第2話 再会する運

 東京・広尾。

 昼夜問わず交通量の多い外苑西通りに面した一角に、『クロノス』と言う名前の、紅茶専門の喫茶店があった。

 店内のカウンターでは、マグカップに注がれたコーヒーを飲んで寛ぐ、サングラスを掛けた、黒ずくめの服装の青年がいた。

 『幸運児』池田孔一である。

 カウンターを挟んで、この店のマスターと覚しき、エプロン姿の青年が、カウンターの流し台で黙々とカップを洗っていた。

 青年の年格好はそう、カウンター越しにいる孔一と同い年ぐらいか、やや少し上だろう。

 青年を見た者全てが、先ず最初に感嘆するであろう、絶妙なバランスで整ったその相貌は、そこいらのモデルや男優など、右に出るどころか足許にも及ばないものである。

 なのに、カップを洗うその姿は、妙にのほほんとして、このままでは惜しいくらい芒洋としている。じっとその様を見ていると、小春日の日向の香りを覚えそうである。もう少し表情を引き締めてくれれば、そののんびりとした動きさえも、女性が騒がずにいられない魅惑的なものになったであろう。


「おい、市澤」


 孔一が、青年マスターを憮然とした口調で呼びつけた。


「ブルマンの味、昨日より少し落ちてるぞ。煎れ方、しくじったな?」

「煩い」


 市澤と呼ばれた青年マスターは、目前の客のクレームを無礼にも冷たく突き放した。


「孔一。お前、此処を何処だと思っているのだ?――『紅茶専門』の喫茶店で、泥水を堂々と注文しておいて、我が儘言うのではない」

「市澤なぁ、常連客を蔑ろにする様じゃ、まだまだ一人前の店主にゃ、なれンぞぉ」

「僕は、この店でお茶を頼まない客は、常連客とは思っていない」


 意地悪そうに言う孔一に、しかし市澤は怯まず、邪険に言い返した。


「全く。お茶を頼んだ事が無い客が毎日顔を出しているとは、信じられない」


 憮然としてぼやく市澤に、孔一は黙って肩を竦めた。


「はっきり言って、嫌がらせだな、これは」

「そう思ってンなら、その嫌がらせの注文に全て応えるな」


 確かに今まで、孔一が『クロノス』で注文して、応じられなかった物は無かった。

 ラーメン、餃子、カレーライス、日本蕎麦、何と、普通の喫茶店のメニューには絶対載っていない『スキヤキ』まで頼んだ事があった。

 しかしその注文全てを、


「こんな事もあろうかと」


 と言う言葉と共に、丁寧に作られてカウンターから出て来る度、孔一はその品を前にして唖然としていた。

 うどんを頼んだ時はあろう事か、市澤自らが手打ちでこしらえた、そこいらの蕎麦屋でも口にする事が出来ないくらい腰の強い、絶品のうどんが出て来た。お陰で暫くの間、蕎麦屋で頼んだうどんが美味く感じなかったほどであった。


「大体、どうしてそンな材料がこの店に有るんだよ?」

「それは企業秘密だ」


 呆れ顔で訊く孔一に、市澤は一瞥もくれず答える。孔一はその徹底した冷淡ぶりに、怒りを通り越して苦笑を漏らした。

 二人の会話の口調からして、その関係が、単なる常連客と店の主人というものではないのは間違いなかろう。


「……ところで、一昨日連絡のあった例の『依頼人』、今日ここに本当に来るんだろうな?」


 孔一は、市澤の冷淡な顔を伺う様に訊いた。


「ああ」


 相変わらず冷淡な口調で市澤は答えた。


「昼過ぎに来る様に約束を取りつけてある。もう、そろそろ来るハズだ」


 その時、店のドアベルが鳴った。

 ドアを開けて入店した来客者は、孔一らと同年代の一組の若い男女だった。

 女の方はとても清楚で魅力的な美人だったが、その片割れは、彼には悪いが余り彼女にはお似合いでない、何処か気弱そうな雰囲気を、掛けている度の強そうな黒縁のメガネ越しに漂わす、細身の長身の男だった。


