第3章-10

 店内に時計が無いことがもどかしかった。もう、どれほど時間が経ったのか分からない。帰りの電車の心配はまだ必要ないだろうが、もっと差し迫った問題があった。気力の限界が来つつある。何杯目か分からない酒が、この瞬間にも幽霊の喉を通り過ぎていく。恵太は横目でその姿を確認しながら、ごくさりげなくスマホに手を伸ばした。

「はい、時間を見ようとしない」

 一体どこに目がついているのか、何度挑戦しても幽霊に見破られては一喝される。腕時計を着けて来なかったことが、心底悔やまれた。

「ねえ、唯ちゃんのこと好きだったの?」

 この質問も何度目か分からない。無間地獄のような時間は、大よそ幽霊が質問をしてそれに恵太が答えることで成り立っていた。幽霊は情報交換と言っていたが、情報は一方通行にひたすら恵太から幽霊へと流された。始めこそ幽霊の艶やかさに微妙な緊張感もあったが、今では憎たらしい顔にさえ見えてくる。美人は三日で飽きるとはこういうことか、と恵太は投げやりな感想を思い浮かべた。

「だから、好きとかじゃないと思うんだって。多分」

 繰り返される質問への答えは、終始これだった。

「多分って何よ。好きか嫌いかって聞いてんでしょ。じゃあ、唯ちゃんは恵太のことどう思ってたの?」

「それは、分かんねえけど。ただの暇つぶし相手だろ」

 唯が考えていたことは、今も何一つ理解できる気がしていない。幽霊はつまらなさそうにそっぽを向いた。

 恵太の回答に対する幽霊のコメントは、段々と変化してきていた。始めは控えめだったが、今や馴れ馴れしくさえある。酔いが回ってきてのことなのだろうが、生まれて初めて接する酔っ払いとの一対一は、恵太には精神修養か何かに思えてくる。

ママさんに助けを求めようとその姿を探すが、後から入って来た客の相手に追われているようだった。

「もう、煮え切らないな。分かった、じゃあここからは私の話を聞きなさい」

 返事はしなかったが、幽霊は待つ様子もなかった。

「キミには前から言いたいことが山ほどあったの」

 荒い波が引くように、一転して幽霊は声を落とした。時計ばかりが気になりながらも、調子を変えられると自然と耳がそちらへ向いた。

「大事な友達が死んで悲しいのは分かるんだけどさあ。ちょっと今のキミは情けないんじゃない?」

「なんだよ情けないって」

「いい? 唯ちゃんは死んじゃったけどキミは生きてるんだよ? 唯ちゃんができなかったことを、まだまだできるってことでしょ。それなのに、ちょっと唯ちゃんのこと羨ましいって思ってるでしょ」

「羨ましい?」

 意味が分からず、そのまま言葉を返すしかできなかった。酔いのせいでデタラメを言っているのかと疑う。

「そう。こんなつまらない世界から死んでいなくなって、羨ましいって思ってる」

「なんだよそれ、勝手なこと言うなよ」

「じゃあ聞くけど、唯ちゃんが死んでから一度でも、死にたいって思ったことない?」

 幽霊の口ぶりは、全てお見通しとでも言いたげな決めつけに満ちていた。強い眼差しに、本当は覚えがあった感情と向き合わされる。確かに、何度か口にしたことがある『死にたい』という感情。

「どう? あったでしょ?」

「あったけど」

 声を絞り出して、息を吸い込む。言い返したい言葉が次々に浮かんで、どれからぶつけていいか迷うほどだった。恵太は噴出すような熱を感じた。声に乗せて、一気にぶつける。

「そんなのあんたに関係ないだろ。なんでいきなり説教なんだよ。それに、いつまでも死にたい死にたい言ってるわけじゃねえよ」

 吐き捨て、視線を逸らすように正面を向き直った。ママさんが心配そうに見つめてきていることに気づき、慌てて目を伏せた。

「私がなんでキミに付きまとうのか教えてあげる」

 恵太の熱は吸い込まれてしまったかのように、幽霊は涼しいままの目で言った。

「ムカついたからよ」

 心臓を掴まれたような感覚。急に顔を出した敵意。黙っていたら握りつぶされてしまいそうだった。なんであんたにムカつかれなきゃいけない、と咄嗟に返そうとしたが脳裏には全く違う理屈がよぎった。この理不尽さを説明できる、ただ一つの答え。

