第7話 細胞融合2
ミエローマ細胞株は思ったより生存率が悪く、ほとんどの細胞が培養プレートから浮いて死んでいた。しかし、数十個ではあるが、培養プレートに定着し、生存している細胞があることを顕微鏡で確認した。この死んだ細胞を取り除き、生きている細胞を丁寧に増殖させる必要がある。毎日毎日、ミエローマ細胞株を観察し、増殖しやすい環境を整えた。
3週間ほど経って、ようやく、ミエローマ細胞株が培養プレートいっぱいに増殖した。これをさらに別のプレートに継代し、実験に必要な量と予備の分を用意する。あれほど強かった僕の性欲は、嘘のように収まっていた。しかし、2週間で遂に夢精してしまった。ああ、また僕の精子が無駄になってしまった。これ以上犠牲を出すまいと、細胞融合への決心は固くなる一方だった。
世界には必要な犠牲と不要な犠牲がある。人間はそうやって命を無意識に選別している。僕もそのルールに則って物事を考えているだけだ。人間が命を選別しているのは、人間は人間や動物の命を選別する能力を持っているからだ。もし僕が、いつだって精子を細胞融合で不死化させることができる、その能力を手にしたら、僕には生存させる精子の選別が可能になる。細胞融合を成功させれば、その後の夢精での精子は、いずれ子供をつくるためのセックスのための必要な犠牲なのだと割り切ることができる。
この1ヶ月の間、精子とミエローマ細胞株の細胞融合に必要な実験材料を僕はそろえていた。毎日研究室に来る業者にこっそり相談した。
「精液から精子を抽出する溶液ってありますか?」
「それならパーコール液がありますよ。普通は医療用で不妊治療に用いられるものですが、研究用に手配できるものがあると思います」
「細胞融合にアミノプテリン入りのHAT培地が必要だと聞いたのですが、用意していただけますか?」
「それでしたらC教授の研究室にいつも卸しているものがありますから、お安く用意できます」
購入品はノートに記入する決まりだ。今回の購入品目の名前は、器官培養用の培地やコラーゲンに変えておいた。領収証をチェックされたらすぐにばれるが、ただでさえ忙しいM教授がそこまでやるとは思わないし、他の学生も一部、購入品を誤魔化していて、学生の間では購入品ノートの書き換えは暗黙の了解になっていた。
いよいよ細胞融合をやるときが来た。僕は満を持してチューブに射精した。毎日していたときとは違って、オーガズムに達するのは早く、精液の量は多く、そして強い快感と脱力感が襲ってきた。僕はその余韻に浸る間もなく、淡々と作業を進めた。そこにパーコール液を混ぜ、遠心分離機にかけることで、密度勾配遠心法で良質な精子のみを採取することに成功した。インキュベーターからミエローマ細胞株を取り出し、トリプシンで洗浄し、精子の入った溶液にミエローマ細胞株を加え、高電圧の電気パルスを加えた。これをHAT培地が入った培養プレートにまいた。作業は全て順調に終えることができた。今はまだ、顕微鏡で見ても培養プレートに定着していない細胞が丸く浮いているのが見えるだけだ。どんなハイブリドーマが作製され、僕の精子がどんな姿になり、永遠の命を手に入れるのか、想像するだけでもハイな気分になった。
僕は、僕の一部に永遠の命を与えようとしている。しかし、それが人間に死をもたらす癌細胞との細胞融合によって行われるのは皮肉なことだ(繰り返しになるが、ミエローマ細胞株は癌細胞の一種である)。死があるから生があるとはよく言われているが、死が直接生を生み出す瞬間に、僕は今立ち会おうとしている。
きっと、僕の精子は幸せだ。きっと、僕の精子は永遠の命を持って、ひっそりとこの研究室に保管され続けるに違いない。どこの誰の細胞かも分からないミエローマ細胞株のDNAと、僕の染色体の半分のDNAが一緒の細胞の中で共存するのだ。きっと、寂しくもないだろう。
僕は実験が終わった培養プレートをインキュベーターに入れた。培養プレートにはマジックで「Nick」と書いた。ニックネームを後から付け足そうと思って書いたのだが、そのまま、僕はこの細胞をニックと呼ぶようになる。
ニックよ、僕が君に永遠の命を与えよう。どうか生き続けてくれ。
(次号につづく)
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