客人のネコと悪逆の去来大師 3

 「変理へんり」の大鏡にもたれるようにしながら、相手は、小さなネコに目線を下ろしてくる。


天咲あまさきでの私は、恥ずかしながら、『変理』のことを知らずにおりました。あなたがたが司教に追われる身でありながら、危険を冒してまで最下層を目指す理由……。あとになって様々に探しましたが、明確な文献はついぞ見つかりませんでした。おそらくは教主や司教……、魔名教会のごく一部の者にだけ知られた、居坂いさか秘匿ひとくでもあったのでしょう。『客人まろうどは高値で売れる』……。巷間の取るに足らない噂話も、あながち間違いではなかったわけですね」


 シアラは、話しながら、コツコツと鏡面を叩いている。まるで、神の世界へおとないを告げるかのよう――。


「実はあのとき、ニクラさんに看破され、逃げ出してからも、私はまだしばらく皆さんの近くに潜んでおりました」

「私が『変理』に行ってるとき……『何処いずこか』にいたんですね」

「ええ。失礼ながら、会話も聞かせていただきました。『ことわりを変える』との教主の弁……。推察できる材料はそれのみでしたが、結果としては、それだけで充分だった」

「……」

「『変理』とは、埒外らちがいの秘法。客人のみが為せる『何事をもじ曲げるちから』……。ただ、あのときは、クミさんが戻られてから皆さんの苦境に好転があったようには見えませんでした。なにかしらことわりを変えたか、あるいは、何もせずにきたのか……」


 クミは、美名の姿すがたかたちをした「ふざけた神サマ」を思い起こす。

 確かにあのとき、鏡を通った先で願ってきたことは、何かがすぐに変わるというものではなかった。「これ以上、居坂に客人が干渉することがないよう」――ただそれだけを願って帰ってきたのである。

 以降、事態が落ち着いてからこれまで、クミが「変理」や「神サマ」のことを思い出すことは少なかった。あのとき決心したとおり、「神の使い」ではなく、「ただのネコ」として過ごしてきたからである。

 だが今、このときにおいて、クミはふたたび、「神の使い」を突きつけられている――。


「このとおり、崩落の天咲塔から鏡は回収しましたが、私自身、『変理』については忌避すべきものとしてきました……。余人よじんの手を……、ましてや、無慈悲な神の力など頼りたくもなかったのです。ですが、クミさん。ニクリさん……」


 名を呼ばれたふたりは、相手の雰囲気が急変したことに戸惑った。

 剣呑とした空気はどこか薄れ、微笑が優し気。まるで、天咲塔にて攻略を共にした仲間――援け合い、語り合った「キョライ」が戻ってきたかのよう、感じられた。


「おふたりが協力してくださると言うなら、今一度だけ……、頼ってみてもいい。不実な神などにではなく、今、目の前に確かに存在するクミさんになら、私の正中せいちゅうを託してみてもいい。両者の立場にとり、もっとも納得のいく手段として……」


 クミに向かって広げた手を、「さあ」と言って差し伸べてくるシアラ。

 悪逆者に平手を向けられるなど危険極まりないはずなのだが、今このときに伸ばされた手は、真実、救いを求める姿のよう、クミには見えた。

 

「捻じ曲げてきてください、オンジの惨劇を。すべてをなかったことにして、ねえ様らを呼び戻すのです」

「……シアラ大師」


 戸惑うクミは、動くことができずにいた。

 確かに、シアラの目的が「変理」で解決するならば、これ以上の暴虐を食い止めることができるだろう。このシアラであれば、目的さえ果たせば、おとなしく投降してくれるに違いない。それは、現時点では最も穏便な解決となるはずだ。

 だが――。


(たしか……、あの神サマが言ってたはず……。「変理」は、もう……)


 ネコが逡巡して動かないでいる理由を、自身が近すぎて警戒しているとでも思ったのか、シアラは鏡から離れていく。

 だがクミは、気が付いた。

 相手が後ろに下がる一歩ごとに、殺気めいたものが戻りつつある。伸ばされた平手に、禍々まがまがしい気配が宿りつつある。

 このままいつまでも躊躇ためらうばかりではいられない――。


「リィ、一緒に来て……。そのラ行のパチパチ、出したまま……」

「のん……」


 シアラが下がる一歩に合わせ、少女とネコは大鏡に近づいていく。

 たった数歩の距離が果てしなく遠く感じられる。しかしそれでも、一歩ずつ、クミは鏡に迫っていく。

 まま――。


「ひ、光らないのん……」


(やっぱり……)


 やがて、クミとニクリは、鏡面の寸前、立ち姿が映るまでに最接近した。


「なんでなのん? 天咲のときは、クミちんが近づけば近づくほど、光ったのん。消えちゃったのん。鏡に入っちゃったのん。でも、でもでも……、なんでなのん?!」

「……」


 たじろぐ少女、黙るネコ。

 そんなふたりに、「どうしました?」と声が掛けられる。

 地の底から発せられたかのよう、寒気を感じさせる声音だった。


「さあ、早く。『変理』を為すのです」

「シ……、シアラ大師!」


 小さなネコは、去来きょらいの大師に向き直った。


「『変理』は……、『変理』はダメなんです! あのとき、私が出会った神サマは、『ひとりひとつ』って言ってた! きっと、一回きりなんです! 私はあのとき、『変理』をしてきました。それに、特定のヒトやモノをどうこうできる雰囲気じゃなかった! ルールだけを変えろって、アイツは……」

「……」

「こんなやり方、間違ってると思うんです! 復讐も『遡逆そぎゃく』も『変理』も、間違ってますよ! エマエマさんたちが亡くなったことは、シアラ大師にとってスゴく悲しいコト……、やり直したいコトだってのは痛いほど判ります! でも、残されたヒトは、私たちは、どんなに辛くても、キツくても、なんとか耐えて、乗り越えてかなきゃ――」

「もう、結構です」


 冷たく遮る言葉とともに、大鏡が消える。彼の「何処か」にしまわれたのだろう。

 そうして残ったのは、虚無だけが映る相手の相貌そうぼう

 先ほど、つかの間に見ることができたキョライの面影。穏便な解決が望めるかもしれない期待。

 それらさえ消えてしまったこと、クミは思い知らされた。

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