第2章-6

 ショッピングモールのベンチで、間を空けて座る二人は傍から見ればどんな関係に見えるのだろう。いかにも学校帰りな制服姿の男子高校生と、一方は黒くて長い髪と白い肌が、作り物みたいに映える年上の女性。藍色のノースリーブから覗く腕も白く、雪国の生まれを連想させる。そのうえさらに整った目鼻立ちが人の目を惹きつけるのか、買い物客やカップルが振り向く視線を、恵太は隣にいるだけで何度となく感じることとなった。

恵太はもう何往復も、彼女の顔を目を耳を口を、体を、手を足を見ては、また顔へと視線を戻した。恐らく世の男がしたいその行為とは、違う視点で眺めていた。

「いや、どう見ても生身の人間でしょ」

率直な感想だった。自称幽霊女が『会えば分かる』とばかりに豪語するので、何が起こるのかと思えば、人間らしい人間が現れた。強いて言えば、その容姿の端整さは非現実的なのかもしれないが。

「じゃあキミが思う幽霊ってどんなの?」

 電話と同じ、低く落ち着いた調子の声だ。電話で交わしたのは、翌日の夕方五時半にこの場所で会うという約束だ。まさか本当に来るとは。そして当たり前といえば当たり前だが、普通の人間が来るとは。半信半疑だった恵太は、二重三重に驚いていた。

「いや知らないですけど、心霊写真とかもっとボヤっとしてる、じゃないですか」

 当面の迷いとして、敬語を使うべきかという点があった。電話で興奮してまくし立てた手前、必要ないかと思っていたが、目の前にすると気が引けてくる。恐らく三十にはなっていないだろうとはいえ、相手が年上なのは明らかだ。尚且つ、嘘をついて恵太をからかっている陰湿女、というイメージとは少し違っている気がしていた。

「ああいうのもあるかもしれないけど。ほとんどの人が気づいてないだけで、幽霊なんてこうしてそこら中にいるのよ。ほら、あの人も幽霊」

 女が目立たないように指差した先には、自動販売機でコーヒーを買うサラリーマンらしき男がいた。

「いやいや。コーヒーとか飲まないでしょ、幽霊って」

 言っている端から、男は缶を開け、その場で気持ちよさそうに一気に喉に流し込んだ。あれが幽霊だとしたら、この世の中の何を信じればいいのだろう。

「ふーん」

 電話で聞いた覚えのある、吐息交じりの声。物憂げな仕草ひとつさえ、自称死人という非常識な前提がなければ見とれてしまいそうだ。女は膝の上の白いハンドバッグから、しなやかな指先で白いスマホを取り出した。肌だけでなく、持ち物まで白がよく似合っていると恵太は思った。

「ちょっと待ってて。今証拠を出すから」

 何か見せたいものを探しているらしく、難しそうな顔をしながら指を滑らせている。自分のスマホがある辺り、どう贔屓目に見ても死んだ人間とは思えない。だがそもそもスマホを持っていないと電話に出られなかったわけで、そう思えば不自然ではないのか。などと一通り考えたところで、馬鹿らしくなって鼻で笑った。

「はいこれ読んで」

 女が差し出したのは、インターネットのニュース記事らしかった。写真はないが、新聞のように大きな見出しに自然と目が行く。

『二十代の女性が飛び降り自殺』

 潔いほどシンプルな見出し。横書きで詳細が書かれた記事の部分には顛末が連なっている。まだ記事を読んでいる最中なのに、女が何かを視線に割り込ませてきた。整っていながらどこか気の抜けて見える女の顔と、生年月日や住所、プラスチックの質感。運転免許証という印字を見るまでもなく免許証だ。女の意図を汲んで、名前を確認する。山岸遥、その情報と自殺の記事がどう繋がるのか。恵太は見たばかりの三文字の漢字を拾い逃さないよう、記事に目を走らせた。要点を飛び飛びに口ずさみながら、指でなぞる。さほど労することなく、記事の中段に標的の三文字を見つけた。

「亡くなったのは山岸遥さん二十五歳で、大学院生とありますね」

 画面から顔を上げて女の様子を窺うと、力強い頷きがそこにあった。

「そう、それが私」

 何か確信めいたように、薄紅色の口端が上がる。難解な数学の公式でも解けたような顔。恵太は女の満足気な顔に配慮して、控え目に問う。

「もしかして、これが死んだ証拠ってことっすか?」

「そうだけど?」

「でもこれって、たまたま同姓同名の人かもしれないですよね」

 女は不満げに息をついたかと思うと、足を放り出したように座ったまま、吹き抜けになった通路の向こう側で遊ぶ子どもを見つめ始めた。指摘は的を射ているはずなのだが、こちらが間違っているような気にさせられて身動きがとれなくなる。

