第3章-15

「ここまでやって、自分の気持ちを信じられないなんてこと、ありえないでしょ」

 呆れた口調の幽霊は、恵太ではなく太陽の光を穏やかに返す建物の方を見上げていた。恵太は入口に辿り着くまでに通って来た、街路樹のような中庭を振り返る。石畳の両脇を木漏れ日が覆い、どう歩いても常に川のような水の流れる音がする。噴水から湧き出る水をイメージしながら歩いていると、本当に噴水があるのを見つけて恵太は苦笑するしかなかった。

 唯の父親に招かれた自宅。それは、唯が父親と一緒に住んでいた家ということになる。ただでさえどんな出で立ちで臨もうか悩んでいたところだ。裕福さを連想させる景観の美しさにより、恵太はさらに浮き足立った。

 唯の父親と連絡をとるのは、そう難しい行程ではなかった。告別式の際に供花に書かれていた大学に問い合わせると、唯の父親の方から折り返しの連絡をくれたのだ。

どんな反応をされるか不安だったが、会って話をさせてほしいと頼むと自宅へと招いてくれた。

小川彰高、大学の准教授。専門分野は応用生理学。恵太は会う前に少しでも相手のことを知っておこうと、ネットで検索をかけた。応用生理学というものも調べてみたが、どうやら人間の体に関係する分野らしい、ということが分かっただけだった。

事前の申し合わせ通り、玄関から彰高に電話をかける。待つように言われたと幽霊に告げると、幽霊は静かに頷いた。恵太の懸念に反して、土壇場で逃げ出す素振りもない。

 鈍いブラウンの玄関扉は、装飾に合わせて透明の隙間がある以外は中が見えないようになっている。不意に、エントランスに続くと思われる自動ドアが開く。恵太は姿勢を正す隙もなかった。

「君が、坂井君ですか」

 告別式の時に見た、黒縁の眼鏡と真面目そうな真ん中分け。相手が高校生だというのに背中は少し丸く、威張るのが苦手なタイプに見えた。温厚さをまとったその目は、ごく落ち着いている印象だった。

「すみません、家まで来てしまって。僕が坂井恵太、こっちが」

「あの、山岸といいます。この度はご愁傷様でした」

 幽霊が深々と頭を下げたので、恵太も慌てて追従した。

「わざわざ訪ねて来てくれるなんて、娘も喜んでいると思います。ひとまず、家に案内しましょう」

彰高は、幽霊を初対面として迎え入れた。幽霊が唯の親族ではないことを、恵太は改めて受け入れるしかなかった。

言われるがままに、彰高の後を付いていく。エントランスの中も中庭と同じように、鉢植えの緑と水路が視界の端を彩っていた。生活感を見せない空間を抜け、彰高が案内する部屋へ入る。

「よかったら、挨拶してやって下さい」

 玄関に迎え入れるなり、彰高は恵太たちを奥へと促した。ソファーやテーブルが使用感なくたたずみ、天井ではシーリングファンがゆったりと回る。モデルルームのようなリビングの先に、彰高が指す部屋はあった。

 ドアを開けた瞬間、目に入ってくる仏壇。というより、仏壇以外には何もなく、部屋の半分以上は空白を持て余したような場所だった。幽霊と並んで、仏壇の中の唯に手を合わせる。唯の写真の横にもう一つの遺影を見つけ、恵太はママさんの話を思い出した。唯の母の死後に、唯の願いで引っ越したという話。恐らくこの仏壇は、もともと母親のためのものだったのだろう。そこに二つ目の遺影が並んでしまった彰高の気持ちを想像し、恵太は無意識に拳を握っていた。

世間話も憚られる気がして、恵太たちは彰高の案内するリビングのソファーへぎこちなく腰を下ろした。敬語も相まって、彰高の対応は速やかであり事務的とも感じられた。もっとも、娘を亡くしたばかりの父親に愛想を求められるはずもない。

「大したことはできませんが」

 彰高は三人分のコーヒーを並べると、ローテーブルを挟んだ向かいのソファーに腰かけた。静かに一口すすり、口を開く。

「それで、私に話したいこととは」

 彰高はどちらともなく、恵太と幽霊を見比べて切り出した。恵太は土壇場でなんと言うべきか迷い、躊躇った。それでも、他の言い方など無いことは何度も頭の中で検討して分かっている。父親にその疑問をぶつけることがどれほど残酷か、知ったうえで選んだ手段だ。後戻りするわけにはいかなかった。

