第10話 じゃれあう二人
「影疾走(シャドウスカリー)」
ユイの影が矢のように地面を滑り、一瞬でその影は数百メートル先にも達した。
「参りましょうかご主人様」
「うん」
うれしそうにユイがエルロイを抱きしめると、身長差からエルロイの顔はユイのメロンのような巨乳に埋もれてしまう。
いくどされても決して飽きることのない至福の感覚にエルロイの口元がだらしなく緩み、見送りにきていたロビンの目が嫉妬の炎で暗く光った。
「報告を楽しみにしておいて」
「…………姫様に満足をいただけるような報告を期待していますよ」
「……鋭意努力します」
冷たいユズリハの視線に背中で冷や汗をかきながら、エルロイの身体はユイの影のなかに沈んでいった。
エルロイとユイの姿が影のなかに消えたかと思うと、影はまるで意思を持った生き物のように蠕動し、次の瞬間矢のように走り出した。
ほんの数秒の間に見送りっていた影は一同の視界から消え去り、最後に蛇のように蠢くものが山を登っていく姿が映った。
「二人きりになるのは久しぶりですね」
「ああ」
本来なら二日はかかるであろう距離をほんの数時間ほどで踏破し、夕闇が迫るなかをエルロイとユイの二人は焚火を起こし、野営の準備を始めていた。
今後のことを考え、ある程度の地理を把握しなくてはならないからだ。
それに影疾走は便利な技ではあるが万能ではない。
まず魔力の消費が莫大であり、さらに夜の時間帯は主人といえど影の世界に入ることはできなくなる。
もともと影使いとは、世界で最強と謳われた完全無欠の暗殺術。
夜の帳に出没し、いずこともなく命を奪い去っていく。
夜を友とし、夜とともに生きる夜の住人――本来ユイとはそうして生きるだけの女であるはずだった。
「ご主人様、私疲れました!」
がばっとエルロイに抱きつくと、ユイは甘える子供のようにエルロイの膝に頭を預けた。
もう少し身長が伸びたら絵になるのにな、とエルロイは思う。
いまだエルロイの身長は百六十センチに届かない。百七十センチを超えるユイが甘えるには少々アンバランスさが目立つ。
そんな男の子らしいプライドを知ってか知らずか、ユイは気持ちよさそうにエルロイの太ももの感触を堪能するのだった。
「こらっ! そこで匂いを嗅ぐな!」
「いいじゃないですか減るものでもなし」
「俺のSAN値が下がるだろ!」
股間にほんの少しだが確実に、甘い吐息がかかるのを感じてエルロイは慌てて雑念を振り払った。
過去の経験からいえば、余計な気力を根こそぎ奪われていたバスケ部時代の過酷な練習を思い出すと、もろもろなものが萎える。
それはそれで男としてどうかと思わなくもないが。
「ここには私とご主人様しかおりませんのに」
そう言ってユイは優雅に頭をあげるとエルロイの瞳をじっと見つめた。
「――――このまま二人で逃げてもいいんですよ? もともと最初はそのつもりだったでしょう?」
王宮内の政治闘争に敗北したエルロイは真剣に逃亡を考えていた。
ユイとエルロイの武力があれば、生きていくのにそう苦労はないからだ。
殺されるくらいなら全てを捨てて市井のなかで生きてみるのもいい。確かにそう思っていた時期もあった。
あるいは誰も知らない土地で二人きりで暮らすということも。
「……そうは思ってたけど、俺にも捨てられないしがらみがね」
同行を断ったのに内務省を辞職してまでついてきてくれた叔父ヨハン、そして騎士の座も目前だったロビン。二人ともエルロイについてきてもなんの利もないのにあっさりと生活の基盤を捨て去ってしまった。
それだけでも重いのにマルグリットやコーネリアにまで期待を寄せられている。
こんな辺鄙な地までついてきてもらった以上、ユズリハやガリエラにも義理というものがあった。
「それにユイは俺がどうあろうとずっといてくれるだろう?」
「それは愛の告白ですか? 愛の告白ですね!」
ある意味プロポーズとも取れなくもないエルロイの言葉に、ユイは喜色も露わにエルロイの首にしがみついた。
「ちょっと待とうか」
「待ちません!」
その先は言わせないとばかりにユイはエルロイの唇を己の唇で塞ぐ。
柔らかいユイの唇がエルロイの唇を捕食するかのように蠢き、舌先がエルロイの口腔に侵入を試みようと歯先をなぞる。
