第4話 少しはツイていたな

 東京・渋谷区にあるJR原宿駅前に、四階建ての小さな白いビルがあった。

 そのビルは居住用ではなく、事務所用として建設されたもので、各階、二十平方メートルの部屋が三部屋、昇降用の階段を囲む様に凹型に配置されている。

 屋上は無く、最上階の天井には丸い天窓が二つ付いている。どの部屋も南向きで、幸い向かいには高いビルは無く、冬でも暖房無しでも充分暖かい日もあるらしい。そんな好立地条件から、主にデザイナーや作家の事務所として重宝されていた。

 そのビルの最上階には、一週間前まで、週刊少年漫画雑誌で連載している漫画家が、仕事場として借りていた部屋があったが、月刊誌の連載が増えて手狭になってしまい、引っ越して行って空室となっていた。二週間後には、その漫画家の知り合いの少女漫画家が、新しい仕事場としてその部屋に引っ越して来る事になっている。

 その間の空いた三週間だけ、この部屋を借りた人物がいた。

 短期の店子は、今、その部屋の中央に居た。正午の暖かい日差しが、窓から広い室内に注がれ、フローリングの床に染み込んだばかりのワックスが、眩むばかりに照り返している中、黒ずくめの店子は、掛けているガーゴイルのサングラスにその光を受け止め、無言で佇んでいた。室内は、無言の主の他は、外の若い喧騒が醸し出す活気と対象的に、整頓された画材道具が閑散としているだけだった。 彼は、部屋のほぼ中央に、未だ手の加えられていない白いカンバスと相対していた。

