第8話 裏と表と 後編②

 出された食事は温かいトマトスープにパン、ベーコンに卵といった貧民層が食べるには余りに高価ではあるが、富裕層の間では一般的な食事であった。フリントはこの普通の食事を心底感謝して食べていた。長年の底辺生活で舌が貧しいというよりは、この数日シェリルから出されていた食事が泣きたくなるくらいマズかったのが大きかった。シェリル自身は美味しそうに食べていたが、オートミールとかいう苦くてベチョベチョな鳥の餌や、特にあのマーマイトなる黒くてしょっぱいのか臭いのかよくわからない何かは、二度と食いたくないと思わされるほどだった。


 空腹のあまりにガツガツと食事をするフリントを、ティファニーは愛おしそうに見つめていた。この3日の間一睡もできておらず、ティファニー自身はまともに食事が喉を通らなかった。心が落ち着く時間など取りようがなく、意識をハッキリさせようにも頭の考えが上手くまとまらない。―久しぶりに心にゆとりが持てていると実感していた。


「……ねえフリント」


 ティファニーは思考しているのかしていないのかわからないまま口から声を発した。フリントはほぼほぼ食事を終え、配膳を机に戻しながらティファニーの声に応える。


「ああ、なんだ?」


「……もうやめない?」


 ティファニーは椅子から立ち上がり、フリントが寝転んでいるベッドの横に座った。そして肩を寄せフリントに密着するように寄り添う。フリントは何か様子がおかしいと思っていたが、彼女もここ数日で自分のことで心労が積み重なっていたのだろうと思い、あえてそのままにした。だが、その心遣いとは裏腹にきっぱりとティファニーに言う。


「やめるっていうのは外に出ることか?……すまない。これはもう、止めることはできない。今更止めるには積み重なったものが……」


 ティファニーの頭は疲れていた。――いや追い詰められていた。そしてその追い詰められた精神はティファニーの行動を短絡化させた。


「……もうお互い”我慢する”のはやめよう?」


 ティファニーはフリントの頬に手を添えると、強引に唇と唇を重ねる。


「なっ……!!!???」


 驚愕して思考が止まってしまったフリントだが、ティファニーは貪るように唇を重ね続け、舌を入れて絡めさせる。そこまでしてフリントはようやく我に返り、ティファニーを突き放す。


「ティ……ティファニー……!? 何してんだお前……!?」


 ティファニーはそのまま服を脱ぎ始めると、下着姿になりフリントに迫る。


「お願いフリント……。傍にいて……! 怖いの……もうどうなるか、どうしたらいいかわからないの……! 助けて……!」


 フリントは口から心臓が飛び出しそうなくらいに鼓動が強くなっているのを感じた。――フリント自身、自分のティファニーへの持っている感情は非常に複雑なものがあると自覚している。多分何も考えなければそのまま胸に抱きよせてしまっていてもおかしくはなかった。だがロードやシェリルにミレイヌ、そしてクーデリアの顔が頭に浮かぶ。――待て。


「…………一つ聞いていなかった。“何でお前はここにいるんだ?”」


 フリントが肺から絞り出した言葉は自分でも予想してなかった言葉だった。多分、完全に無意識に発した言葉だろう。ただこれは先程のシェリルを形容したときのような意味のない言葉ではなく、脳みそのスペースを最大限利用して考えるべき言葉だった。


「フリント……?何言ってるの……?」


「答えろ。……ベイシスさんはいるのか?じゃなきゃお前が偶然第3区画になんか……!」


 フリントは棚上げしていた疑問である“何故自分はここにいるのか”という答えまで、考え始めていた。そして夢に見ていたような気がする、クーデリアが離れていくというイメージが頭を巡っていた。フリントは恐る恐る自分の右手を見る。そして先程の緊張と興奮による汗が一気に引いていき、代わりに脂汗が全身から噴き出し始める。


「お前……俺に何をした……? シェリルは? ミレイヌはどうした……!?」


× × ×


 第3区画ナタール家別邸地下。この邸宅はナタール家の第3区画を管理するための事務所としても使われており、この区画を管理するための基本的な設備は一通り備えられていた。その設備の一つに犯罪を犯したものを一時的に拘留するための牢屋がある。その牢屋にシェリルとミレイヌは手錠をかけられ、閉じ込められていた。