体格でも筋力でもエルロイは本気のユイには敵わない。このまま押し倒され、空気に流されてしまうかと思われた瞬間――――
「あひゃんっ!」
ユイが艶めかしい声をあげてのけぞった。
彼女の背中が弱点であることをエルロイはよく承知している。というより感じやすい彼女はその武力の高さとは裏腹に弱点ばかりなのだ。
「ちょ、ず、ずるいです!」
「ずるくない」
「ひゃわわわわわわ!」
すかさず敏感な耳たぶを甘噛みすると、ユイはあっさりと全身脱力してしまいくたくた、とエルロイの胸に崩れ落ちた。
「勝利!」
「…………いつか泣かします。いろんな意味で」
頬を真っ赤に上気させ、拗ねた様子でユイはエルロイの胸に頬をこすりつける。
とりあえず一番危ない危機が過ぎ去ったことを確信してエルロイは密かに小さなため息を吐いた。
本当のところ、わりと彼自身も理性のギリギリのところであった。
というか感じてるユイが色っぽすぎる。
「…………こうしていると思い出しますね」
「あまり思い出してほしくないかな」
「いやです。私にとってはかけがえのない思いでですし」
――――あの日、初めて命の危険にさらされたエルロイはユイと契約し、その力をわが物としたが、まだ精神的に子供の部分も残っていた彼の受けた傷は大きかった。
転生という奇蹟に喜んでいたのも束の間、いつ暗殺されてもおかしくないという事態にパニックになったエルロイはその晩ユイに取りすがって泣いた。
いまとなっては思い出したくもない黒歴史である。
あの愛憎渦巻く王宮のなかで、唯一無条件に頼れる母は、美しくはあっても平凡で政治力のない無力な存在だった。
エルロイにとって本当の意味で頼れる存在であったのは、精神的な意味を除けばユイただ一人だったといえる。
二人三脚で魑魅魍魎が跋扈する王宮を生き抜いてきた二人の絆は深い。
そればかりではなく、ユイはその名から予想したとおり、日本人の転生者であったようだ。
「苗字はなんて言うの?」
「ないしょです」
ユイの話では、転生なのか召喚なのか、気がついたら暗殺者の村で修行する少女になっていたらしい。
そこで日本人としての人格を覚醒させてしまったユイは、発狂したと思われて、かなり悪質な洗脳をされたのだという。
転生者ゆえの強大な魔力やスキルにめぐまれていたユイは洗脳の結果、化け物のような暗殺者へと変貌した。
彼女に狙われて助かるターゲットは存在せず、たとえ一国の王であろうと容易く暗殺してしまう化け物の誕生に為政者たちが手を握るのは当然の帰結であった。
ユイが生まれ育った里は三か国以上の連合軍によって赤子ひとり残さず、痕跡すら止めぬほどに虐殺された。
問題はそこからである。
洗脳され、里に操られていたユイを操る糸が切れた。
やがて洗脳が薄れ自我を取り戻し始めたユイは、己のやってきた所業を自覚して今度こそ本当に発狂した。
もはや誰彼構わず災厄をまき散らし、魔王のごとく畏れられ、英雄王をもってしても封印するのが精いっぱいであったという。
それがどうして封印を解いたエルロイに仕えることに繋がるのか、ということに関してはユイは言葉を濁す。
互いを信頼しあうことに関して、微塵の揺るぎもない二人ではあるが、隠し事くらいはあるのだ。もちろんエルロイにも。
おそらくその隠した事情に、最初からユイの好感度が高すぎる理由が絡んでいるとエルロイは推測している。
もしかしたら自分がどうしても前世で死んだときの記憶が思い出せないことに関係しているのかも。
だからこそ、それを知らずに一線を越えてしまうことにどうしても抵抗を感じてしまうのだった。
「やっぱり気が変わったりしません?」
ユイはぎゅっとエルロイの右腕に抱きついて、豊満な柔らかい双丘を押しつける。
「勘弁してくれ……」
右腕に感じる魔性の柔らかさにエルロイは赤面して必死に羊の数を数えた。
もう一押し、強引に押し倒せばエルロイは堕ちるかもしれない。
心のなかではそうなることを望んでいるのだから。
それがわかっていながら、どうしてもその一歩を踏み出せないのは、実はユイのほうも同様であった。
二人は抱き合って気まずそうに沈黙していたが、いつの間にか安らかな寝息がどちらともなく流れ始めた。
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