「唯、さんは自殺をしたと聞きました。でも、俺にはいくら考えてもその理由が分からない。どうしても、なぜ唯が死なないといけなかったのか、聞いておきたかったんです」

 言い終えると、久方ぶりに呼吸をするように息を吸い込んだ。彰高の方を見ることができず、恵太はローテーブルの彫刻が付いた足を見つめた。

「唯は、確かに自殺しました」

 彰高の、感情の種類を感じさせない声。視線を下に向けたまま、恵太は口を真横に噛みしめた。

「ですが、その理由は私にも分からないんです」

 コーヒーとカップが触れ合う音。他の音は、この世界から消えてしまったように何も聞こえない。

「すみません、わざわざ来てもらって申し訳ないですが、他にお話しできることは無いんです」

 彰高の答えは、恵太の予想通りとも言えるものだった。なぜだろう、恐らく彰高は分からないと答えるだろうと思っていた。思えばあの葬式の日、彰高の態度を見た時から何かが引っ掛かっていたのかもしれない。娘を急に亡くしたにも関わらず、落ち着き払っていた姿。娘の死因について触れようとしない挨拶の言葉。あの時はショックが大きすぎたせいかと思っていたが、今になって恵太は確信している。彰高は何かを、隠していると。

「それは、本当ですか?」

 昂る感情が抑えきれず、声が震える。冷静になれ、と自分に言い聞かせた

「本当です。遺書もありませんでした」

 一拍あって彰高が淀みなく答える。

「唯さんは、何か言い残してなかったですか?」

「何も、特には。何せ娘と男親だと、なかなか話す機会もないんですよ。最後にゆっくり話したのなんていつ以来だったか」

「恵太?」

 恵太の異変を感じたのだろう、心配そうな幽霊の呼びかけが聞こえる。恵太は大丈夫だ、と心の中で繰り返す。彰高の嘘を暴くヒントなら、ちゃんと唯がくれていた。

「それって嘘ですよね。唯が言ってました」

 恵太は目を伏せたままだったが、気配で彰高が体を強張らせたのが分かる。

「死ぬ前日、明日は一番大切な人と会うって言ってたんです。それってお父さんのことですよね」

 それが、恵太の結論だった。莉花との話でもママさんとの話でも、恵太の話は出てもそれ以外の誰かの話は出てこない。特に、ママさんに関しては唯の知り合いに話が漏れることも本来はあり得ないのだ。恋人であれ友人であれ、一番大切とまで言う相手の話が出てこないのは不自然だった。だが、家族のことなら言わなくても不思議ではない。もしも最後の日に会った相手が彰高だった時、その事実が意味するのは。

 恵太はゆっくりと顔を上げた。思い詰めたように、手を口に当て考え込む彰高の姿があった。唯と似た仕草だ、と場違いな感想がよぎった。

「あの日の前日、君は唯と会ったんですか?」

 考え込む彰高の第一声は、恵太からすれば意外なものだった。まず始めは、会ったことを否定するのではないかと予想していた。

「はい。会いました」

 事実だけを述べながらも、恵太は戸惑っていた。彰高の質問が予想外だったからだけではない。一瞬、彰高の口の端が持ち上がったように見えたからだ。

「どこまでも困った娘だ」

 今度は隠す様子もなく、彰高は腕を組んで笑った。幽霊が眉をひそめて恵太の方を見てくるが、そうしたいのは恵太も同じだった。何が起きているのか、理解が追い付かない。その異様さに呑まれないよう、恵太は言葉を止めないようにした。

「どういう、意味ですか?」

 彰高の笑い声は消え入り、何かを懐かしむような微笑みだけを残している。

「失礼しました。こうして君が来ることも、全てあの娘の計算通りだったんじゃないかと思えてしまって」

 穏やかな笑みを絶やさぬまま、彰高は言った。

「全て、話します。唯がなぜ死ななくてはならなかったのか、聞いてもらえますか?」

 恵太はどんな顔をしていいのか分からなかった。なぜ急に態度を変えたのか、彰高の真意が見えない。ただ気圧されるように頷いたが、ついに唯の死の真相が明かされるという現実感は微塵もなかった。