 ぎい。

 部屋の玄関口のドアが鳴いた。


「孔ちゃん。待っていたの?」


 入室して来たのは桧洞と真希であった。


「呼んでおいて待たせるなんて失礼だからな」


 孔一は、掛けている漆黒のサングラス越しに、二人を見て言った。


「今日、ここで依頼の返事をくれる、って市澤さんから昨日の夜に連絡もらったンだけど。やっと引き受けてくれるの、孔ちゃん?」


 桧洞は、憮然した面持ちで佇む孔一の顔を伺いながら訊いた。


「否。未だ、だ」


 孔一は頭を振った。


「「えぇっ どうして?」」


 孔一の意外な回答に、桧洞と真希は声を揃えて驚いた。


「慌てるな」


 孔一は肩を竦め、


「断わる、とは一言も言っていない。只、一寸思う所があってな。――桧洞にやってもらいたい事があるンだ」

「やってもらいたい事?」

「ああ」


 孔一は頷いて、傍らの白いカンバスを見遣った。


「このカンバスに絵を描いてほしい」

「絵を?」


 桧洞と真希はきょとんとし、その視線は、部屋の中央に佇む白と黒の間を往復した。


「但し、描く絵は一つ――」


 そう言って孔一は真希を指した。


「真希君の絵を?」

「そうだ」


 孔一は頷いた。


「彼女のヌードの絵を――」


 孔一のその言葉に、真希は思わず瞠り、可憐な顔を真っ赤に染めた。


「――と、言うのは冗談で」


 孔一は、真希の反応にしたり顔を浮かべた。


「真希君の肖像画を描いてほしい」

「肖像画を?」


 桧洞は真希に一瞥をくれて戸惑う。


「……それは構わないけど、一体、何故?」

「いいから、早く描け。描かないと依頼は断るぞ!」


 孔一はぞんざいに言い放って、二人を促した。

 桧洞は、釈然としない面持ちを孔一にくれるも、やがて諦める。仕方なしに、真希を促し、壁に凭れていた折りたたみ椅子をカンバスの前に置いて、真希を座らせた。


「一応、画材は一通り揃えてある。水彩、油彩、アクリルetc……どれで描いても良いぞ」


 桧洞は暫く小首を傾げて考え込み、そして油絵用の絵の具の入った箱を選んだ。


 真希の絵が完成したのは、それから三日後の昼過ぎであった。ぶっ通しで描いていた訳でなく、一応各日、夕方には作業を切り上げ、翌朝から再び取りかかっていた。

 モデルとなった真希は、しかしその孔一の不可解な要求に不平を洩らす事無く、むしろ桧洞に自分の絵を描いてもらえる事に満足している様子だった。

 桧洞もまた、愛する真希の絵を黙々と一生懸命になって描いていた。

 カンバスに向かう桧洞の顔はとても凛々しかった。まるで不断の臆病そうな彼とは別人の様であった。

 そんな桧洞を見て、孔一は、真希が桧洞に惚れた理由が何となく判った様な気がして、一人静かにほくそ笑んでいた。

 作業も中盤に差し掛かった頃、作業を見守っていた孔一は、桧洞と真希の間に不思議な『気』が漂い始めている事に気付いた。

 暖かく。

 甘く。

 そして、力強い。

 桧洞が息抜きに微笑む。

 真希もそれに自然と応えて微笑む。

 とても自然なものであった。

 その不思議な『気』が、この絵に絵の具と共に塗り込められている事を、完成した真希の絵を手にした孔一は、ひしひしと感じ取っていた。


「……見事だ 」


 孔一は完成した真希の肖像画を一目見て、躊躇いもなく感嘆して息を呑んだ。


「……ねぇ、孔ちゃん」


 真希の肖像画を見入る孔一に、桧洞は訊いた。


「一体、その絵に何の意味があるの?」

「この絵は、今回の依頼の報酬だ」

「報酬?」


 二人は不思議そうに孔一の顔を見た。


「ああ」


 孔一は小さく頷いた。


「俺は、依頼の報酬はその結果の何割かを貰う事にしている。

 今回の場合は、二人の結婚を成就させる事にある。即ち、金銭に換えられないのだよ。だから今回は、この肖像画に込められた二人の想いを貰う事にしたのさ」


 そう答えた孔一は、二人に真希の肖像画を差し出した。


「……それと、この絵にはもう一つ役割がある」

「役割?」

「この絵を真希君のお父上に見せてやれ」

「父に?」

「ああ」


 孔一は頷き、真希の肖像画を指した。


「……この絵を……二人で描いた真希君の肖像画を良く見ろよ」


 孔一に促された桧洞は、自作の真希の肖像画を見た。

 華の様に彩られた二次元の真希は笑っていた。

 実に幸せそうな笑顔である。

 桧洞は自然と笑みを零した。自分で手掛けた絵のハズなのに、まるで他人が描いた絵に感心している様である。

 そして、傍らにいた三次元の華も微笑んだ。

 実に幸せそうな笑顔だ。

 孔一は、二人のその笑みを認めて微笑んだ。

 それは何処となく哀しげに。


「……この絵には、お前達の心のつながりが生んだ『想い』が塗り込められている。その絵を真希君の父上に見せてやれば、おのずと、二人の想いを判ってくれるハズだ。素人の俺でもひし、と感じられた程だからな」

