明朗の波導大師と悪逆の去来大師 1

「最後にたずねておきます。やはり、逃げることはしませんか?」


 投げかけられる去来きょらい大師の質問。

 冷徹な視線で射すくめられたクミは、鼓動が速まり、言葉が出てこない。

 目の前の相手は、居坂いさかを脅かす叛徒はんとであり、明良あきらの宿敵であり、一方では、個人的に決して少なくはない親しみを感じているヒト。この複雑怪奇な人物に対し、どう答えたらよいものか、クミには判らなかった。

 そんな逡巡をしていると、小さなネコは、背後からふいに抱え上げられる。


「……リィ?」

「クミちん……。いっしょにいてのん」


 ネコは、少女大師の羽織のなかに押し込まれ、顔だけ出す形にされた。


「ど、どういうつもり?」

「リィは……、逃げたくないのん」


 ニクリが自らの言葉を噛み締めるようにうなずくと、その拍子に、ふたつのまとめ髪がピョンと跳ねる。


「さっき、クミちんは……、イバちんも言ってたけど、焦っちゃダメって。ちゃんと備えてからにしようって……。でもリィは、うまく言えないけど……、今、やらなかったらダメって思うのん」


 それを聞いて、クミは、シアラの言葉を思い起こす。

 「今、この場で逃げるようなヒトは、私がこれから行うことの邪魔にさえならない。そのような方は放っておけばいい」――。

 クミは、そうは思わない。

 この場は逃げても、美名や明良、大師仲間とともに万全の備えをし、再度捕らえにくれば、今のこの状況よりはるかに危険も少なく、成功の見込みも上がる。それが最善のはずだと思える。

 だが、クミが気になるのは、やはりシアラの言――「これから行うこと」。

 彼が遠からず何かをしでかすつもりなのは明白だった。

 この場から逃げてしまえば、新しい犠牲や被害がもたらされてしまうことにもなりかねない。知ってしまった以上、軽々しく逃走を選択することはできない。

 明朗快活を体現する少女、ニクリもまた、そのことを直感しているのだ。


「リィ……。少しでも不安に思うなら……、ちゃんと答えるのよ」

「のん」

「勝てる自信はあるの?」


 問われた少女は、「あるのん」と即答する。

 周囲をして「最強の大師」と言わしめる才覚が、確かに断言したのだ。


「なら……、リィ。あなたの思うように任せるわ。私はゼンゼン力になれないと思うけど……」

「クミちんの身体はあったかいから、それだけで元気が貰えるのん。落っこちないようにしっかり入っててのん」

「……うん。無理はしないで。いざとなったら、すぐ逃げるのよ」


 小さなネコと、そのネコを懐に収めた少女。

 それまでとは目の色を変えたふたりが、去来の大師と対峙する。


「決まりましたか?」

「……」

「残念です」


 まるで、運動前に準備をするかのよう、は、右手を開いては閉じ――それをゆっくりと繰り返している。


「これは遅すぎる忠告になりますが、戦う意志という点において、遁走と敗走はまったく別物です。敗走者を見逃してしまえば、より強力な『かえり』となり、のちのちの危険を残してしまう」

「……どういう意味ですか?」

「おふたりは、もう逃げられないということです」


 シアラの平手が、横に大きく振り抜かれる。

 その途端、三者の周囲ではボコボコと音が鳴り、地面に穴が無数に出来上がっていく。

 ビクつきながらも周囲を見渡すクミは、穴のひとつひとつがすりばち状であることに気付いた。


「こ、これは……さっきのアヤカムの……?」

「後になって劣勢となり、それから逃げようとしても、私はもう、おふたりを見過ごすことをしません」


 瞬く間に、周囲は馬喰うまはみの巣穴ばかりとなってしまった。

 仮にひとつを飛び越そうとも、すぐにまた別の穴があり、罠にまってしまうのは確実。その囲いの輪が、見える限り、四重、五重にも広がっている。

 ニクリとクミは、敵であるシアラも含め、完全に取り囲まれたのだ。

 だが、当代最強の波導はどう大師は、狼狽うろたえもせず、細腕を天に伸ばす――。


「ラ行・雷雨らいう!」


 少女の詠唱で、雷の雨が降り落ちる。

 何条もの雷光が、地面にあいた穴のそれぞれに吸い込まれていく。すりばちの底で、馬喰のアヤカムが撃滅されていく――。


(キ……、キレイ……)


 視界一杯で流れるきらめきと、連なる破裂音。

 壮絶華美な波導術を前にして、クミは、場違いともいえる感慨を抱いた。


「シアラちん……。逃がさないのは、リィの台詞せりふだのん」

「……」


 まもなく、アヤカムを全滅しきったのだろう、雷の雨も止んだが、クミは、なにやら周りの景色が薄モヤがかって見えることに気が付いた。

 ニクリとクミのすぐ周囲を取り巻く「雷電らいでんの遮り」と同じように、薄モヤのそこかしこ、パチパチと音が鳴り、光の明滅が起きている――。


「なるほど……。逆に、私を囲い込みましたか」

「『ラ行・雷陣らいじん』だのん。シアラちんが敵だって判ってから考えてた、リィの特製だのん。陣幕に触れば死んじゃうし、『何処いずこか』を通ってもけ出れない。リィは、シアラちんを逃がさないのん!」

「このように大規模な新術をこともなげに開くとは、さすがですね、ニクリさん……」


 言葉だけとれば、負けを認めるような称賛。

 だがクミは、敵の表情に浮かぶものが追い詰められての焦燥や狼狽でなく、たっぷりの余裕であること、不気味に感じるのだった。

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