第3章-9

 ゲームセンターから外へ出て、洪水のような音のぶつかり合いを足早に遠ざけた。夕暮れも省略して暗くなっている大通りが、恵太の頭を惑わせる。過剰な光と音から解放された先は、予想していたより随分早く夜の街へと顔を変えていた。通りを進み、約束の大型ドラッグストアの前に立つ。あと一分ほどで約束の時間だろう。辺りを見回すと、近づいてくる黒髪の女を労せずして見つけた。人混みの中から現れると、大抵の女より頭ひとつ高いことに気付く。

「ん、ちゃんと制服は着替えて来たのね。あとは髭でも生やしてみる?」

「そんな簡単に生えねえよ」

 幽霊女が当然のように顎を触ろうとしてくる。顔だけ避けて、目的地の方へ目線を向けた。

「行こう」

「やる気あるじゃん。結構怖がってたくせに」

「怖えよ。つか、怖くないのかよ」

「怖いわけないじゃん。もう死んでるのに、何を怖がるの?」

 その理屈だと、確かに怖くはないのだろうが。こちらは幽霊という設定ではないことを察してもらいたい、と恵太は肩をすくめる。

 見慣れた繁華街のエリアは、残すところ目前の通り一本分となっていた。歩行者天国の左右両側に、判で押したようなチェーンの飲食店や居酒屋、服屋、雑貨屋が続く。気まぐれに行先を変え、店に吸い込まれていく人にぶつかりそうになる。幽霊女との慣れない二人歩き。煩わしさに顔をしかめる恵太を尻目に、幽霊女は歩みを乱されることなく進む。幽霊だから周りと干渉しないのだろうか、と考えている自分に気づき苦笑した。

最後の通りの終わりが見えてくる。そこから先は、遠目に見ても明かりのない路地だった。シャッターが下りた建物や、誰が住んでいるのか想像しづらい一軒家。端までの距離に比例するように人が減り、同じ方向に進む影が不気味に見えるほどになっていた。若い男と女が、それぞれスーツ姿で距離を空けて歩いている。路地の端はすぐに大きな車道に面していて、目の前を車が走り抜けていく。一見十字路になっている大通りの斜め向かいに、五本目の道が細々と伸びていた。信号が変わって車道の向こう側へと進むと、恵太達以外にいた二人の姿はどこかへ消えていた。

「さあ、恵太くんには未知の領域だね」

 からかうように幽霊女が笑う。この余裕の根拠が、恵太には想像できない。唯も幽霊女も、女は分からない奴だらけだ、と頭を抱えたくなった。

 幽霊女が躊躇わず進むので、恵太も負けじと先を歩こうとした。ここから桜町通り、という看板でもあれば心の準備のしようもあったが、どうやらそんなものは無いらしかった。暗闇の雑居ビルから張り出すスナックの看板が増えてきて、すでに桜町通りに踏み込んでいると知る。あまり繁華街の路地裏と変わらない光景に、恵太は肩の力が抜けるのを感じた。

「さて、どこで聞き込みをするかだけど、やっぱりもっと人がいる方かな」

 幽霊女は恵太の意見を待たず、どんどんと奥へ進んで行った。前を歩こうと思っていたが、いつの間にか幽霊女に行く先を委ねる形になる。呼び込みの男と目があったが、高校生だと気づかれたのか他の通行人へ声をかけていった。幽霊女は迷うことなく方向を決め、何個目かの角を左へ折れる。視界が未開の道路と向き合った瞬間、恵太の足は無意識に止まった。

「ちょっと、止まらないでよ」

「あ、ああ」

 振り向く幽霊女に、なんとか返事をした。どこを向いても眩むような電飾が飛び込んできて、必ず一緒にいかがわしい単語が並んでいる。まともに見ることができたのは『無料案内所』という一際大きな文字だけだったが、健全な場所ではないだろうことはすぐに察しがついた。

「お兄さん、おっぱいどう?」

 競り市ばりに威勢のいい声に目を向けると、黒染めしたニワトリのような頭の男が笑っていた。

「いや、いいです、大丈夫です」

「いいってことは、いっちゃうってこと? よし、じゃあちょっとこっち行こうか」

「いや違うって、行かないっての」

 聞こえていないのではないかと思うほど、男はお構いなしに恵太の腕を引いた。店先の方向に連れて行こうとしていると分かり、ようやく危機感が湧いてきた。血の気が引く中、首根っこを捕まれ軽い痛みとともに動きが止まる。