「……そ、そうか?」


 桧洞は少し照れ臭そうに、真希の肖像画に一瞥をくれた。


「自信を持てよ」


 孔一は笑って白い歯を見せ、右指を一回鳴らした。


「今のは、御守り代わりだ。なあに、アフター・サービスもしっかりやるぜ、大船に乗った気でいろよ!」

「ああ!」


 桧洞は笑顔で真希の顔を見た。その笑顔は彼が今まで魅せなかった自信に満ち溢れていた。

 真希もまた、そんな桧洞の笑顔につられて誇らしげに微笑んだ。

 今、孔一の漆黒のサングラスに映えるのは、とても幸せな笑みを交わし合うカップルであった。


「今からでも遅くない。真希君の父上にその絵を持って会いに行くが良い」


 孔一は微笑んだ。

 胸が張り裂けそうだった。

 満足だった。

 哀しかった。

 だが孔一は、二人の為に微笑んだ。


「有り難う、『幸運児』!」


 桧洞と真希は孔一に笑みを返し、仰々しくお辞儀して真希の絵を持って退室して行った。

 孔一はその二人の後ろ姿を、声を無くしたかの様に、静かに見送った。


* * *


 雨足が強まっていた。

 六月の梅雨が、傘もささずに佇んでいる男が着ている春物の白いコートに染み込み、冷たさが重くのし掛る。

 濡れねずみの孔一は、四ケ月前、笑顔で退室して行った桧洞と真希の後ろ姿を見送った時と同じ様に、只、静かに佇んでいた。

 鐘が鳴った。

 孔一の視線の果てにある教会の中から聞こえた、ウェディング・ベルの音だった。

 孔一は濡れねずみの自分を気にも留めず、無言で教会を見詰めていた。

 不意に、孔一の頭上の雨が止んだ。


「風邪、ひくぞ」


 孔一の背後から、市澤が傘を差し出していた。

 しかし孔一は、市澤に一瞥もくれようとはせず、教会を見詰め続けていた。


「今回も見事だったな」

「俺は『力』を揮っちゃいない」


 孔一は頭を振り、


「あの二人の許には、既に幸運という名の青い鳥は舞い降りていた。

 只、折角、青い鳥が入ってくれた鳥籠の鍵を閉める自信が足りなかったから、戸惑っていただけなンだ。

 桧洞って男は、昔から良い仕事をするのに、絵を描く事以外は、からきし自信が足りない所為で、いつも割を食っていた。だから俺は、あいつが一番自信を持てる方法で、鍵を閉めさせる自信を付けさせてやったンだよ。それだけだ」


 孔一は教会の方に向いたまま、そう答えた。素っ気ない言い回しは、とても謙遜しているふうには見えなかった。

 降り頻る雨音のみ続く、暫しの静寂の中、市澤はふと、ある事に気付いた。


「……泣いているのか?」

「違う。雨が目ン中に入っただけだ」


 孔一は不機嫌そうに口を尖らせた。


「……やせ我慢して」


 市澤は失笑した。


「……煩ぇ」

「なら、招待状は貰っている癖に、何で中に入らないのだ?」

「遅刻したんだよ」

「……判ったよ」


 捨て鉢な口調の孔一に、市澤はこれ以上意地悪するのは酷だと思った。


「しかし、これ以上雨に濡れると、いくら『幸運児』でも、風邪を拗らせるぞ」

「……ああ」

「もう良いだろう。こんな事だろうと思って僕の家の風呂は沸かしてある。自慢のミルク・ティーを奢ってやるよ。暖まるぞ」

「ホットコーヒーにしてくれ、砂糖抜きのとびきり苦い奴」

「生憎、今日は安物のインスタントしか用意してないぞ」


 市澤は微笑みながら、孔一の背中を軽く叩いた。


「……ふっ」


 ややあって、孔一は含み笑いを浮かべた。


「何だい、その含み笑いは……?」


 訝る市澤に、孔一は肩を竦めた。


「ふふっ、まさか、お前から親切な言葉を掛けられるなんて、思いも寄らなかったンでな。――俺も満更、ツイていない訳じゃ無さそうだ」

「全く、素直ではないな」


 市澤は顰めつつ、苦笑を洩らした。

 孔一もつられて笑った。

 何もかも、雨に流れて行った。


「さて、と」


 孔一は雨空を見上げた。


「どうした?」

「アフターサービスをしなきゃな」


 孔一はそう答えて、右手の指を、パチン、と鳴らした。

 するとどうだ、激しかった雨足が次第に収まり、やがて雲の透き間から、輝かしい太陽の暖かい日差しが零れ、地上に万遍なく降り注いだのである。


「凄いな。流石『幸運児』」


 市澤は傘を閉じながら、あっという間に晴れた事に、しかしのんびりとした貌で感嘆した。

「花嫁に風邪をひかせる訳にはいかないだろ?」

 そう言って背伸びする孔一は、宛ら今の空の様に、晴れ晴れとした貌を魅せて微笑んだ。

 カラーン。カラーン。

 晴れた青空に、ウェディング・ベルが高らかに鳴り響いた。

 孔一は、傘の雫を振って払い落とす市澤の背を叩いて急かし、教会を背にして歩き始めた。

 ウェディング・ベルは、一組の幸せなカップルの誕生を天に知らしめる様に、神々しく鳴り響き続けていた。


 後日、広尾にある喫茶店『クロノス』に、一枚の肖像画が飾られた。

 肖像画の題名は、『Happy-Lovers』。

 絵の中から微笑む彼女は、その絵を観に訪れた恋人達を幸せにする、と言われる。


             完

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「幸運児」 arm1475 @arm1475

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