第8話 エウレカモーメント
毎日毎日、僕はニックの培養プレートを観察した。細胞融合がうまくいっていれば、培養プレートの底に張り付き、平べったくなった細胞が見られるはずだ。しかし、観察されるのは、恐らく死んでいる丸く浮いた細胞と、恐らく死にかけの培養プレートの底で丸くなっている細胞ばかりだった。1週間経つと、ほとんどの細胞は丸く浮いてしまった。
実験は失敗だった。細胞培養に関する実験に関しては、ここまで比較的上手に行えていた自負があったので、僕は精神的にかなり大きなダメージを受けた。しかし、ここでくじける訳にはいかない。僕は予備の細胞を使い、何度も同じプロトコルを繰り返した。しかし、一向に細胞融合はうまくいかなかった。
何かがおかしい。プロトコルが間違っているのかもしれない。何か、コツのようなものが必要なのかもしれない。そもそも、精子とミエローマ細胞のハイブリドーマの作製はできない報告があるのかもしれない。僕はH助教に改めてアドバイスを求めにいった。
「細胞融合に向いてない細胞ってあったりしますか?」
聞いたタイミングが悪かったのか、H助教は不機嫌な感じで答えた。
「細かい細胞の種類については覚えてませんが、まあ、あるとは思いますよ。胆管細胞の融合はうまくいかなかったんですか?先行研究があるか、論文を探してみてください」
「忙しいところすみませんが、もう一つ質問を。何か細胞融合にコツってあったりしますか?」
H助教は口調を荒げた。
「ああもう!君の指導教官はM先生なんだから、M先生に相談すれば良いでしょう!?コツも何も、この前見せた通りですよ」
僕はすごすごと引き下がることにした。
M教授に相談する訳にはいかない。これは僕の秘密のプロジェクトだ。僕が自分の精子を細胞融合しようとしているなんて、研究室の研究とは全く関係ないし、相談すれば、アドバイスをくれるどころか、たちまち研究が止められてしまうだろう。
自分でなんとかするしかないな…。
僕は様々な仮説をノートに書いては、どのように実験を進めればそれが調査できるか、方法を書き留めていった。気づけば夜になり、研究室でほとんど一人になっていることもあった。そんなとき、一緒に研究室に残っているのは大抵、同期のTだった。
Tは博士課程への進学を既に決めており、休日も返上で実験に勤しんでいた。既に2報の論文を第一著者として科学論文誌に掲載しており、博士課程へ進む業績としては十分すぎる実績を持っている。しかし、彼の研究分野はDNA解析だ。細胞融合のアドバイスはもらえそうになかった。
「よう、まだ残ってるんだ」
Tが近寄ってきて、話しかけてきた。
「新しい研究テーマを与えられたんだよね。細胞培養が多いと、大学に来なきゃいけない日も増えるから大変だよな」
「そうなんだよね。どうしても培養がうまくいかない細胞があって、考える時間も必要でさ」
僕は何に悩んでいるのか、ぼやかして答えた。
「そうなんだ。癌細胞や細胞株は培養方法が色々あるからなあ。Y先輩が使ってる細胞なんて、4日間浮遊培養させた後に7日間培養プレートに付着して培養させて、癌細胞のタイプを調べるんだって。大変だよなあ」
ハっと、頭の中が煌めくような感覚があった。
そうか、ハイブリドーマ作製後の細胞は癌細胞と同じ性質を持ってる。浮遊培養が必要な可能性があるかもしれない!器官培養の手法でも考えていた方法じゃないか。
「T!ありがとう!ちなみにオレも博士課程に進学する予定だから!」
と、言い残すと、僕は細胞培養室へ向かった。
Tはぽかんとしていたが、すぐに胸元のアラームが鳴り、実験を再開させた。
培養室の予約が空いていることを確認すると、すぐに手を洗い、アルコール洗浄し、細胞を取り扱う準備を整えた。今日細胞融合したばかりのニックを取り出すと、浮遊培養用の細胞プレートに移し替えた。
ニック、今度こそうまくいってくれよ。
(次号につづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます