第3話 運は平等ではない

 子供が泣いていた。独りで。暗闇の中で。

 子供の背後にある、ジェラルミンの鉄塔が十六夜の暗天に狙い定め、射抜かんとする様に、大地から斜めにそそり立っていた。

 そこから少し離れた所では、ジェラルミンの鉄板が周りの木々をなぎ倒し、無数に散らばっていた。全てのジェラルミンは、泥を被って焼け焦げていた。

 血生臭い何かが焼け焦げている様な匂いが、子供の周りに一杯漂っていた。

 お母さん。

 子供は泣きながら母を呼んだ。

 彼女は愛児の声に応えなかった。何故なら彼女の身体は、分厚いジェラルミン板の下敷きになって、トマトの様に潰れていたから。

 お父さん。

 子供は泣きながら父を呼んだ。

 彼は息子の声に応えなかった。何故なら彼の身体は、なぎ倒された木に串刺しになって真っ黒に焦げていたから。

 沙紀。

 子供は泣きながら妹を呼んだ。

 彼女は兄の声に応えなかった。何故なら彼女の首は、兄の足許に転がっていたから。

 誰か。

 子供は泣きながら周りに求めた。

 誰も子供の声に応えなかった。何故なら、その場に生存していたのは、独り泣いている子供だけだったから。

 ――どうしたの?

 闇が子供に応えた。

 しかし、漆黒の闇の誘いの声は、子供に届く事はなかった。


* * *


「……おい、孔一。……おい、起きろよ」


 孔一は、深い闇の外からの呼び声に促されている自分に気付き、徐に瞼を開けた。

 開かれた視界に、市澤ののほほんとした顔があった。


「……ああ、市澤。何か用か?」

「用なんか無い」


 市澤は素気なく頭を振り、


「悪いが、もう閉店の時間なんだ」

「閉店?」


 孔一は、サングラスを外して、未だとろんとしている目覚めの眼を擦りながら、傍らのウインドウ越しに、店の外へ一瞥をくれる。外は既に夜になっていた。店内の壁に掛けられている時計は、九時半をまわっていた。


「すっかり寝込ンじまったな」


 孔一は背を思いっきり反らし、気怠そうに大きく口を開けて欠伸をした。


「僕の店を、依頼人との待ち合わせ場所に使うのは構わないが、ここを宿屋代わりにはしないでくれ。ウチは喫茶店なのだからな」


 市澤は、モップで床を拭きながら苦々しく零した。


「……済まン」


 孔一は詫びてサングラスを掛け直し、ゆっくり席を立った。

 その時、自分の背中から一枚のシーツが剥がれ落ちた事に気付いた孔一は、慌ててそれを拾い上げた。数秒、シーツを手にしたまま憮然とするが、シーツを掛けてくれた主の思いやりに、ふっ、と済まなそうに微笑み、丁寧に畳んで、未だ温かみの残るソファの上にそっと置いた。


「……また、あの夢を見ていたのか?」

「――」


 市澤の言葉に、孔一は、はっ、とする。


「……酷い寝汗だったぞ」


 そう言われて、孔一は慌てて自分の額を右手の甲で拭う。拭った手の甲には、まるで頭から水でも被ったかの様に、べったりと汗がこびりついていた。


「……ああ。また、見ていた」


 孔一の口から、困憊し切った重苦しい吐息か洩れた。


「……忘れる事なンか出来ゃしないさ……十三年前の『あの事故』だけは……!」

「そう、か……」


 市澤はぼそり呟くと、再び床のモップ掛けを続けた。


「……ところで」


 市澤は床に向いたまま訊いた。


「昼の桧洞氏の依頼……どうするのだ?」

「依頼?」


 孔一の寝起き間もない頭の記憶は、未だ整理が着いていなかった。


「……ああ、桧洞の……結婚の件か……」


 孔一は、その依頼を未だ正式に引き受けていなかった。



 話は今から七時間前に戻る。

 ソファに座る孔一は、憮然とする貌を、前の席に座っている二人のカップルに向けていた。

 孔一の旧友でもある今回の依頼人、桧洞の依頼内容。――それは、桧洞の隣に座っている、玄倉川真希との結婚の成就であった。

 桧洞渉と玄倉川真希との馴れ初めは、今から一年前――桧洞の所属しているデザイン事務所に、経理担当として真希が入社した来た事であった。

 国内有数の資産を持つ企業家の一人娘である真希が、何故、仕事の腕は業界内では上位にランク付けされているものの、主に大手の下請けが中心の、この小さなデザイン事務所に入社したのであろうか。