「ちょっと」

 幽霊女が恵太の服の襟元を掴み、男を見据えていた。

「私の客なんだけど」

 男と幽霊女がぶつけ合う視線を、かいくぐる様に恵太は首を引っ込めた。それがするべき行動なのかは分からない。男は値踏みするように、幽霊女の下から上へと視線をなぞらせる。

「マジかよ、ごめんね。早く言ってよ」

 とる態度を決めたのか、スイッチを押したように男は笑顔を作り直し、恵太から手を離した。軽くなった分、幽霊女の方へよろけそうになる。

「ほら、行くよ」

 首を掴んでいる手から、幽霊女の握る力が伝わってくる。再度力が込められたかと思うと、男から引き剥がすように歩き始めた。

「なあ、こういう所で働いてた人?」

「そんなわけないでしょ。一回言ってみたかっただけ」

「言ってみたかったって、『私の客』ってやつを?」

「ふふん、ちょっとカッコよかったでしょ。ほら、この辺で止まってるとめんどくさいから、さっさと行くよ」

 幽霊女は一瞬だけ勝ち誇ったように笑みを浮かべると、宣言通り速足になった。首根っこを掴んで女が男を引きずっている。異様な光景のはずなのに、お構いなしに何度も呼び込みに声をかけられた。周りを見れば、外国人が若い女を担いでいたりカップルが地面に寝そべっていたりで、自分たちの異様さはこの場では些細なものなのだと気づかされた。

「いい? 声をかけられたら無視するのよ。相手してたらどんどん図に乗るから」

「分かったから、手を離せって」

 幽霊女はさっそく手を離し、前を見据えた。変わらずかかる声に、目もくれないで突き進む。恵太もそれに倣って、後を追った。呼び込みにも的確に声をかけられる幽霊などいてたまるか、と妙な自信を得ていた。

「これ、どこに向かってるんだ?」

 周りの音に消えないよう、前を行く幽霊女へ声を張る。

「もう少し先まで」

 幽霊女は一瞬だけ振り返ると、また足を進める。これ以上奥へ行くといよいよ後戻りできなくなるのではないかと、沸き立つ不安が恵太を包んだ。学校で聞いた桜町通りの情報が、頭の中で飛び交う。幽霊女は怖がっていないが、外国に売られたという話さえあるというのに。

もしヤバイことに巻き込まれそうになったら逃げて警察を呼ぼう、そう思ってスマホを確認する。電池の残量を示すゲージが赤くなり、残り十五パーセントと表示されていた。途端に心細くなって、幽霊女を呼び止める。

「ちょっと待ってくれ」

 不思議そうに眉を上げて、幽霊女が振り向いた。

「なあ、まだ奥に行くのか? そろそろ場所決めようぜ」

 幽霊女はようやく止まり、相変わらず余裕のある笑みを見せた。

「そうね、呼び込みがいるところは抜けたし、作戦を練ろうか」

 幽霊女の言葉で、恵太は初めて群がるほどいた呼び込みの連中がいなくなっていることに気付いた。いかがわしい店も飛び石で残っているが、チェーン店など安全地帯と呼べる場所も増えている。恵太は見知った飲食店の暖色に、これまでにない頼もしさを覚えた。

「どこか、唯ちゃんが関係ありそうな店あった?」

「なんだよそれ、分かんねえよ」

「あれ、探してって言ってなかったっけ?」

 幽霊女が、彫りの深い目を丸くさせた。

「え、もしかして探すためにここまで来たのか?」

 嫌な予感。否定してくれる期待を込めて、恵太は聞き直した。

「そうだよ。だって闇雲に聞き込むの、無理があるでしょ」

「せめて先に言ってくれよ」

 異様な光景と緊張感に晒され続けた疲労もあって、恵太は崩れ落ちそうになる。よろけたところで、足元で寝ている中年を見つけ踏ん張った。顔の横に吐いたものが流れ出ているのが目に入り、数歩離れる。

「じゃあ、何も分かんないなら私が決めていいよね?」

「なんかアテがあんのかよ」

 重たい自分の体を、引きずるように起こし顔を上げた。

「大体ね。それじゃ、行こうか」

 幽霊女は進みかけていた方向へさらに歩いていく。アテがあるはずもないと踏んでいた恵太は、口を半開きにしたまま追従する他なかった。

 迷うことなく、アルファベットを綴るネオンの前で幽霊女は止まった。青く筆記体で記されているのが店名だろう。恵太は筆記体を思い出すのが億劫で、店名を読むのを諦めた。いかがわしい店ではないらしい、ということ以外恵太には中の想像がつかない店構えだった。

