第12話 追跡

「……三年ぶりか」

「なんだかもっと昔のような気がします」

 高萩の艦橋から弥助と葉月は水平線の彼方に見え始めたヒノモトの陸地を見て、しばし感慨に浸った。

 横須賀港を見たのはダンプ諸島へ向かう定期便に乗り込み、朝日のなかデッキから眺めたのが最後であったと思う。

 あのときはもう二度と戻れぬかもしれないと覚悟したものだ。そういえば葉月姉の涙を見たのもあれが最初で最後だったような気がする。

 楚々としていつも完璧な葉月姉の涙は貴重なワンシーンだった。見れるものならもう一度見たい。

「どうしました? 坊っちゃま」

 弥助の視線に気づいた葉月は不思議そうに首を傾げた。

 そんなふとした仕草がとみに可愛らしく思える今日この頃である。

「今日は泣かないのかな、と思って」

 今の葉月姉なら、きっと色っぽい泣き顔になるだろう。三年前も十分美少女だったが、今はさらに美しく凛々しく可愛らしく成長した。

 はたして葉月は、三年前の涙のことを言っているのだと気づいて頬を朱に染めて盛大に照れた。

「――――もう! もう! 最近坊っちゃまは悪い子になられました!」

「まあまあ、好きな子をいじめたくなるのは男の子の特権みたいなもんさ」

「余計なことはいわなくてください。叔父様!」

「ふごぉっ!」

 照れ隠しに葉月の手加減なしの裏拳を食らって、剛三は甲板を勢いよく転がって吹き飛ばされた。

 そして海に転落しそうになるところを、危うく手すりにすがりつく。

 見事な震脚を使った必ず殺すと書いて必殺の一撃であった。剛三が発気で全身をガードしていなければどうなったことか。

 子供のころから肉体言語で葉月に躾けられていた記憶が蘇って、密かに弥助は背中で汗を流した。

 やはり葉月を怒らせてはいけない。

「先ほど百目鬼中将から無線連絡がありました。万事順調とのことです」

 少し意地悪そうに秋吉は嗤う。やれやれ、と剛三は面白くもなさそうに肩を竦めた。

 いよいよ鬼山魁は追いつめられた。

 どう転んでも彼がこの罠を無事に回避する術はない。

 なぜなら最大の切札の神刀女郎兼光と、それを抜くことのできる選定者がここにいるのだから。

「ようやく坊っちゃまが正当な当主として認められる日が来るのですね」

 感慨深そうに葉月は空を見上げた。

 思えば長い時間だった。

 この横須賀港から密航してダンプ諸島へ出国しようなどと、当時の自分がよく考えついたものだと思う。

 それがこうして故国の地を踏み、弥助を当主の座に返してあげられると思えば晴れがましい思いでいっぱいだった。

「さすがに鬼山家に宿泊というわけにはいきませんので、今日は九鬼家当主正宗様のお屋敷でご逗留いただくことになります」

「ああ、正宗のおじさんか。久しぶりだな」

 大分薄れた遠い記憶なかに、父に連れられて何度も訪れた九鬼の屋敷を思い出して弥助はうんうんと頷く。

 やたらと大きな体躯の爺さんが、随分と可愛がってくれた覚えがある。顔はいかつくて迫力があるが、割と子供好きな印象だった。

「……ん? どうしたの? 葉月姉」

 何か言いたそうな葉月の様子に気づいて弥助は尋ねた。

「いえ、その……思い出したのはそれだけですか?」

 葉月の返答はなんとも歯切れが悪かった。その理由がわからずに弥助は首をひねる。

「そういえば年下の男の子がいたっけか」

「はぁ?」

 思わず葉月は素っ頓狂な声を上げた。

 その子については葉月には言葉にし難い複雑な思いがあったのだが、それも吹き飛ぶような驚きであった。

「あの子が男の子だ、と坊っちゃまは思ってらっしゃるのですか?」

「ってことは女の子なの?」

 これには逆に弥助のほうが驚く。

 確かに顔立ちは女の子っぽい気がしなくはないが、ショートカットで日焼けした短パンの子を、弥助が男の子と思ったのも無理はない。

「もしかしてあの子が…………」

「あの子が?」

「いえ、なんでもありません……」

 父親同士で婚約の約束をしていたことを知らないのですか? そんな簡単な言葉を葉月はどうしても続けられなかった。

 こんなことではメイド失格なのに、どうしてだろう、胸が痛い。

「さて、迎えが来たようですよ」

 二人の間にそんな微妙な空気が流れたのをあえて無視して、秋吉は黒塗りのシトロエン11CVがやってきたのを指さした。