 それは、この会社の大黒柱である桧洞の絵に惹かれたと言うのが理由らしい。

 真希が初めて桧洞がデザインしたポスターを見掛けた頃、既に桧洞は業界内でも評判のアーティストとして活躍しており、賞も何本か獲得していた。

 真希は、有能な企業家であると同時に芸術家としても名の知れた、美術界に強い発言力を持つ父親の影響を強く受けていた。

 父親が収集していた美術品を、毎日肌で触れていた生活のお陰で、美術品に対する真希の目は肥えていた。

 こんなエピソードがある。真希が高校二年の時、父親の所有する美術館に、胡散臭そうな外国人の画商が訪れ、中世ヨーロッパの有名画家が手掛けたと言う、門外不出の秘蔵品の風景画を売りに来た事があった。

 丁度その時館長である父親が不在で、代わりに美術館の副館長がその絵画を鑑定した処、紛れも無い本物であると驚嘆した。

 だが、偶々その日美術館に遊びに来ていて、一緒にその絵を観ていた真希は、一目でそれを贋作と看破した。

 当然ながら画商は一笑に付したが、しかし真希は、その風景画が、色を付けた不溶性の顔料を表面に塗って人工的に老化させている事を指摘した。

 画商は少し顔色を変えつつ、尚も嘲笑すると、真希は、風景画の隅に書き込まれている作者の署名が、本物ならば老化して入った彩色層のひびが同じ様に署名を割っていなければならないのに、署名の塗料がひびの上に被さっている事を指摘した。

 それまで自信たっぷりだったペテン師の顔は、それを指摘されると、見る見るうちに蒼白したのであった。

 その話以外にも、真希の目利きぶりには色々な逸話があり、美術界でもその鑑定力は父親以上、神業とまで言われるほど評判になっていた。

 この可憐な花の様に美しく、そして美術品を観る目がとても利く女性が、街角で偶々見掛けた絵にすっかり見蕩れてしまった程の、素晴らしい画力を持つ若者は、その仕事に対する周りの評価とは裏腹に、見掛け通り気弱そうな男だった。

 顔の作りは悪く無い。むしろ平均より2ランク程上ぐらいの男前で、微笑むとなかなか魅力的なものを魅せるであろう。

 しかし如何せん、平生の彼から醸し出される気迫は余りにも弱々しく、小心者過ぎていた。

 桧洞と言う若者の平生には、特筆するものは余り見受けられなかった。人付き合いが悪い訳でもなく、また、休日は自室に閉じ籠もり、セーラー服の人形で着せ替え遊びをしていたり、爆弾を造って世界征服を夢想して独りほくそ笑んでいる様な男ではなく、ましてや、コミックマーケットまで後一ケ月、出品予定の漫画同人誌の入稿を目前にして、下書きはおろかネームさえ切っておらず、真っ白なままの原稿を前にネタが浮かばず、無情に過ぎ行く刻に苛立っている無様な過ごし方をしていない事は確かだった。

 過去に、仕事の面で何度か、他の事務所のイラストレイターと些細な事で小競り合いを起こした事があったが、全て、桧洞が引く事によって収まっていた。その何件かは、明らかに相手に落ち度があったのだが、桧洞はそれを承知で手を引いていた。

 その度、桧洞はつまらない貧乏クジを引くのだが、しかし独り辛酸を黙って舐めていた。

 それを見るに見兼ねた事務所の他の者が、桧洞の擁護に立った事もあった。

 だが、そんな時の桧洞は、両者の間で情けない程に愛想笑いを浮かべて事態の収拾に勤めていた。争い事は出来るだけ避けようとする、根っからの小心者であった。

 そんな桧洞が、今、真希と幸せを掴む為に必死になっている事は、驚倒に値すると言えよう。

 それにしても、真希の興味の対象が、一体どうして、いつの間に、その創造主に移ったのか。

 毎日顔を合わせて一緒に仕事をしていた事務所内の者ですらも、全く判らなかったと言う。余談ではあるが、後にその話は、事務所内の七不思議として、長く語り継がれる事になる。

