第4話 器官培養
M教授から新しく与えられたテーマは器官培養だった。器官とは、簡単に言うと小さな臓器のことだ。癌は、癌細胞が体の中で臓器のように成長し、正常な臓器を侵食してしまう病気だ。M教授は主に正常な細胞がどのように癌細胞になるか、遺伝子解析を主な研究テーマとしていた。その後、癌細胞がどのように体内で臓器になるのか、それを調べるための器官培養は、M教授にとって新しいテーマだ。その分、ノウハウは乏しいが、それはつまりこれまでと異なる実験手法を実践することになる。
「君はどうやら、ピペットで細かな溶液を混ぜる遺伝子解析系の実験が苦手みたいですね。器官培養は細胞を立体的にシャーレの上で培養させる実験です。ある程度の根気があれば、センスに関係なく結果が出せるはずです。まずは癌細胞の種類によって、どのような細胞の配置が器官培養に適しているのか探しましょう。それだけでも十分、修士論文には耐えうる結果が出るはずです。」
的確な指摘だった。確かにDNAやタンパク質などの光学顕微鏡でも見えないサイズの物質を扱うより、光学顕微鏡で観察できる細胞の実験の方が自分には向いているかもしれない。
僕は早速、器官培養で有名な研究室のT教授に実験手法を学んだ。細胞の種類によって、器官培養にはさまざまな種類があるが、2つの方法に絞って研究をすることにした。ひとつは、培養液中に細胞を浮遊させて増殖させる方法。これは足場がなくても増殖する、より悪性度の高い腫瘍の臓器形成の再現に役立つ。もうひとつは、シャーレにコラーゲンで細胞を立体配置する方法。これはより一般的な、臓器の上で増殖して臓器形成の第一段階となる広範な癌細胞の再現に役立つ。
研究で興奮するのは久々だった。僕は早速、肝臓、大腸、精巣などの癌細胞のサンプルを用いて、コラーゲンを用いた器官培養にとりかかった。癌細胞は無限に増殖する能力を持っているが、果たしてそれが維持されるのはどのような立体パターンなのか、色々と試すのがとても楽しい。また、増殖に成功したかどうか、顕微鏡で観察していると、癌細胞に愛着が湧いてくる。今も僕はもっぱら癌細胞の器官培養にハマっていて、就活はかなり出遅れてしまっている。しかし、これだけ実験が楽しいと思ったのは初めてかもしれない。このテーマならいける気がする。僕は博士課程への進学も考え始めている。
それと同時に、僕はあのハロウィンパーティで知り合ったKとの夢想に毎日とりつかれている。あれから性欲はより増強したように思う。なんといっても、セックスの快感を知ってしまったのだ。毎日自慰行為にふける習慣は変わっていなかった。細胞の培養室は研究室から離れていて、予約制になっていた。一部の実験機材を借りに来る学生でもいない限り、僕が予約した時間は僕しかいない。ふと、僕は作業の合間に、Kとのセックスを思い出した。そして、その場で自慰に及んでしまった。そして、自分の精子を細胞培養用のシャーレに射精した。細胞の扱いは今ではお手の物だ。
僕は自分の精子を顕微鏡で観察した。おたまじゃくしのような無数の精子細胞が、尾を踊らせながら泳いでいるのが見える。僕はこれだけの細胞を毎日廃棄していたのか。丁重に実験資源として扱っている癌細胞とは偉い違いだ。しかも、本来は精子は生命の源であり、癌細胞は死の源であるはずなのに。大切にする順番が間違っているのではないか。しかし、癌細胞と違って、精子細胞は増殖する能力を思っておらず、培養液で満たしたシャーレの上でも数十時間で死に絶えてしまう。どうしても、射精してから卵子と出会う場合以外、彼らは死ぬ運命なのだ。
僕はなんのために癌の研究をしているのだろう。はっきり言って知的好奇心の充足のためだ。高校生の頃は、人の役に立つような研究がしたいと考えていたはずだ。もちろん、今の研究だって、身を結べば癌患者を救うなんらかの足がかりになるかもしれない。しかし、そもそも本当にそれは人の役に立つことなのだろうか。人の運命を変えることが、人の役に立つことならば、この精子の運命だって、ちょっと変えてやってもいいんじゃないか。
そんな考えが頭の中でどんどん膨らんでいく。今射精したばかりの精子を見ながら、僕は今後の自分の精子の運命を変える手段を、自分が持ち合わせていることに気づいた。細胞融合だ。精子本来の姿は失ってしまうが、癌細胞と細胞融合させれば、自分の精子に永遠に増殖する能力を与えることができる。細胞融合は、抗体医薬などの分野で、かなり古くから実用化されている技術だ。講義でも習った。確かどこかの研究室がこの技術を使っていたはずだ。
僕は今晩から自慰行為を控えることにした。次に僕から射精される精子は、癌細胞のように丁重に扱ってやるんだ。
(次号につづく)
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