「そんな偶然まで気にしてたら、どうやって証明したらいいの」

 自称幽霊女は言い終わりの合図のように、小さく唇を尖らせた。恵太は意識して目を逸らし、状況の整理に努める。惑いが生じそうになりながらも、恵太を奮い立たせる一つの感情があった。

「もうなんでもいいんすけど、結局何が目的なんですか? こんな信じるはずもない話のために、わざわざ会いに来たってことですか?」

 一度切り込みを入れれば、あとは簡単だった。死んだ唯の話まで利用してからかおうとしている人間、そいつを黙らせたいというのが、恵太をここまで突き動かした動機だった。

「それはこっちのセリフでしょ」

 幽霊女が、難しそうに寄せた眉のまま続けた。

「あなたが電話してきたんだから。何か用事があって電話してきたんでしょ? それともイタズラ? 私も死んでるとはいえ忙しいんだから、困るんだけどそういうの」

 あくまでも死人として話してくる部分は聞き流すとして、恵太は言葉に詰まった。自分から電話をしたのは否定しようのない事実だ。この場合、どちらにイタズラとしての非があるのか、中立者に裁いて欲しい気さえしてくる。裁いてくれる人、から無意識に警官を思い浮かべて辺りを見渡したが、家族連れや学生が通り過ぎていくだけだった。短い現実逃避を終えて、恵太は腹を決めた。

「すみません、用事があるわけじゃなかったんです。それは謝ります」

「興味本位ってこと?」

「興味本位っていうか」

 否定しようとしたが、他に納得のいく説明はできる気がしなかった。

「興味本位、かもしれないです」

 女はまっすぐ視線を向けてくる。暗に責められているのか、他の意図があるのか、恵太には分からなかった。それでも掘りの深い大きな目は、安易な言葉を口にさせない威力があった。

「嘘」

 電話の時にも、聞いた気がする声だ。何か恵太も知らない答えを知っているかのような、否定を許さない言い切り。面と向かった今、その言葉にはイタズラっぽい笑みが隠されていたことを知った。

「本当は、ユイちゃんのことが関係してるでしょ」    

 首筋から心臓まで、女の冷たい手でなぞられているような感覚。思わず目をやった女の手は、膝の上で上品に組み伏せられ、しっかり血色を帯びていた。生身の人間が相手だと再確認し、顔を上げる。

「俺の名前とか、唯のこととか、どうやって知ったんですか」

「それはね、なんて言ったらいいか」

 言葉を探して女の視線がまた子どもたちがいた方へ向く。いつの間にか、吹き抜けの向こう側は通り過ぎる人影だけになっていた。

「超能力、って言っていいのかな。死んでからね、時々そういうのが分かるのよ」

 漫画の中のような台詞を、真顔の大人から聞く日が来るとは思ってもみなかった。直面すると、現実の世界で口にすることの滑稽さが分かる。

「そういうのやめましょうよ。こっちはマジで気になってるんですよ」

「じゃあ、テレパシーかな? 私だってうまく言えないけど、キミと電話したとき、キミの名前とユイちゃんって子が死んじゃったってことは分かったの」

 平行線を突き進む会話は、一向に回答に近づきそうにない。自分でも、どんな答えが聞ければ解決なのか分からなくなってくる。

「ねえ、よかったらその、ユイちゃんて子の話、私に聞かせてくれない?」

「唯の話を? なんで?」

 敬語にし忘れた、と気づいたが言い直すのも馬鹿らしい気がした。

「なんでって、だってまだ若い子でしょ? なんで死なないといけなかったのか、気になるもの。それに」

 女と目が合う。一瞬の間が、恵太に止まない瞬きを強いた。

「死んでる私なら、何かできるかもしれないでしょ」

 恵太はぎゅっと目を閉じて、無理やり瞬きを押し込めた。痛くもないのに、こめかみに手を当て指を押し付ける。髪を触る振りで、何気ない仕草の中に隠した。

馬鹿げていると知りながらも、拭えない予感。期待感。その正体は、恵太自身にも分からなかった。ただ、唯が死んで以降の永遠に続くとも思える日常に、変化をもたらしたかったのかもしれない。その先にどんな結末が待っているのかは予想もせず、恵太は唯について話し始めた。



 初めは遠慮がちに飲んでいたスポーツドリンクは、とうとうペットボトルの底四分の一ぐらいの高さにまで減ってきていた。残りが少ないことに気づいて、恵太は口に運ぶ量を舌先を湿らす程度に留めた。幽霊女が一方的に買って渡してきた時から、止めどなく話続けて今。唯が自殺したことを話すぐらいだと思っていたのに、女の質問に答えるうちに出会いまで遡ることになっていた。思い出していると歯痒さや虚しさに襲われそのたび言葉が詰まりそうになったので、飲み物でごまかせたのはありがたかった。 