「なんでここなんだ?」

「幽霊の直感」

 続けての質問も制止も許さず、幽霊女はドアを開けてしまった。奥まで暗闇が続いているように見えたが、店内に踏み入れると見渡すのに苦労しない程度の明るさが保たれている。奥にテーブルの席も見えたが、幽霊女は迷わずカウンターを選んだ。

 二人が座るとカウンターの奥から「よいしょ」と女の渋い声がした。いかにも、重い腰を上げて来ましたと言わんばかりだ。てっきりバーテンダーが出てくるものだと思っていた恵太には、予想外の展開だった。

五十代か、もしかしたら六十代だろうか。大きな赤い石が胸元で光っているが、他の装飾は化粧も含めて控えめに見えた。それでも、形の良い鼻筋とぱっちりとした目元は若いころモテただろうと感じさせる。髪は茶色に染めているが、さすがにややボリュームが寂しく見えた。動きの緩慢さといい、本当は想像のさらに上の年代なんだろうか、と恵太は想像した。

「飲み物これね」

 白い手が伸びて、メニュー表が恵太達の前に差し出される。ようやく営業モードに入ってきたのか、ニコリとファンデーションの匂いがする笑顔が添えられた。メニューを受け取った幽霊女は難しそうな顔で、一つ一つを指でなぞっている。

「恵太は何にする?」

 いつの間にか呼び捨てになっていることには触れず、恵太はオレンジジュースをと頼んだ。

「ママさん、オレンジジュースとスクリュードライバーをお願い」

「はいよ。ちょっと待っててね」

 慣れた手つきでシェイカーを振る姿に、恵太と幽霊女は思わず見とれた。外見と動きの差に、期待を感じて目が離せなくなっている。カクテルが注がれる様は淀みがなく、アンドロイドを見ているような気分だった。二人の口から、揃って感嘆の声が漏れる。

「そんなにババアの作る酒が珍しい? はい、おにいちゃんはジュース」

 細長いグラスに注がれたオレンジジュースは、店内の淡い照明を反射している。華奢なガラスが容易く壊れてしまうように思えて、恵太は指先だけで受け取った。

「あの、ママさん。ここに高校生の女の子が来ませんでしたか? それか、近くの店でそういう話を聞いたとか」

 幽霊女がカウンターから背を向けようとする『ママさん』を呼び止める。ママさんという呼び名も、妙に高く座りにくい椅子も新鮮で、恵太はちょっとした冒険気分になっていた。

「高校生? 来るような所に見えんでしょう。おにいちゃんも、イケメンじゃなきゃ追い返してたわよ」

 恵太の方を見て、陽気に手を仰ぐ。改めて、高校生がいるべき街ではないと警鐘を鳴らされている気がする。強面の男につまみ出されるような展開にならなかっただけ、運が良かったのかもしれないと思った。途端に湧いた居心地の悪さをこらえて、恵太は食い下がる。

「黒い髪に、眼鏡をかけてたはずです。それで、多分一人……だったんじゃないかと思います」

 一人だったと言い切りかけて、恵太は語気を弱めた。桜町通りで見たという奴の話が本当だとして、その時一人だとしても、直前に誰かと別れた可能性だって十分ある。というより、恵太が直前まで見ていた通りは、唯が一人で歩いて来られる所とは思えなかった。

「なに、家出でもしたのかいそのコは」

 ママさんの目が丸くなる。いえ、と恵太は小さく否定した。

「悪いけど、うちには来てないよ。さすがにそんなコが来たら、ババアでも覚えてるわ」

 笑い飛ばそうとして思いとどまったのか、複雑そうな笑みを浮かべて二人を見比べてきた。幽霊女が同じような顔で「そうですね」と薄く笑う。

「おにいちゃん、ご飯食べたの?」

「いや、まだです」

「裏メニュー作ってあげようか。美味しいものでよけりゃ、簡単に作れるから。待っててな?」

 提案というより、もう決定事項のようだった。ちょうど空腹感もあって、恵太には拒否する理由も元気もない。ただ財布の中身は、少し使えば電車賃も危うい。幽霊女にだけ聞こえるよう、「金ない」と囁いた。