 果たして真希は、小心者の桧洞の何処に惹かれたのだろうか。

 真希の父は先述の通り、有能な企業家であると同時に、美術界に強い発言力を持った芸術家の一人でもある。

 氏は心底、美術界の発展を望んでおり、その為の有益な投資には決して惜しまない、懐の深い人物であった。

 近年では、大枚を叩いて購入した手持ちの美術品を、一般の人も快く観覧出来る様、遊閑地だった都内の一等地を購入し、大きな美術館を建てている。無論、観覧料は無料である。また、様々な美術品の保護にも勤め、時には盗難に遭って裏市場に流れそうになった絵画を、資産を投げ売ってまでも買い取って保護した事もあったという。

 氏は、元華族で世界を又に掛けて活躍していた企業家であった自分の父親の後を継いでいなかったら、恐らく放浪する絵描きにもなっていただろう、と知人に笑いながら語った事もあった。根っからの芸術好きなのだ。

 そんな父親の血を引く真希の目を惹き付けた桧洞の絵に、氏も矢張り同様に心奪われた桧洞の絵を初めて目にした時、氏は暫し唸って感嘆したそうだ。大事な愛娘が、その絵の作者の傍で働きたいという願いを、二つ返事で許可したという事実は、比較的有名である。

 だが、氏自身、娘が桧洞に恋をするという事は予想だにしていなかった。否、強ち有り得ない事ではなかったが、しかし氏は既に、美術界の一部で、手掛けた仕事を高く評価されていた桧洞という若者の為人を、噂には聞いていた。四方や娘が、あの気弱そうな若者に惹かれるとは思いもしなかったのだ。

 氏は娘の熱意に促されて。止む無しに桧洞との清き交際を認めた。尤も氏は、桧洞の様な男では、何れ真希の恋心は冷めるだろうと踏んでいたのだが。

 そんな氏の思惑をよそに、二人の愛は静かに育まれ、ついに二人は結婚を決意したのである。

 氏が二人からその話を持ち出された時、暫し眩暈を覚えたという。

 二人共、未だ二十歳になったばかり。幾ら売れ始めたとは言え、それでも桧洞は、未だ二人が楽に生活出来る程の収入は得られていない。何より、この業界は浮き沈みが激しく、――たとえ、美術面に肥えた目を持つ玄倉川親子を唸らせた程の実力を持っているとしても明日いきなり評価が下がって全く売れなくなり、路頭に迷う危険が無いとは保証出来ないのである。

 氏は、未だ二人は若過ぎる、早計過ぎると言って説得しようとするが、それでも二人は結婚する意志を撤回しようとはしなかった。

 氏は困憊に満ちた溜め息を漏らして、返答を伸ばした。

 氏の、その手応えの無い様子に不安感を覚えた二人は、桧洞の知り合いのルポライターから、幸せをもたらす『幸運児』池田孔一を紹介され、今に至っていたのだ。因に桧洞は孔一がそのような仕事をしている事や『力』を持っている事実は、紹介されるまで全く知らなかった。


