第70話 漁の始まり
昨夜の嵐が嘘のように凪いだ湾内。
三艘の船が競うように漕ぎだしていった。
風も無いが、波も無い。
ただただ静かな湾に、
時折、水を撥ねる音が生まれては消える。
やがて三艘は奇妙な動きを見せる。
先を争う様子が、先頭を譲り合うように。
譲り合いはやがて、船尾の追いかけ合いになり、
湾の中央で三艘は円を描き始める。そのまま、
「オーラー(ォオーラー)」
「オーラー(ォオーラョー)」
「ォオーラョー(オーラー)」
唄が始まった。船頭の声に漕ぎ手が応じ、掛け声に合わせて船を漕ぐ。息の合った掛け声のリズムに、船の動きが重なる。
「オカのォ、カカァのォ、ハダカが恋しィ」
「ハマのォ、アマのォ、タニマが恋しィ」
「生きて帰れャ豊漁よォ」
「死なば諸共、竜神様のォ、御許で酒盛りィ、ヨイト(オーラョー)」
船はゆっくりと円を描き続ける。
ほどなく、儀式めいた海上の様子を桟橋で、浜で、それぞれの場所で見守っていた漁師たちが、そろそろと
船着き場から堤防に至るまで、この小さな漁村にこれほどの船があったのかと驚くほどの数が並んでいる。だが船に乗り込んでいるのは最低限の船頭だけで、漁師の大半は乗船せず、船の近場で、囁きながら海上を睨んでいた。
「ヤーセー(ヤーセィ)」
「ヤーセィ(ソーラヨー)」
囁き声はだんだんと大きくなる。やがて小声、話し声、大声になり、それでも足りぬとばかりに足踏みや手拍子が加わり、唄へと移り変わっていく。
「波切りィ、海割りィ、お前と共にィ。果て無き海のォ、その果てまでもォ」
「お前行くなら、わしゃその先にィ。嵐の海のォ、その果てまでもォ」
屈強な漁師たちの勇壮な祈りは海上から陸へ、陸から海上へ、波のように伝わり、寄せては引く。それは大きなうねりとなって響き合い、湾に満ち満ちていった。
「…すごいね」
「うむ。もとより舟歌は船を漕ぐ時に歌われることが多い。漕ぎ手のタイミングを合わせたり、上手く休ませながら漕がせたり、飽きさせないようにしたりとな。中には陸への想いを歌詞にすることで、早ぅ帰りたいという気持ちを力に変える、といった意味合いもある」
「カカァのハダカって…」
「ふふっ。もっと品のない歌もあるらしいぞ?まぁ色の力は強しというところであろ」
「男って馬鹿だよねー」
「何、色を想いに変えれば、女も似たものよ。どうあれ、この儀式の元は休漁明けの解禁日に豊漁を祈願して行われていた祭礼でな。魔物との戦いを漁に見立てて行われるようになったものだ。竜神様に勝利を願い、魔物の恐怖に打ち勝てるよう祈り、皆で励まし合い、鼓舞し合いながら、やつが現れる時を待つのだ。戦いを生業としない漁師達の、いわば伝来の知恵よ」
「ルイ…大丈夫かな」
「怪我人の元へ急行できるよう、また緊急退避が可能なように足の速い船を用意した。この村で一番の漕ぎ手も付けておる。心配ないさ。仮に何かあっても、あやつなら大丈夫であろう」
「うん。ワウミィも気を付けてね」
「わちは浜での迎撃じゃ。万が一もあるまい」
エリエルの不安を取り除けるよう、できる限りの優しい声音で話すワウミィだが、完全に成功したとは言えなかったようだ。そうだね、とつぶやくエリエルの表情には不安の影が降りたままだった。
・・・
「いいか?ワウミィが頭を下げて頼むから、仕方なくだからな!俺の漕ぐ船に転生者を乗せるなんざ、あり得ねぇことなんだからな!」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「丁寧な言葉遣いは止めろ!船の上でちんたら話されちゃ迷惑なんだよ!いいか、お前の役目は、俺の船で方々を巡って怪我人を治すことだ。ヤツが現れたら他の船が陣を組む。そいつらの邪魔にならないよう外周を巡って、負傷者が出次第、急速接近。回復したら高速離脱して次の負傷者だ。回復魔法を飛ばせる距離はどんなもんだ?」
「そこの船3隻分くらいは届くぞ」
「おう。なら負傷者を見つけたら斜めに切り込むから、丁度いい距離になったら合図しろ。合図は…」
・・・
儀式が始まる前の打ち合わせを思い出しながら、見よう見まねで声を出し、足踏み、手を鳴らす。漕ぎ手はワウミィのことが気になるマッチョさんだった。ナグロと名乗った彼が村一番の漕ぎ手だったらしい。不機嫌そうに腕組みしながらも、しっかりと打ち合わせしてくれた。
彼や周囲の漁師たちと共に唄い踊っていると、徐々に戦いのことしか考えられないようになってきた。ある種のトランス状態に近いかもしれない。けれど頭は冷静に、手順を再確認し、漁の流れをイメージしつつ、皆の安全と勝利を
儀式が始まってから、もうずいぶん経つが、不思議と疲労は感じない。それどころか、ますます力が
不安な気持ちは霧消して、根拠のない自信が満ち溢れてきた。早く来い、そう焦がれるような気持ちで漁師たちとの一体感を高めていく。
・・・
数時間の後。長時間にわたる漁師たちの祈りに呼応したかのように、黒く厚い雲がトヴォ村の湾内へと流れ込み始めた。風が強まり、波が高くなり、雨も降り始め、過ぎ去った嵐が舞い戻ったかのような空模様になる。
船は波に翻弄され、声を上げる漁師たちの顔に、身体に、強い雨が打ち付けられる。それでも、唄は止まない。むしろ大きく、力強く、祈りを、足踏みを、手拍子を。仲間に向けて、己に向けて、ひたむきに鳴らす。
その終わりは予定通り、ただし唐突に訪れる。未だ円を描く三艘に誘われるかのように、湾の沖合に黒々とした小山が、不可思議な2つの青白い光を伴って現れた。
「現れたな。アングラウ」
ワウミィは穂先が薄っすらと光る銛を握りしめ、ルイにもエリエルにも見せたことのない、獰猛な笑みを浮かべた。
それが、漁の始まりの合図となった。
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