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 吐くものを吐いて落ち着いたのか、ようやく座席にまともに座ることができた。ペットボトルの水をチビチビと飲めるようにもなり、電車も糞の匂いが少ない場所へ進んだのも助かった。


「あ~、しんどかった」

「主役がそんなんでどうするんだよ」

「うるさい。僕だってこんなつもりじゃなかったわ」


 己の不甲斐なさについ舌打ちが出てしまう。


 ミステリー小説を読んだことがある人なら共感できると思うが、ミステリーは事件が起きてからがミステリーなのではない。移動の時点からすでにミステリーは始まっているのだ。


 孤島に向かう船の中。

 事件現場へ向かう新幹線の中。

 館へと辿る荒れている坂道。


 こういった場所で探偵はあらゆる人物と接触している。船なら甲板に出れば誰かしらが佇んでいるし、新幹線ならトイレへ向かう途中ですれ違い様に見知らぬ人とぶつかる。館への坂道では登場人物達の会話が飛び交い、彼らの出会いや出来事が後々の事件解決の糸口になることがよくあるのだ。


 だから、僕はこの移動時間中もミステリー小説に倣い人間観察なるものを実践しようと前日から計画立てていた。


 電車に乗り降りする客。

 駅のホームに佇む帽子を目深に被った怪しい人物。

 ただただ外の景色を楽しむわけでもなく寂しそうに眺め続ける女性。


 ドラマでも小説でもミステリーではこういったふとした観察が大事になってくる。どんな些細な情報も逃さないよう僕はメモ帳まで用意していたというのに、まさか乗り物酔いで頓挫するとは。


 いや、今からでも遅くはない。この目に映る人物や仕草を観察し、このメモ帳に記録するんだ。


 そう意気込むも……。


「しっかし、誰も乗ってこないな」


 つまらなさそうに、大輔が愚痴る。


 そう。この電車、ほとんど誰も乗ってこないのだ。車両も二両しかなく、そもそも利用者が少ないのかもしれないが、それでも途中高齢の人が二、三人乗り降りしただけで、ほぼほぼ僕と大輔の貸し切り状態だった。ホームに怪しい人物が佇んでいるわけでもなく、外を眺める寂しい女性もいない。これでは人間観察もへったくれもない。


「隣の車両も誰もいないもんな」

「いや、見えないだけで誰か乗っているに違いない」

「それは幽霊的な意味か?」

「違う。死角があって見えない、ってことだ」

「いや、死角なんてどこにもねぇじゃん。お前も見てるんだから分かるだろ」


 連結部分の窓が縦長に作られており隣の車両の座席は丸見え。ドアの死角も人が隠れられる程のスペースはない。この電車に乗った時に確認しているのでそれは僕も知っている。だが、敢えて今は忘れる。


「僕が気付いていないだけで誰かがいるかもしれない」

「いや、いないから。お前も見てみろって」

「いやだ」

「何をそんな頑なになってんだよ」

「この状況はシュレティンガーの猫状態だからさ」

「はぁ? シュレティンガーの猫?」


 シュレティンガーの猫。簡単に言えば、ある箱に猫が一匹入っており、そこに決められた量、死に至る確率が五十%の毒ガスを送り込む。一定時間後に箱を開けずに中にいる猫が生きているか、それとも死んでいるのかどちらか答えよ、という実験だ。死ぬ確率が五十%ということから、箱の中の猫は生きている状態と死んでいる状態二つの可能性が重なって存在している。箱を開けるまではどちらが正しいかは分からない。


 実際には量子学なんちゃらが関わっているので僕もそこまで完全に理解しているわけではないが、要は当たりとハズレが入っている宝くじ箱で、くじの中身を見るまでは結果は判明しないということだ。


「そうさ。今、僕は隣の車両に目を向けていない。確認をしていないんだ。ということはだ、隣の車両には人がいる可能性と人がいない可能性二つの状況が重なっている。僕がこの目で確認するまではどちらとも言えない」

「んじゃさっさと確認しろよ」

「確認したら人がいないという結果が嫌でも判明しちゃうじゃないか」

「その台詞でもう判明してるじゃねぇか」

「頭で理解するのと実際に目で確認するのとは天と地ほどの差があるのだよ、ワトソン君」


 今の名言じゃないか、と自画自賛してしまう。現場百篇という言葉があるように、現場に何度も赴くことで発見があるという教えと同じで、自分の目で確認することは何よりも大事なのだ。


「人間観察どうしたよ」

「こふっ!」


 大輔が名言を一瞬で瓦解させる一言を発した。自画自賛から墓穴へ。


「そ……それはそれ、これはこれ」

「めんどくせぇ」

 

 苦しい言い訳。僕ですら自分がめんどくさいと思っている。しかし、大事なのは今この状況をどちらで楽しむか、だ。人がいない中での人間観察を取るか、それとも視野を狭めて隣の車両に人がいる設定で旅路を楽しむか。後者しかないだろう。


 決めた。僕は目的地の駅まで隣の車両は見ない。何があろうと。


「うお、何だあの子。すげー可愛い」


 大輔が目を見開き驚愕の声をあげた。隣の車両に誰かが乗ってきたようだ。


「マジか~。白のワンピースに麦わら帽子、って映画とかだけの格好かと思ったけど実際にいるんだな」


 白のワンピに……麦わら帽だと? 


 ミステリーじゃド定番のヒロイン容姿じゃないか。彼女が出るミステリーでハズレを読んだことがない。


「しかも何かキョロキョロしてるな。手には紙……ありゃ地図か何かか?」


 おぃぃぃ! それ招待状と地図じゃないか!? 僕達と同じイベントの参加者じゃないか!? 


 誰がどう見たってミステリーフラグが立っている。隣の車両は見ないと決めた瞬間にこの仕打ち。振り向きたい衝動がどんどん沸き立ってくる。


「この電車であの格好は目立つけど、誰もいなかったから一気に華が出たな。あの可愛さ、ウチの学校ならダントツでトップの人気だろうな」


 そんなに可愛いだと? くそー、もう我慢できん!


 僕はゆっくり大輔の目線の先と同じ方へ顔を向けた。


 麦わら帽子のワンピース、ダントツの可愛さのある女の子の姿はどこにもなく、見慣れた古びた吊り革が揺れているだけだった。


 僕は振り向いたスピードと同じ速さで元の姿勢に戻ると、そこには頬の横で両の手を広げて舌を出した大輔がいた。


「殺す!」

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