「死んでるから、か?」

 まさか、と恵太は思ったが幽霊は淀みなく頷いた。

「そういうこと。死んでしまった私からすれば、死にたいなんて言ってる奴は全員ムカつくの。それがたとえ、大切な人を亡くした後でもね」

 恵太は幽霊が死んでいること自体、ありえないと否定してしまいたかった。何度か開きかけた口はうまく動いてくれない。もし本当に幽霊が死人だったら? 確かに恵太のことは腹が立つのかもしれない。そもそも、幽霊がしてきたことは未だに説明がつかない。莉花を呼び出した方法も、こうしている動機も謎のままだ。

「この際、私が本当に幽霊かはもうどうでもいいよ」

 恵太の逡巡に、幽霊の声が割り込んでくる。あれだけ死人だと主張してきたのに、今度はあっさりと矛先を下した。何を信じていいか分からず、恵太は耳を塞いでしまいたくなる。

「ただ、唯ちゃんの気持ちになって考えて」

 唯の気持ち。停止しそうな思考の中で、辛うじて耳に残ったその言葉を、ただ頭の中で繰り返した。

「別に、何も答えが分からなくたっていいじゃない。唯ちゃんが死ぬ前の日にも会ってるんでしょ? そんなの大切な人だって思ってたからに決まってるじゃん。唯ちゃんを信じてあげてよ」

 唯を信じる? 自分は唯を疑っているのだろうか。だとしたら何を疑うというのだろう。頭がぐらつき、考え続けるのが難しくなる。

「キミに今必要なのは、唯ちゃんの死を追うことじゃないでしょ。自分の生きる道をしっかり見つけることだって。唯ちゃんが生きてたら、きっとそう言うでしょ?」

 打ち付けるような強烈な違和感。それが恵太に正気を取り戻させる。

「でももし、自殺じゃなかったら」

「だから、唯ちゃんは自殺したんだって!」

 幽霊は突き放すように苛立ちの声を上げた。速く重い、地響きのような鼓動。自分の胸から起こり、恵太に違和感の正体を決定付けさせた。莉花と話していた時もそうだ。唯の自殺を疑うと、この女が邪魔をしてくる。目的はなんだ。この女は何かを、隠しているのではないか。

幽霊は声を荒げたことを後悔したように頭を抱えている。つい先ほどまでなら、調子に乗りすぎた酔っ払いの仕草といったところだろうか。今の恵太には、見過ごしていいものか分からなかった。

「あのコ、死んじゃったの?」

 予想外の方向からの声に、思わず声を上げそうになった。幽霊も反応して、のそりと顔を上げる。二人の正面に、眉毛をハの字にしたママさんがいた。

「嘘だと思ってたんだけど、本当に死んじゃったのね」

「唯のこと知ってるんですか?」

 恵太は目を見開き、ママさんの一言一句聞き逃すまいと身を乗り出した。

「おにいちゃんは、あのコのお友達でしょ? 恵太って、よく話に聞いてたわ」

「はい、そうです」

 恵太が答える。幽霊は気まずそうに押し黙り、この店に来た時とは二人の様子は真反対になっていた。ママさんは短く唸った後、カウンターに手を付いて顔を寄せて来た。

「お客さんのことは本当は言わないんだけどね。亡くなっちゃったのなら、お友達に聞いてもらった方がいいと思うから」

「ママー、水割りちょうだい」

「あんたは飲みすぎだから、もうおしまい」

 テーブル席の中年男は注文を跳ね除けられたというのに、怒る様子もなく同席者の方へ向き直った。得意げに胸を張ったママさんは、唯が来た時のことを話し始めた。

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