「大丈夫ですかミレイヌさん」


 シェリルはベッドで寝ているミレイヌの心配をする。とりあえず出血が止まるくらいには治療は終わっていたが、まだ完治しているわけではない。フリントがあの3人組の敵を倒した直後、突如現れた集団に拉致されてしまい、治療が途中の状態で牢屋に閉じ込められてしまった。付けられている手錠にはどうやら魔力の使用を抑制する効果があるのか、シェリルは魔法が使えず大人しくせざる得ない状況となっていた。シェリルは天井を見上げながら、手足を伸ばす。


「あー……しっかしここはどこなんでしょう。食べ物も水も出してくれないし、餓死でもさせる気なんですかね」


 ここに閉じ込められて1日が経とうとしていた。最初は複数人に囲まれて手錠をつけさせられた上で身の危険を感じていたが、なにもされないまま牢屋に入れられ、1日経とうというのに誰も来ない。尋問でもされるのかと思ったが、それもなかった。身体検査はされたものの、シェリル謹製の圧縮魔法袋には気づかれなかった為、そこから水や食料を出すことで、体力の低下は避けることができた。


「……おそらくここは第3区画のナタール家の別邸だと思われます……。この牢屋には見覚えがあります」


 ミレイヌは声を震わせて身体を起こそうとするが、シェリルがそれを心配そうに抑え、横に寝かしたままにしようとした。


「ミレイヌさん! 起きなくていいですって! まだ安静にしていてください!」


 しかしミレイヌはシェリルの手を掴み優しく離すと、壁に背を預け腰を上げる。


「大丈夫です……。寝たままより身体起こした方が楽になりそうですから……」


 呼吸は未だに荒く、肩を上下に動かしていた。時折傷が痛むのか痛そうに傷口を抑える。


「……ですがシェリル様の回復魔法を受けるまで、当分走ったりはできそうに無いですね……。歩くのが精いっぱいというところです……」


「ミレイヌさん……どうしてあの時……」


 シェリルがどうして自分を庇ったのかとミレイヌに質問しようとしたその時、遠くから足音が聞こえてきた。上から下に降りてくるような、こちらに向かってくる足音だった。ミレイヌは息を飲み、そして決意を込めた表情で言う。


「シェリル様……もし奴らに酷いことをされそうになっても、私がお守りいたします。……私が全て引き受けますから……」


× × ×


 フリントはベッドから飛び降り、部屋から出ようとドアに手をかけた。だがドアには鍵がかかっていた。こちらが内側なのだから鍵を開けられると思ったのだが、つまみの部分が存在しない。どうやら紋章を利用してカギを掛けているドアのようだった。


「……ここはね。ナタール家の人間が第3区画で泊まり込みで用事をこなすときに使う家なの。…………この部屋も、妙に小奇麗だと思わない?」


 ティファニーはゆらりと立ち上がり、ゆっくりフリントの方へ歩いていく。


「ここは家族に知られたくないような相手と“そういうこと”をするための部屋。お父様や……おじい様も、なんならお母様も、第3区画に用があるときは、ここで楽しんでたそうよ」


「ティファニー……お前……」


 ティファニーは横にあった流しへのドアに手をかける。そこにはトイレと風呂が付いており、確かにタダの寝室につけるには余計なものがそこにはあった。


「……そしておじい様は最近もここを利用していたわ。……全くミレイヌも好きものよね。自分の身体で六賢人を秤にかけるなんて、ある意味大物だろうけど」


 ティファニーは鼻で笑うようにミレイヌの名前をだした。


「ミレイヌ……!?」


 フリントはティファニーの口から出たミレイヌという名前に、心臓が跳ね上がる。今まで全く考えなかったわけではない、最悪の可能性が頭をよぎり始めたからだ。ティファニーの表情はさらに暗く、そして諧謔を含んだものなっていた。


「なんであなたが魔剣の紋章を宿すことになったのか、それは偶然だとでも思ってたの? ……違うわ。あなたが今回の事件に関わったのは偶然なんかじゃない」


 フリントはドアを開けようとドアノブをひたすらに回すが、鍵は開かない。そして鍵に使われている紋章を壊すこともできない。――なぜなら右手に刻まれているはずの魔剣の紋章が無いのだから。


 ティファニーはドアノブを掴んでいるフリントの右手を掴み、再び身体を密着させる。そしてフリントの耳元で妖しく囁いた。


「全部、ミレイヌが仕組んだんだから」

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