女は、時々質問はするものの、大よそ肯定するでも否定するでもなく、ただ神妙に恵太の話を聞いていた。ますます恵太には、女の目的が理解できないでいる。必然的に、唯が幽霊と話せる電話番号だと言っていた点にも触れることとなった。女がどんな反応を示すのか不安でもあったが、「そう」と拍子抜けするほど色のない返事があるだけだった。

「それで、キミはどうしたいの?」

恵太が無理やり笑い声を上げ、前向きな雰囲気にして締めくくろうとした後の、幽霊女の第一声。同調して笑う様子もない代わりに、静かに返事を促しているようだった。

「どうって? どうも無いですよ。話してくれって言われたから話しただけで」

 結果的に一人で空元気に振る舞うことになって、乾いた笑い声が置き去りになった。

「そう? 少なくとも私には、まだキミがやるべきことはあるような気がするけど」

幽霊女の言葉とともに、左腕に固い無機物の感触が当たる。飲みかけの紅茶が入ったペットボトルの側面で、軽く小突かれた。恵太が何か反応する間もなく、幽霊女の言葉が続く。

「しょうがない、協力してあげるか」

「協力? なんの?」

 言い終えると同時に、眼前にペットボトルの底面が突き出された。小突いた次はマイクにでも見立てたのかと思ったが、どうも指差しの代わりらしかった。

「なんの協力かは自分で考えなさい。ただ、当面の問題解決は手伝ってあげる」

 訳が分からず、恵太はペットボトルの底に目を向けていた。ただただ、協力とやらの一方的な提案を聞く。

「その、莉花って子がなんか怪しいんでしょ」

「ああ、まあ」

「じゃあ、私が話を聞けるようにしてあげる」

「あの逃げ方じゃ無理っすよ。どうやって話聞くつもりですか」

「大丈夫。私、幽霊だし。なんとかなるよ」

 次第に、揺るぎのない自信に満ちた態度に気圧されてきている気がする。

「話ができるようになったら連絡するから。そんなに何日もかからないと思うけど」

「そう、っすか」

「それより協力するにあたってお願いがあるんだけど」

 恵太の投げやりな反応を察する風もなく、幽霊女は力強い目と口調で自分のセリフを強調してみせた。

「その、無理のある敬語やめてくれる? 電話の時の方がよっぽど威勢が良かったから。あんな感じでいいよ」

 電話の時といえば、憤りもあって敬語を使う気など毛頭なかった。相手が見えないと感情にも任せやすかったが、女を目前にしては難しい気もする。

「そう、か?」

 つまりは普段通り話せばいいはずなのだが、意識すると普段通りが分からなくなる。

「あと、私のことは本名で呼ばないで。死んでるのに本名で呼ばれると、さすがに目立つから」

「なんて呼べばいいんですか?」

 幽霊女の眉が小さく持ち上がる。早速敬語を使ってしまったことへの牽制だろう。死人じゃないという否定は、いい加減不毛に思えてきたのでやめておいた。

「幽霊でいいんじゃない? あだ名みたいな感じで」

「幽霊って呼ぶってことですか?」

 女の口が声を出さずに動く。『敬語』と窘められているのが分かる。考えるよりも先に、口をついて出てしまっていた。想定の内側の話なら気を付けられていただろうが、幽霊女の言うことは呼び名の案さえ想定の外側だ。

「だからそう言ってるでしょ。幽霊こんにちは、バイバイ幽霊」

「いやそれはおかしいって。本名より絶対そっちの方が目立つし」

「結構細かいこと気にするのね」

 敬語でなくなったことに満足したのか、咎めるような仕草はみられない。代わりに半分呆れたように口を結んだ。

「じゃあ幽霊からとって幽ちゃんは? それなら変じゃないでしょ」

「幽、さんならなんとか」

「そう。じゃあ正式名称は幽霊で、愛称は幽さんね」

 女が同意を求めて目を見てくる。幽霊と呼ぶのでなければなんでもいいと思い、恵太は頷いた。満足気に幽霊女も頷くと、軽く膝を叩いて「よし」と息をついた。

「じゃあ今日は遅くなっちゃったし、お開きにしようか」

 どこまでも自分のペースで、幽霊女は事を運んでいく。

「待てって。莉花のことなんも知らないだろ。どうする気だよ」

「だから、死んでる人にそんな心配いらないんだって。超能力があるって言ったでしょ? もうその子のことはなんとなく分かったから、あとは連絡を待ってて」

 それだけ言って、立ち上がった幽霊女は振り返ることなく歩いてエスカレーターの方へ消えていった。見れば見るほど生気を感じるその後ろ姿を、恵太は力なく見送った。

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