだった。

 なのに第六感が副官に危機が近いことを告げている。

(今さらいったい何が――――)


『準備できた? はい、ど~~~~んっ! ってこと!』

「んなああああああっ!?」


 聖堂内に突如発生した竜巻に敵も味方もいっしょになって吹き飛ばされていく。

 訓練に訓練を重ねたヴェストファーレンの精鋭たちも、この圧倒的な超自然現象には為すすべがなかった。


「こんな魔法、長くは続かぬ! 落ち着いて敵を逃がすな!」

 自らも西側の壁に叩きつけられながら副官は叫ぶ。

 叫ぶと同時にとあることに気づいた。

「コ、コーネリア王女はどこへ消えた?」

 つい先ほどまで剣を合わせようとしていたコーネリアの姿がどこを探しても見当たらなくなっていた。

 アイアスの言う準備ができた? という問いは、コーネリアの背後から魔道具を起動させようとしてたマルグリットへ向けられていたのである。


(これ、本当に向こうからは見えなくなっているのね)

(早く逃げましょう姉さん)


 自分たちを見失って困惑している副官とその部下たちに声を殺して苦笑しつつ、マルグリットとコーネリアは顔を見合わせた。

 そんな二人の手元に、ぽとりと一冊の魔導書が落ちてくる。

『あのゴーレムで壁に穴を開けるから、あとは私はお休みするので任せるってこと!』

(本気で怠け者なのね…………)

 操り糸を失ったようにゴーレムが横へ倒れこみ、その巨大な質量によって堅牢とはいえ木造に過ぎぬ壁はたまらず崩れ落ちた。

 ぽっかりと開いた空間から、マルグリットとコーネリアは脱出する。


「第四王子もいないぞ?」

「馬鹿な! 王族だけは絶対に逃がすな!」


 聖堂内は一転してヴェストファーレン王国側が混乱を極めていた。

 彼らは千五百という寡兵でありながら王族殲滅を託された、ヴェストファーレンでも有数の武力の持ち主である。

 たとえ倍の数のノルガード近衛騎士団といえど鎧袖一触に蹴散らせる能力を彼らは与えられていた。

 しかし突発事態への対応能力は武力だけでは測れないものである。

 ましてそれが戦闘とは関係ないものであればなおのことであった。


「抜け穴があったのか?」

「卑怯だぞ! 出てきて勝負しろ!」


 そんな理不尽なことを言っても、身を隠したコーネリアたちが応じるはずもない。


(――――間一髪でしたな)

(全く、このわからずやのせいで台無しになるところだったわ)


 カトレアとマイヤーは、コーネリアとマルグリットのようにゴーレムの開けた穴から脱出しようとしていた。

 聖堂の入り口はヴェストファーレン騎士がひしめいていて、接触せずに逃げる自信がなかったのである。

 マイヤーの背中には気絶したハーミースが背負われていた。

 この傍迷惑な男は、大して強くもない癖に母アンナを助けろと言い出したのだ。

 そればかりかカトレアが持つ魔道具の力を信じようともしなかった。

 もっとも、エルロイが作成したというだけで、彼にとって信じるべき代物ではなかったのかもしれない。

 うまく隙をついて魔道具で身を隠さなければならないのに、泣きわめいて言うことを聞かないハーミースを、カトレアは躊躇なくマイヤーに気絶させることを選んだ。

(まずは領地に帰還するわ。周辺諸侯を糾合して――早くしないと王国は奴等に全て占領されてしまうわ)

(今頃はヴェストファーレン王国の大軍が国境に集まっているでしょうからな)

 速やかにノルガード王国を征服するにあたって、旗頭になりそうな王族の抹殺は絶対条件であった。

 首尾よく国王と第一王子、第二王子は抹殺できたようだが、第四王子が生き残ってしまっては効果は半減する。

(この魔道具は一刻しか保たない。それまでに追手から距離を取らないと)

(やれやれ、これでは姫のほうが王国の後継者のようですな)

 冷静な判断力、そして生死の境で堂々と行動することのできる胆力、どれをとっても男顔負けでハーミースなどよりよほど後継者に相応しい。

(お義母様がいなくなればハーミースはただの腑抜けよ――私がなんとかしなくてはこの国は潰れるわ)


 夫が殺されたマルグリットとコーネリアは立場から解放された。

 しかしカトレアは秘めていた己の欲求と立場に覚醒した、と言ってもよいのかもしれなかった。

(――――昔から私、割と英雄に憧れていたの)


「王宮を封鎖しろ! 抜け道がありそうな井戸や物置をしらみつぶしに当たるんだ!」


 いくら探してもハーミースが見つからないことに業を煮やしたランスは手あたり次第に捜索の手を広げることを選んだ。

 まさか見えない不可視となったハーミースやカトレアが、今この場にいるなど思いもよらぬことであろう。


(急ぎましょう)


 戦力を分散してくれるのならば、逃亡にはむしろ都合が良い。

 一刻が過ぎる前に、カトレアとマイヤーは王都の堀を越えて、川船が出ているデジョン川の船着場へと向かっていた。

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