「……孔ちゃん。お願いだ。僕たちの力になってくれ」

「私からもお願いします、池田さん」


 桧洞と真希は憮然とする孔一に哀願した。

 孔一は黙っていた。

 ややあって孔一は、徐にサングラスの下の瞼を閉じて俯き、暫く何かを考えていた。

 その時の孔一は、二人に判らない様に唇を噛み締め、僅かにわなないていた。


「……全く、相変わらずだな」

「え?」

「――否。暫く、待ってくれないか?」

「えっ?」


 桧洞と真希は、過日に別人が漏らした返答を再び耳にして、目を丸めた。


「どうして?」


 桧洞は、孔一の顔を覗き込む様に身を乗り出し、釈然としない面持ちで訊いた。

 孔一は俯いたまま、頭髪を掻き毟り始めた。


「……こういう依頼は全く初めてなんでな。ものがものだけに、安易に引き受けたら、後が怖い。暫く、考えさせてくれないか」

「……判ったよ。良い返事を待っているよ」


 孔一の様子を訝りながらも、桧洞は渋々引き下がった。


* * *


「『依頼』、引き受けるのか?」


 市澤はモップ掛けを続けながら、孔一に訊いた。


「……」


 孔一はテーブルに頬杖を突いたまま、何も答えようとはしなかった。

 沈黙を守る孔一を前にして、市澤はのほほんとした顔で頬を少し膨らませ、肩を竦めてみせた。


「……何が気に入らないのだ?」

「……別に」


 孔一は気怠そうに答えた。


「では、何だと言うのだ?」

「何でもない、って言ったろ!」


 孔一は苛立ち、吐き捨てる様にそう言うと、ソファから腰を上げ、踵を返して店を出ようとした。


「……真希君に惚れたな?」


 市澤の呟きに、孔一の歩みが止まった。


「――そ、そんなンじゃねぇよ!」


 振り向きざま孔一は、赤面して市澤を怒鳴った。

 市澤はそんな孔一を見て、口元に笑みを浮かべた。


「そう、むきになるなよ」


 市澤は、冗談だよ、と笑いながら謝った。

 だが孔一は、市澤を睨みつけたままであった。


「……孔一?」


 市澤は漸く気付いた。


「……本気か?」


 孔一は何も応えなかった。


「はぁ……」


 市澤は、やれやれ、と溜め息をつき、


「しかし……まいったね。寄りに寄って、幸せにしなければならないカップルの片割れに惚れるとはな。下手をすればとんだ道化だ」

「――お前なンかに判ってたまるか?!」


 孔一は、入口傍にある壁を拳で殴りつけて絶叫した。


「孔一?」


 市澤は思わず瞠って驚いた。

 孔一は叩き付けた拳をゆっくり引き戻し、腰に溜めて強く握り締めた。


「……人を好きになって……何が悪い 」

「お、おい……」

「……他人の幸せだけじゃなく……自分の幸せを求めて何が悪い 」


 その嗚咽にも似た孔一の叫びを耳にした市澤は、恐る恐る孔一の顔を伺った。

 市澤の静まった瞳に映える孔一の顔。

 苦しんでいた。

 葛藤に引き裂かれた心が哭いていた。


「……済まン。むきになっちまった」


 深い深呼吸の後、わなないている孔一の口から、それは静かに洩れた。


「……判っている。そンな事しちゃいけないのはな。確かに、俺がその気になりゃ、桧洞からツキを全て奪い、真希君を手に入れる事は造作も無い。

 だが、俺は友として……人としてそンな愚行はしちゃぁいけない。

 何より、彼女が必要としているのは俺じゃない、桧洞だ。彼女が俺を必要とするのは、俺個人ではなく、俺がもたらす『幸運』の方なンだ。――それが堪らないンだよ……!」


 孔一は肩をわななかせて、がっくり項垂れた。

 市澤は、孔一の余りの様子に、手にしていたモップを置き、孔一の元に歩み寄って伺った。


「……堪らない……? 何故?」


 市澤が訊くと、孔一は、崩れる様に傍らのカウンターのストゥールに腰を下ろした。


「……本当は嫌なンだよ――『他人の幸せ』に関わるって事が……!」


 孔一は頭を嫌々振った。少し興奮しているらしく、しゃっくりみたいに数回荒く呼吸して、溜め込んだ息全てを肺から吐き出す様にとてつもなく重い溜め息を吐いた。


「……何で……何で、他人の幸せばかりで……俺の幸せは、どうして叶えられないンだよ……」


 孔一の嗚咽が、二人しか居ない閑散とした店内に響いた。


「……十三年前の『あの事故』だって、俺が防げたかも知れなかったのに……!」


 例年より暑い夏だった。

 もう、十三年前の事だ。

 国内航空史上屈指の旅客機墜落事故が、その年の夏に起きた。東京~大阪間を結ぶ国内線を飛ぶジャンボ旅客機が、静岡の黒法師岳山中に墜落したのだ。

 墜落した理由は整備上の不備やら、機体の構造に欠陥があったやらと、当事者達が責任のなすり合いを続けている為、十三年経った今でも不明であるが、二つだけ判っている事があった。