「ミトコンドリアというものを知っていますか?」

 あまりに唐突な単語に、恵太はほとんど聞き取れないような声で「いえ」と答えた。同時に、頭の中で「違う」という警鐘が鳴り響く。

違う、知らないわけじゃない。どこかで確かに、聞いたことがあるはずなのに。恵太は既視感の理由が分からず、体が芯から揺さぶられる感触をこらえる。

「人の細胞の中にある器官です。細かく言うといろいろありますが、簡単に言うと細胞が呼吸をするためには、ミトコンドリアの活動が必要なんです」

 恵太の脳裏に、唯の姿が浮かぶ。そうだ唯が以前、同じような話をしていたことがあった。だが薄ぼんやりとした記憶があるだけだ。どんな顔で何を話していたのか、手が届きそうで届かない。恵太はもどかしくて頭を掻きむしってしまいたかった。

「唯は、ミトコンドリアがうまくはたらかない体質による、心臓の病気を抱えていました。根本的に治す方法が無いとされている、難病です」

 莉花のインタビューの時の唯の異変、学校を頻回に休むようになった事実。彰高の言葉が耳に届くたびに、恵太は息がしづらくなるのを感じた。

「あの子は、自分の心臓がいつ止まるかと毎日怯えていました。そして、いつか思うようになったんです。いつ死ぬか分からないのなら、最後の日を自分で決めようと。それがあの子の考えでした」

 彰高は決められた台詞を朗読するように、淡々と語った。

「そんなの……それは、止めることはできなかったんですか?」

 恵太より先に、幽霊が口を挟んだ。恵太と対峙していた時と同じ、静かだが揺らぎのない声。

「私も、もちろん止めようとしました。ですが長い時間を経て出した答えです。あの子の心は、そうしないと壊れてしまうと」

 わずかに、彰高の声が掠れた気がした。

「あの子は、昔から本が好きでした。なんでも疑問があれば納得がいくまで調べる子でした。幼い頃から、おままごとの道具よりも本をあげた方が喜んでいたような子です」

 唯らしい、と本当なら温かく故人を偲ぶところだろうか。惜別を分かち合うためでなく、死の真相を突き止めるための説明となっていることが恵太には疎ましかった。

 時々言葉を選ぶように留まりながら、彰高は話を続ける。

「だから、あの子の母親が同じ心臓の病気で亡くなった時、自分にも遺伝している病気の存在に気付いてしまった。自分で調べて辿り着いてしまったのです」

「遺伝……」

 恵太は誰に向けるわけでもなく声を漏らした。

「ミトコンドリアは、母親からの遺伝情報で作られます。と言っても、母親が病気だからと言って必ず子どもが病気になる訳ではありません。だからこそ、唯が自分も母親と同じ病気ではないかと言い出した時、私は検査を受けさせました。唯の心配が杞憂に終わると信じて」

 恵太は、徐々に全貌を理解しながら腑に落ちない感覚も抱えていた。この後の彰高が話すであろう結末も、朧げながら見えてきている。だが、全て納得できるとも思えない。

「検査をしたら、実際には心臓の病気が見つかったと?」

 幽霊も同じ気持ちなのか、娘を亡くした父親への同情とは、違った感情がある目に思えた。どこか警戒心を孕んだ、険しい目。彰高はそれに気づいてか気づかないでか、前だけを見据えて続けた。

「そうです。そして実際に、唯の体には異変が起こり始めていた」

「もう、残された時間が多くなかったということでしょうか」

 幽霊の問いに、彰高は静かに首を振った。

「いえ、そんなことはありません。医師の説明では、根治は難しくとも、すぐに致命的なことになる可能性は低いとのことでした」

「そんな、それじゃなんで自殺なんか」

 恵太の心の叫びを形にするように、幽霊が声を上げた。

「あの子がなぜその決断をするに至ったか、あの子が何に苦しんでいたか、聞いて頂けますか?」

 彰高は目を閉じ、一つ息を吐く。恵太にはそれが、心の中で唯と対話している姿に思えた。

 恵太と幽霊が頷くと、彰高は唯の過去を振り返り始めた。

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