「いらっしゃい」


 市澤は愛想笑いを浮かべて二人の来客者を見た。


「孔一、『依頼人』だ」


 市澤は、孔一に囁いて促した。孔一は、依頼人を肩越しに一瞥した。

 そして、驚いた。


「……桧洞!」

「久し振りだね、孔ちゃん!」


 桧洞と呼ばれる依頼人の青年は、孔一の顔を見て破顔した。


「ああ。高校卒業以来だから、大体二年振りか」


 孔一は、旧知の友との再会に歓喜して彼の元に歩み寄り、桧洞の肩を軽く叩いた。


「相変わらずイラストばっかり描いているのか、おい?」

「それが僕の仕事だからね」


 桧洞は、はにかむ様に頷いた。


「そうだよな。高校を卒業して直ぐプロデビ

ューした天才イラストレイター、桧洞渉。絵の方は、雑誌や駅のポスターでいつも観させてもらっているぜ。相変わらず良い絵を描く」

「有り難う」

「ああ―― 、ん?」


 やがて孔一は、桧洞の陰に隠れていた女性の存在に気付いた。

 孔一の視線が凍りついた。

 清楚且つ可憐な華一輪。

 孔一の頬が赤らんだ。


「ま、真希さん……!」

「池田さん……でしたわね。昨夜はゆっくりお礼を言えず、済みませんでした」

「あ、い、否、た、大した事はありませんよ、ハハハ」

 優雅にお辞儀する真希に、赤面する孔一は照れまくって狼狽する。

「何だい、孔ちゃん、真希君と知り合いだったのかい?」

「え?――いったい、どういう事だ、これは?」


 孔一は狼狽したまま、桧洞に華の正体を訊いた。


「あ、ごめん。彼女は玄倉川真希君。ウチの事務所の事務を担当して下さっているんだ」

「……改めてまして、玄倉川真希と申します。池田さんの事は、渉さんから聞いていましたの。宜しく」


 桧洞に紹介された一輪の華は、何とも優美に挨拶した。


『……可憐な花だ。花が……花がお辞儀している!』


 孔一は、真希の仕草一つ一つを、心の中で身悶える様に感嘆した。孔一の心は、昨夜出会った時よりも一層美しいその姿に、すっかりこの真希の虜になっていた。

 俗に言う、『一目惚れ』というやつである。


「……おい、孔一」


 すっかりのぼせ上がっている孔一の鼓膜に市澤の無粋な声が響いた。


「プロは、依頼人をいつまでも立たせて置かないものだ。直ぐ席に案内しな」


 市澤は、赤面して上がっている孔一を叱咤して促した。


「あ、ああ」


 孔一は漸く我に返り、慌てて真希と桧洞を入口側のテーブルに座らせた。

 テーブルの席に座っても尚、孔一の心は真希に奪われたままだった。何せ、桧洞が呆然とする孔一の名を呼び続け、漸く六回目にして反応した程である。


「……済まン」


 孔一は照れ臭そうに桧洞に詫びた。


「どうしたんだよ、孔ちゃん。らしくないなあ」

「何でもねぇよ」


 孔一は苦笑した。


「……まさか、桧洞から『仕事』の依頼が来るなんて、思いも寄らなかった。絵の仕事に行きづまったとは思えないが……一体、何の用なんだ?」


 孔一は、未だ止まぬ胸の高鳴りを気にしつつ、旧友の顔を訝しげに見遣った。


「……実は……その……何だ……」


 桧洞は照れ臭そうに俯いたまま、返答を濁す。

 桧洞の曖昧な態度に、孔一は苛立ちを覚えた。


「……何だよ。もっとはっきり言えよ。依頼内容が判らなきゃ、俺は『仕事』が出来ないぞ」

「……御免」


 今度は、桧洞が照れ臭そうに詫びた。


「……実は……その……何だ……人と人が出会って……つまり……人というものが社会において約束事で縛られている以上……」

「……何だよ……」


 孔一は呆れ顔で吐息をついた。


「……桧洞。俺を莫迦にしているのか?」


 孔一は、サングラス越しに桧洞を睨み付けた。サングラスを掛けたまま睨むと、孔一の様な普通の人相でも、結構不気味である。目は口ほどに物を言うと言われるが、これでは沈黙されているみたいで、何を考えているのかどうか伺えないから、かなり怖い。