 乗員百二十四名中、百二十三名の尊い命が二度と返らぬ旅に出た事。

 そして、その残りの一名が、今も生きている事を。


「……夜間の出来事、そして山中に墜落した事もあって、救助活動が大幅に遅れ、乗員の生存確率は0パーセントと言われていたあの事故に……俺だけが……無傷で生き残っていた。まさに奇跡としか言いようがない出来事だった。

 それからだ、俺が生命の危機に直面した時、途方もない幸運が働く『力』を秘めている事に気付いたのは……」


 少し落ち着きを取り戻した孔一は、背中のカウンターに両肘を置いて身を凭れ、天井を見上げていた。


「……そして、その『力』が自分のみならず、他人の『運』をも自在にコントロール出来る事も判った。

 ――ここに、『幸運児』池田孔一が誕生したのだな」


 市澤は相槌を打った。


「ああ……そうだ。俺の力が判った……否、判ってしまったンだ 」


 再び、孔一の声が怒りに震えた。


「……何で……何で、判ってしまったンだ?

 何故、そんな力がある事に――何故、あの事故が起きる前に……判らなかったのだ?」


 天井を仰ぐ孔一の口から洩れる嗚咽は、まるで呪詛の様に、周囲の空気を重くした。

 孔一は、サングラスの下から涙を零していた。止め処も無しに頬を伝い落ちる雫は、カウンターの上に落ち、照明に影の落ちた赤いラワンの表面を、一層昏く哀しい色に染め替えていた。


「……もっと早く、その事に気付いていれば……母さんや父さんや沙紀、他の人達も助けられたハズだったのに……何で、俺だけが……俺だけが…… 」


 孔一は哭いた。只、哭いていた。

 幸運と呼ばれるものの全てが、必ずしも本当の意味で『幸福』であるとは限らない。


『金持ちは幸せだろう。物持ちは嬉しかろう。でも、文無しは眠れるだろう』


 古代メソポタミアの諺にこういうものがある。『幸福』の価値観というものは、各々によって違うという皮肉である。

 孔一が望む『幸福』は、常日頃から、楽して金持ちになりたい、異性にモテたい、と願っている浅はかな刹那主義者から見れば、取るに足りないものに過ぎないだろう。確かに彼らの望み程度なら、孔一の『力』をもってすれば実現可能である。

 だが、孔一がたった一つだけ望むそれは、孔一の神がかりの力を以てしても得る事の出来ない、哀し過ぎる望みであった。孔一の境遇を知る者にすれば、彼の異名は皮肉にしか聞こえないのである。

 暫くの後、孔一の嗚咽は小さくなっていった。

 市澤は、ストゥールに腰を下ろして嗚咽していた孔一を、物静かに見つめていた。

 市澤の瞳に、侮蔑の色は存在していない。

 しかし、慈愛の色も存在していなかった。只、黙って孔一の慟哭を見守っているだけであった。


「……気が……済んだか?」


 漸く嗚咽の止んだ孔一に、市澤はそっと訊いた。


「ああ」


 孔一は仰いだままそう応えると、ゆっくり面を戻し、サングラスを外して涙を右腕で拭った。


「……済まなかったな、市澤。――こんなみっともねぇ姿、見せつけちまって」


 孔一は、少し項垂れ、辛うじて聞こえるかどうか、それくらい小さい声で詫びた。


「気にするな」


 口調は冷淡だったが、市澤は静かに微笑んでいた。それには、例えようのない暖かさが満ち溢れていた。

 孔一は、そんな市澤の微笑が見えていたのか、漸く面を上げ、口元に安堵の笑みを浮かべて応えた。

 時折、孔一は、自分の持つ『力』の大きさに負けて、今の様に弱音を吐く事があった。但し、その姿を、人前では矢鱈滅多に見せようとはしない。意地もあったが、矢張り、理解してくれる人間が少ない為もあった。そもそも孔一のそんな姿を知る者は、指折り数えて、それでも余る程である。

