第9話 スフィア

浮遊培養は成功だった。ニック、僕の精子とミエローマ細胞株のハイブリドーマは、培養液中に浮遊しながら、細胞塊スフィアを形成していた。顕微鏡を覗きながら、僕は興奮を抑えられなかった。姿かたちは精子とは全く異なる、丸い細胞になってしまったが、僕の精子は半永久的な増殖能を獲得しようとしていた。


スフィアの継代けいだいは基本的に、スフィアを崩して、再度浮遊培養をすることで行われる。この継代を何日目のタイミングで行うかは細胞によるので、ニックのタイミングを探すのが大変だったが、3日間で継代を行うことで、継代が成功することが分かった。さらに、精子の細胞マーカーの発現をPCR法で調べたところ、継代を繰り返しても維持されていることが分かった。ニックは、形を変えながらも、精子としての性質を持ちながら生きていた。


僕はこの成功体験を誰にも公表することができなかったが、やり遂げた感動は深く胸の中に刻まれた。嗚呼、僕の精子が永遠に僕の手の上で生きていく。この感慨は初めて自分の精子を見たときを思い出させた。生きているのだ。普段、自分たちが意識していないものが、きちんと生きているのだ。


僕は、日がなニックのスフィアを継代しながら、ニックへの愛を深めていった。この気持ちは愛なのだろうか。未だに女性との交際経験が無かった僕は、愛とは何か、よく分かっていなかったが、少なくとも家族愛に似た感覚は感じていた。映画『フォレスト・ガンプ』で、フォレストがジェニーに「愛がなにかは知ってるよ」というセリフがあるのだが、是非、フォレストから愛がなにかを具体的に話して欲しかった。


ニックが精子なのであれば、本来は卵子と受精して一人の人間になることが本来の運命である。しかし、ハイブリドーマとなったニックは形態的に精子としての特徴を失っていて、卵子と受精することもできないし、仮に受精できたとしても、女性の子宮なしに、人工的な手法で胎児が発達することはできない。


そこで、僕はニックを、自分が今行っている器官培養の実験に用いてみることにした。器官培養によって、ニックが本来たどるはずだった、いち個体としての人間になることを、不完全な形でも体験させてあげたいと思ったのだ。色々な癌細胞とニックを共培養させたり、培養環境を変えてみたりして、ニックを様々な環境に晒してみた。しかし、ニックは他の細胞になることはなかった。常に精子細胞の細胞マーカーを発現し続けていたし、どんな環境でも一定の大きさのスフィアを形成し、そのまま死滅するだけだった。


いつもの浮遊培養の状態でのみ増殖しつづける、精子の化身へとニックは変貌していた。これは普通の癌細胞の挙動とは違っていた。僕はニックが持つ科学的な特異性よりも、ニックという個体(正確には個体ではなく単なる細胞なのだが)がなぜ、他の細胞にならないのかを考え始めた。まるで、自分の息子の将来を憂うかのように。


(次号へつづく)

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【小説】培養知性 ぐしゃうん @gushaun

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