 燃料が貴重なせいか、木炭車に改造はしているが、輸入高級車をよこすあたりはさすがに帝国四鬼家というべきだった。

「私はここでお別れしますが、今日救われたことは忘れません。私の力が必要なときはいつなりとお声をおかけください」

 万金の重みをこめて秋吉は弥助に見事な敬礼を送った。

 弥助は笑って少しぎこちない敬礼を返す。

「こちらこそありがとうございます。よかったら葉月姉用にセーラー服を送ってください。絶対可愛いと思うんで」

「は、恥ずかしいこと言わないでください!」

 最後まで痴話喧嘩のような、姉弟喧嘩のような会話をしたまま、二人と剛三はシトロエンへ乗りこむのだった。


「このあたりも変わったな」

 車内から、復興中とはいえまだまだ瓦礫の残る、横浜へと続く湾岸道路の景色を眺め、剛三は眉を顰める。

 剛三が台南空へ所属する以前は、厚木基地へ配属されていた時期があり、このあたりは剛三の縄張りのようなものだった。

 顔見知りのカフェー嬢、懐かしい横浜の海軍コロッケ、それも何も残っていない。懐かしい青春の記憶に痛々しい戦争の爪痕を見せつけられたような気持ちである。

「そういえば霧島殿は十一航艦(第十一航空艦隊)の出でしたか」

 剛三の胸中を察したかのように、運転手が話かけた。

 年のころは三十代半ばくらいであろうか。佇まいが完全に軍人のそれであった。

「ええ、新編の前に除隊となりましたが」

「私は霧島殿が除隊された後の十二航艦の配属でして、仲間のほとんどはソロモンへ引っ張られました」

「それは…………お気の毒に」

 ソロモンといえば、ヴァージニア共和国との間で一大航空戦となった激戦区である。

 ブーゲンビルやガダルカナルの上空で、海軍航空隊はこの地で半数近い歴戦のパイロットを失っている。

 おそらくは運転手の仲間も、大半はそこで戦死したはずであった。

「私はたまたま不時着のときに足を折って入院しておりましたので内地に残されました。この道を通るといささか寂しい思いがするものです」

 生き残ったのは間違いなく素晴らしいことだ。

 それなのになぜか、剛三にも運転手にも、心のどこかに戦友に置いて行かれた、という思いがある。

 これは実際にともに命を懸けて戦った者にしかわからない感覚である。

 運転手もそれを知るということは、かなりの修羅場、生死の境を乗り越えてきたに違いなかった。

 しばらくして車は海岸線を外れ横浜から品川へと向かう。

 さすがに帝都の中へ入れば復興は著しく、下町も都市部のビルもすっかり新しい姿を取り戻していた。

 ヴァージニア共和国が竜の襲撃で崩壊したせいか、まだヒノモトに本格的なモータリーゼーションはやってきていない。

 それでもダットサンやミゼットが走る姿は確実に増えている。通商破壊で途絶していたバタヴィア王国から石油の輸入が再開されたためだ。

 このまま復興が進めば、いずれヒノモトにも本格的なモータリーゼーションの時代がやってくるだろう。

「――――うん?」

 ふと、弥助が何かに目を止めた。

「どうかしましたか?」

「いや、少し見知った男の顔を見つけたんでね…………気になるな」

「いったい誰だい?」

 三年前にヒノモトを出国していた弥助が知る人物は限られる。基本的には、鬼山家に関する人間である可能性が高い。

 剛三が心配したのはその点だった。

「ああ、望月って男を覚えているかい? 葉月姉」

 弥助の言葉で思い出したのか、葉月はあからさまに不機嫌そうに渋面を作った。

「魁の腰ぎんちゃくですね。分家の当主ですが、確か後ろ暗いところを任されていたと思います」

 それだけではなく、望月はまだ十三歳の葉月にいやらしい視線を送っていたそうで、弥助はそれを聞いて、密かに望月を絶対に許さないと決めた。

「その望月がどうしてこんなところを……それに何か焦っていたような」

 本来ならば接触しないほうがよい人物である。

 弥助の動向は魁を追い詰めるための知られてはならない切り札だ。

 それでも――――追うべきだと弥助の勘が告げている。

「追いたいか?」

 剛三の言葉に弥助は力強く頷いた。

 生死の境に生きるものが、何かを直感すれば、それはおよそ正しい。剛三も弥助もそれを知っている。

「運転手さん、あの白いフォードを追ってください!」

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