 市澤は、その数少ない中でも、孔一の運気干渉が効かない唯一の人あった。だからこそ、みっともない姿も含めて孔一をよく知っていられたのだろう。

 市澤は、『クロノス』で孔一が泣き喚く姿を初めて見た後、こんな事を訊いていた。


「……なぁ、孔一」

「……何だ?」

「『運』を操る時、どういう気分でいるのか?」

「どういう気分――?」


 孔一は暫し返答に窮した。


「……別に、何とも思わんよ。――強いて言うなら、そいつの運を変えてしまえ、ってくらいかな」

「その力を、自分の利益の為だけに揮った事はあるのか?」


 問われ、孔一は暫し考え込む。


「無ぇ。それだけは自信がある」


 孔一はそう答えて苦笑し、


「そもそも俺の『力』は、何故か知らんが、自分の運気を任意に変える事だけは来ないのさ。殆ど他人から依頼を受けて『力』を揮い報酬を貰っている。

 でもそれは、単純に金儲けがしたいからじゃ無く、『幸運児』としてのケジメなンだ。依頼者に報酬を要求する事で、忠告しているンだ。

 労せず、功を欲するなってな」


 孔一の言葉に偽りは無い。市澤はその後に知ったのだが、『力』を揮った報酬の殆どは、無記名で、十三年前のあの飛行機事故で一家の大黒柱を失った遺族達に寄付していたのだ。日々の糧を得るのに、『力』を使った事は一度足りとも無いのである。

 孔一は、特にこれと言った定職は持っていない為、今日みたいな平日は比較的暇なのだが、休日はおおよそ『力』を揮う機会は殆ど無いであろう、遊園地やデパートの屋上で行われるヒーローショウの着ぐるみに入って奮闘し、慎しく暮らしていたのであった。


「……だろうな」


 市澤はほくそ笑んだ。


「何、ニヤついているんだよ?」

「否、僕の想像した通りの男だったから、つい、な」

「何だよぉ、変な男だと思ったのか?」

「それは御互い様だ」


 そこまで言われては、流石に孔一も言い返せなかった。


「僕が想像したのは、孔一は普通の人間ではない、と言う事だ」

「そンな事、今更言うか?」

「否、『幸運児』だから、と言う訳ではない。並みの人間では到底使いこなせないだろう、その不思議な『力』を、お前さんは最も理想的に揮っているからだ」

「理想的?」


 きょとんとする孔一に、市澤は頷いた。


「この世の摂理は残酷に出来ているのか、誰かが幸運に恵まれると、その裏で不幸に見舞われる者も存在する様になっている。

 人は、何かの犠牲無しに幸せを得られない、哀しい存在なのだ」


 市澤の言葉に、孔一は黙って頷いた。


「『運否天賦』、あるいは『運は天にあり』――古来より、運は神様が握っているものだと説かれていた。確かに、先を見通す力を持たぬ人の力では手に負えないものだ。だから人の運気を自在に操る力を持つ事とは、神にも等しい力を手に入れていると言って良いだろう」

「生憎だが、俺は新興宗教の生き神様になるつもりは無いぜ」


 孔一はそう言って失笑した。

 市澤も応える様に破顔する。


「そうだ、お前さんは人間だ。決して神ではない。人間だからこそ、神にも匹敵する力を備えた意味だけは、決して忘れてほしくない。――尤も、僕の見た目では、そんな様子は皆無だが」

「よせやい、買い被り過ぎだぜ」


 孔一は右手を嫌々振って、照れ臭そうに言う。苦笑いするその顔に、今まで満ちていた昏い影が消えている事を、市澤は既に気付いていた。

 今夜も、孔一の溢した笑みには、今までと同じ様に、迷いは晴れていた。

 孔一は、外していたサングラスを徐に掛け直した。眼差しを隠して凛とするその貌からは、数分前まで見せていた弱さは全く伺えなかった。


「……依頼、どうする?」


 訊くまでも無い。孔一は頷いた。


「――引き受けてやるさ。『幸運児』の名に賭けて、あの二人に本物の幸運を与えてやるぜ」

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