第9話 スフィア
浮遊培養は成功だった。ニック、僕の精子とミエローマ細胞株のハイブリドーマは、培養液中に浮遊しながら、
スフィアの
僕はこの成功体験を誰にも公表することができなかったが、やり遂げた感動は深く胸の中に刻まれた。嗚呼、僕の精子が永遠に僕の手の上で生きていく。この感慨は初めて自分の精子を見たときを思い出させた。生きているのだ。普段、自分たちが意識していないものが、きちんと生きているのだ。
僕は、日がなニックのスフィアを継代しながら、ニックへの愛を深めていった。この気持ちは愛なのだろうか。未だに女性との交際経験が無かった僕は、愛とは何か、よく分かっていなかったが、少なくとも家族愛に似た感覚は感じていた。映画『フォレスト・ガンプ』で、フォレストがジェニーに「愛がなにかは知ってるよ」というセリフがあるのだが、是非、フォレストから愛がなにかを具体的に話して欲しかった。
ニックが精子なのであれば、本来は卵子と受精して一人の人間になることが本来の運命である。しかし、ハイブリドーマとなったニックは形態的に精子としての特徴を失っていて、卵子と受精することもできないし、仮に受精できたとしても、女性の子宮なしに、人工的な手法で胎児が発達することはできない。
そこで、僕はニックを、自分が今行っている器官培養の実験に用いてみることにした。器官培養によって、ニックが本来たどるはずだった、いち個体としての人間になることを、不完全な形でも体験させてあげたいと思ったのだ。色々な癌細胞とニックを共培養させたり、培養環境を変えてみたりして、ニックを様々な環境に晒してみた。しかし、ニックは他の細胞になることはなかった。常に精子細胞の細胞マーカーを発現し続けていたし、どんな環境でも一定の大きさのスフィアを形成し、そのまま死滅するだけだった。
いつもの浮遊培養の状態でのみ増殖しつづける、精子の化身へとニックは変貌していた。これは普通の癌細胞の挙動とは違っていた。僕はニックが持つ科学的な特異性よりも、ニックという個体(正確には個体ではなく単なる細胞なのだが)がなぜ、他の細胞にならないのかを考え始めた。まるで、自分の息子の将来を憂うかのように。
(次号へつづく)
【小説】培養知性 ぐしゃうん @gushaun
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