 目前の友人の為人は、良く知っているハズだったが、生来の小心者である桧洞は、すっかり気圧されて周章する。


「……ち、違うよそ、そんなつもりじゃない!」

「……では、何だと言うのだ?」

「……じ、実は……」


 桧洞は顔を真っ赤に染めた。


「……実は……今度……結婚しようと決めたんだ……」


 桧洞の呟きが孔一の鼓膜に届くや、孔一を包む刻が止まった。


「……は?」


 孔一は表情を凍りつかせたまま、桧洞を見詰めた。


「……な……に……、ケッコン?」

「殺人現場によく残されているあれか」


 市澤がコーヒーカップを拭きながらさりげなく呟いた。


「それは『血痕』」


 孔一は疲れ切った様な貌をして、市澤のボケを諭した。


「『結婚』……か。そりゃまた……」

「けっこんな事で」


 市澤はまたも懲りずに突っ込んだ。だが今度のボケは、店内にとてつもなく寒くかつ重い空気をもたらす大惨事になった。


「……市澤。今度ばかりは許さンぞ」


 苦虫を噛み潰す孔一は、左指を一回鳴らした。

 同時に、市澤の背後の壁に額縁に入って掛けられてあった花畑の油絵が、突然震え始めた。その奇怪な振動は、壁に打ち込まれている鉄釘と、額縁を繋げてあった紐をも振るわせ、釘が壁から外れ、絵と共に市澤の頭上目掛けて落ちた。

 市澤は、背中にも目が付いているのか。

 否、予め、絵が落ちて来る事を予知していたのか。何れにせよ、振り向きもせず、落ちて来た額を、いつの間にか頭上へ音も無く差し上げていた右人差し指と中指で、しっかりと挟み掴んでいたのは、紛れも無い現実であった。

 更に、絵を掴んだと思った刹那、市澤は右手首のスナップを利かせて、絵を頭上に放り投げた。

 宙でクルクル廻る長方形の極彩色がその遠心力で最大半径の真円を作っていた紐目掛けて、果たしていつの間に手に取っていたのか、壁から外れ落ちた釘を振り向かずに投げ付け、紐を引っ掛けて壁に撃ち込まれた。

 釘に額縁の紐を引っ掛かけられて壁に戻った油絵は、そのまま元通り壁に掛けられ、落ちる事は無かった。

 全て、一瞬の出来事であった。


「「い、今のは……?」」


 余りの事に、桧洞と真希は飽気にとられていた。


「……今のは、見なかった事にした方が、気が楽になるぞ」


 孔一は飽気にとられている二人に、苦々しげに囁いた。


「この男、唯一、俺の『力』が及ばない存在なンだよ。多分、『力』は効いているハズなのに、この男は涼しい顔して、平気で跳ね返しちまうンだ。こんな化け物がした事は、さっさと忘れた方が幸せだぞ」


 孔一は、業と市澤に聞こえる様に二人に説明した。多分無視しているのであろう、鼻唄混じりに食器を洗っている市澤を瞠目した桧洞と真希は、暫し憮然とし、顔を見合わせて頷くと、孔一の方に向いた。


「……こほん」


 孔一は咳払いをして気をとり直した。


「……結婚……! おい、本気か?」

「うん」


 頷く桧洞の瞳は真面目だった。

 その瞳を認めた孔一は腕を組んで唸った。


「しかし……少し早過ぎるのではないのか……?」

「彼女の両親にもそう言われたよ」


 桧洞は肩を竦めた。


「でも、歳なんか関係ない。現に、僕は彼女を養えるだけの自信はある!」


 桧洞は妙に気合いを入れて言い切った。

 孔一は、桧洞の気合いに思わず気圧され、身じろいでソファに背中を埋めた。

「お前の決心は良く判った 」

 そこまで言ってから、孔一はある事に気付いた。


「……ところで、その相手は誰なんだい?」


 訊いてみた途端、孔一の脳裏には、何故か得も知れぬ不安感が過った。

 孔一の問いに、桧洞は、横目で隣に座ってはにかんで俯く真希の顔を一瞥した。

 孔一も、羞らう真希の顔を桧洞の視線につられて見遣った。


(……はにかんでいる。うーん、可愛い。いーなぁ、こういう仕草。実にたまらない)


 孔一は、赤面する真希の顔を見て、心の中でデレデレした。


「――で、お前の結婚相手は誰なんだい?」


 孔一の質問に、桧洞の笑顔が凍り付いた。


「……孔ちゃん?人の話をちゃんと聞いている?」

「聞いているとも」


 孔一は何の躊躇いもなく頷いた。


「だから、お前の結婚相手は誰なンだい?」

「……やっぱり、聞いていない……」


 桧洞は呆れ返って溜め息を漏らした。


「?」


 孔一は桧洞の反応にきょとんとした。


「……何だよ、その溜め息は……?失礼な……」

「だから、さぁ……」


 桧洞は再び真希の顔に一瞥をくれた。


「……僕の……結婚相手……真希君……なんだ……!」


 暫しの沈黙。

 華に飾られた孔一の目の前が、漆黒の闇に包まれていた。

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