第3章-1

 三十六個の机のうちの一個が花で飾られていたとして、学校の時間に大きな変化がある訳ではなかった。花だけ見てしまえば志半ばで消えた夢、無限にあったはずの可能性、生への希望、と訴え来るメッセージはあれど、現実は三十五個の日常と未来が大切だ。きっと、その机の主がもうここに現れないと知った日から、誰もがそうやって正当化している。教師も生徒も、最初の何日かは唯の死を悼む言葉を口にしていたが、十日も経てば花の水やりと交換だけが唯へ割かれる時間だ。それは本来三十六分の一として割かれる時間よりも、ずっと簡略化された扱いに感じられた。恵太よりもずいぶん速やかに、クラスと教師たちは本来の日常を取り戻すという作業を果たしつつあるのだろう。いなくなってしまえば、異を唱えるものもいない。死人に口なしとはよくできた言葉だ、と恵太は遠い世界のことのように感心した。

 教壇に立って解説をしている数学の教師も、以前となに一つ変わった様子はなく授業を進めている。今となっては、唯の席を見なければクラスメイトを一人失ったばかりの教室とは誰も想像できないだろう。

恵太は、心許ない頭髪の数学教師が授業のたびにお悔やみを言う姿を思い浮かべて可笑しくなった。咳払いで口を覆ってごまかす。想像しただけで、あまりに不釣り合いだ。あの髪は、きっと公式に向き合うだけでは許されない、人間関係のストレスによって起きたものだ。生徒の死を悼み、残った生徒に気を配ることなど不向きだろう。勝手にそういうことにし、今の授業風景が正しいのだと結論づけて机に片肘をついた。

 一昨日の幽霊女といい、考えれば笑いがこみ上げてくるようなことばかりだ。唯が死んだ衝撃で、自分の感覚は壊れてしまったのではないかと不安になる時もある。だが、思い起こせば幽霊女の方が非常識なのは揺るがない。あれに比べれば自分はきっとまだまだまともなのだと思い、自信を保つ。

 机の下で、手持ち無沙汰にスマホを取り出す。新しい着信はないようだった。幽霊女は莉花と話しができるようになったら連絡すると言っていた。だが、その莉花の連絡先も顔も知らないはずだ。知っていたところでどうなるものでもないが、アクセスできないのであれば万に一つの可能性も起きようがない。

 幽霊女の正体について、恵太は一つ仮説を立てていた。唯が、恵太をからかうために幽霊に繋がると嘘をついて、唯の知り合いの電話番号を渡してきた可能性だ。生け贄のヒントの真相がそんな話だとすると、随分と理不尽にも思えるがいろいろと説明はつく。唯と恵太の名前を知っていて当然という訳だ。問題は、唯と幽霊女の接点が思い当たらないことだ。唯に幽霊女のような知り合いがいるとは聞いた覚えがなかった。それに、唯が死んだ後まで続ける理由が分からない。

恵太はかぶりを振った。いずれどうでもいいことになっていく疑問だ。莉花と話せるようにするなどと不可能なことを引き受ける辺り、幽霊女はもう姿を現す気がないのだろうから。

あとは、自分の得体の知れない感覚が戻れば他のクラスメイトや教師と同じだ。恐らく恵太だけが今も持っている、喪失感? 後悔? 自責? 嫉妬? 名前をつけようと思えば付けられそうな、自分でも正体に気づいていないような、不安定な感覚。不思議なのは、そこに悲しいという感情を欲している気がすることだ。やがて時間とともに実感し、悲しみも湧いてくるものかと思っていたが、十日経っても変わらないとなると、その感情は一生起こらないのではないかと焦りさえ感じてくる。クラスの女子が泣いていたのが報せの翌日。話題にさえ上らなくなってきているのが、十日後の今。唯の死を悲しむ日が来ないというのは、正しいことなのだろうか。このままではいけない気がするという、体の内側にある違和感。その正体を知りたくとも、唯が死んでからあるのは、流され続けたいという疲弊した感覚だけだ。

 物思いに割り込んできたのは、手元に持っていただけのスマホの画面だ。見慣れた数字の羅列が、真ん中に浮かび上がってくる。電話番号で届くショートメールだと分かり、恵太はスマホが震えるよりも早く指で触れ、メールの中身を開いた。

『莉花ちゃん話してくれるって。今日の放課後、三人で会うよう約束しておいた』

 喉から漏れ出そうになった声を、必死で堰き止めた。周りを見やるが、不審に思われている様子はない。改めてメールを読み直す。内容が本当なら、たった二日で莉花と接触し、約束をとりつけたということになる。それができる可能性を、頭の中で探してみたが不可能としか思えなかった。一瞬、『幽霊』『超能力』という言葉が脳裏をよぎる。恵太はまた、自分がおかしくなってきたのか不安にかられることとなった。まずは本当か確かめてからだ。心の中で呟いたが、背中に滲む汗を止めるのは簡単ではなかった。

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