「そんなの気にするな若者」

 間髪入れず答えた幽霊女は、なぜかやたらと逞しくみえた。幽霊女は裏メニューとやらの他に、ナッツの盛り合わせとピザを注文する。ドリンクと合わせるとすでにファミレスでデザートまで満喫できる金額になっていて、恵太はますますこの場に自分が溶け合わない気がした。

「さすがに外しちゃったか」

 ママさんがカウンターの奥へと消えていったところで、幽霊女がこぼした。

「マジで直感だったのか?」

「うーん、根拠ゼロってわけでもなかったんだけどね」

 恵太のジュースと同じオレンジ色だが、カクテルとなると飲み方も変わるのだろうか。幽霊女は唇を濡らすように静かに口を付けた。

「まあ、これもいい機会じゃない」

「いい機会?」

「そう。私たち、お互いのことあんまり知らないでしょ? 私は唯ちゃんのこともちゃんと知らないし。こうして喋って情報交換すれば、いいアイディアも浮かぶかもよ」

 得意げにグラスを傾ける幽霊女を見て、恵太はここに辿り着くまでの疲労感が一気に押し寄せてきた気がした。

「情報交換って言っても、幽霊はなんも知らないんだろ」

「お、やっと幽霊って呼んだね」

 恵太の言葉の変化に目ざとく反応する。恵太としては、呼び名での不毛な争いに辟易しているだけだった。幽霊の言葉には応えず続けた。

「こんなヤバイ所までわざわざ来てるんだぞ。何か新しいこと見つけたいんだよ」

「ヤバイところ?」

 幽霊はなぜか、吹き出すのをこらえるように口を片手で覆った。

「ヤバイところだろ? ヤクザがいたり、海外に売られたり、薬漬けにされたり」

「そんなわけないでしょ」

 カクテルを一気に流し込み、幽霊は愛おしいものを見るように目を細めた。

「意外と可愛いこと言うのね、今時の高校生って。ドラッグだなんて、どこの世界の話をしてるの」

「どこって、桜町通りのことは学校でも有名だぞ」

「ねえ、今通って来たところにそんな危ない場所があるように見えた?」

「いや、呼び込みがうるさい意外は別に」

 来た道を思い返す。確かに、ヤクザらしい姿も闇に溶けるようなクラブもなく、せいぜい酔っ払いが謳歌している程度の街並みだった。

「でも、まだこの先があるだろ?」

 幽霊は今度は手で覆わず、高らかに声を出して笑った。

「残念だったね、桜町通りはここで終わり。今見て来たので全部よ」

「え? 嘘だろ?」

「嘘じゃないよ。だったら外見てもう少し先に進んでみたら?」

 狼狽えて聞くその案は、妙案に思えて恵太は席から離れようとした。すぐに腕を掴まれ幽霊が顔を寄せてくる。

「ちょっと、本気で見に行く気? 帰りに見てみればいいでしょ」

 それもそうだ、と心の中で納得し腰を下ろし直す。

「こんなとこ、ただの飲み屋街だよ。それか、風俗街」

 風俗街と聞いて、できるだけ見ないようにしていた看板の文字が頭に浮かぶ。どれも方向性の違いはあれ、等しくいかがわしい。そこを変人とは言え若い女と一緒に通り抜けて来た意味を思うと、冷たい汗が噴き出てくる気がしてオレンジジュースでごかました。

「はい、お待たせ」

 ママさんの声とともに、二人の前に注文していた品物が並べられていく。

「ごめんね、忘れてた」

と茶目っ気たっぷりに首を傾げ、ナッツも一緒に出された。幽霊がカクテルのお代わりを告げ、ママさんはまた引っ込んでいった。

「自由なお店だよね。嫌いじゃないけど」

 恵太の前に、幽霊が茶碗を差し出した。目玉焼きと豚の角煮がご飯の上に乗っていて、どうやらこれが裏メニューらしい。途端に空腹感を思い出して、恵太は遠慮なく頂くことにした。

「しっかり食べなよ。まだまだ夜は長いんだからさ」

 横目で声の主を見やると、ほんのり桜色の頬をしていた。

黒髪の隙間から覗く桜色を見つめていると、幽霊が髪をかき上げ指を耳になぞらせる。その仕草を見ている間、恵太の思考は完全に止まっていた。

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