第6話 次なる決断へのアントラクト 前編

 イシスニア地下4層。すでに廃棄されて数百年経つこの地下の街並みは、虫や小動物すら死に絶えた、無音の空間となっていた。だがその静寂に包まれた地下の一角で、この場に似つかわしくない、シャワーの音が響き渡っていた――。


「なんだってこんなことに……」


 フリントは地下鉄の排水溝の前で水を浴びながら小声で呟いた。頭上2mほどの壁の位置に水を出す紋章が刻まれており、そこから水が出ていてシャワー替わりになっていた。服は脱いでおらず、着たままシャワーを浴びている。服も全身魔獣の体液まみれで、一緒に洗ってしまうため――だけではなかった。


「こんな美女達に囲まれてシャワー浴びといて、文句言う立場?」


 フリントの横でシェリルとミレイヌも一緒にシャワーを浴びていた。地下の探索で全員汚水まみれになっていたため、順番ずつにシャワーを浴びるのではなく、一斉に浴びることにしたのだった。


「お前らはむしろ恥ずかしがるとかしてくれよ!? とんでもなく気まずいんだよこっちは!」


 フリントはシェリル達に文句を言うために顔を向けたが、慌てて顔をそむける。まだ二人とも服は着ていたが、水にぬれたことで体のラインにピッチリと服がついており、水によって透けているからだった。


「身体の臭いはだいぶ取れたかね……」


 シェリルはそういうと着ていた服を脱ぎ始める。いきなり服を脱ぎ始めたシェリルにフリントは吹き出しながら文句を言う。


「バッ……! バカお前なにやって……!?」


「何って……身体を石鹸で洗うには服脱がなきゃできんでしょうに」


 シェリルはさも当然のように言うが、フリントは流石にシャワーから出ていった。


「さ……先にシェリルとミレイヌは身体洗ってくれ! 俺は後でいいから!」


 慌てて駆けて行くフリントを見て、シェリルは叫ぶように呼び掛けた。


「おーい! 風邪ひくよー! ……って行っちゃったよ。しょうがないなぁ、さっさと身体洗っちゃいますか」


 シェリルは服を全部脱ぎ、石鹸で身体を洗い始めた。ミレイヌも同様に服を脱ぐと、身体を洗う。ミレイヌの裸体を見て、シェリルは息を飲んだ。


「…………やっぱとんでもない美人ですよねミレイヌさん……」


「中年男性みたいな事言わないでくださいシェリル様……」


 しばらく二人は黙って身体を洗っていた。そしてその沈黙が続いたのち、シェリルの方からミレイヌに声をかける。


「……先ほどはありがとうございました」


「……なんのことでしょうか?」


 シェリルの突然の礼にミレイヌは疑問符を浮かべながら尋ねる。


「さっきの魔獣との戦いのとき、私を信用してくれたことです」


「ああ、あのことですか……」


 ミレイヌはそっけなく答えるが、今度はシェリルが尋ねる形になった。


「どうして私を信用してくれたんですか?」


 シェリルの質問にミレイヌは口をつぐんだ。だがシェリルの真っすぐな目線に耐え切れず、ため息をついて答える。


「……わかりました。結論から言えばもうああするしか方法はなかったからですが……貴方がフリントに対して何かしらの特別な感情を持っていると思ったからです」


 ミレイヌはフリントが魔獣に攫われたときのシェリルの顔を思い出していた。”フリント”の事を心の底から案じるシェリルの表情を。


「貴方がどのような感情を抱いているかまではわかりませんが……最悪私が犠牲になっても貴方はフリントを守ってくれる。そう判断いたしました」


 ミレイヌがシェリルの魔法の時間稼ぎをする為の提案をした際、ある問題点を認識していた。それは生殺与奪の権利をシェリルに預けること。シェリルを疑っていることをミレイヌは隠しもしていなかった。それはシェリルからしたら不都合そのものであり、いざという時にシェリルに始末されてもおかしくはないということである。そしてあの状況はまさしく絶好のタイミングだった。だからこそミレイヌも覚悟を決めたのだった。


「そうですか……そうですね……。まだフリント君にも私が知っている今の状況についてキチンと話をしていませんでした。……後で全部話します」


「…………今の私から見ても貴方の行動は信用できない、ではなく”慣れてない”点が目につきます。その点、スパイとしてはまだまだですね」


 深刻な表情で言うシェリルに対し、ミレイヌはからかうように言った。


「え~……じゃあ言わない方がいいです……?」


「それを私に聞かないでください……」


「ホベッフェイ!!!」


 シェリルとミレイヌが談笑している中、遠くからフリントのクシャミが聞こえた。濡らしたままのフリントを放置していたことを思い出した二人はそそくさと身体を洗い始めた。



 3人はシャワーを浴び終わりそれぞれシェリルの用意した替えの服に着替えていた。本人の談では3か月まえから潜伏しているとのことだったがそれを裏付けるように、駅のホームの隅に日用品などが多く用意されていた。――というよりは。


「……汚すぎない?」


 フリントは呆れて突っ込んだ。テントが張られておりここで寝泊まりしているのは確かにわかるのだが、それ以上に物が散乱しきっており、生活感が溢れすぎる様になっていた。


「仕方ないじゃない! 誰か来るなんて想定してなかったんだから!」


 シェリルは調理用の炎熱の紋章が刻まれた調理器具とケトルを散らかった物の中から取り出すと、そこに茶色い粉と水を入れ、紋章を起動する。少し休んだこともあり最低限の紋章を起動させるだけの魔力は戻ったようであるが、シェリルはまた立ち眩みを覚えてその場に座った。


「と……とりあえず休みましょうか……。えーと時計時計……」


 シェリルは時計を探すために改めて積まれた物の中を探し始める。


「スパイならちゃんと整理整頓くらいしとけや!」


 そのあんまりにあんまりな光景にフリントはただ突っ込むことしかできなかった――。



「オホン……! というわけでようやく落ち着いた時間が取れたし、お互い色々話していきましょうか」


 シェリルは赤面しながら咳き込んで場の雰囲気を一度リセットした。ちょうどケトルに入れたお湯が沸き、3人分のコップを取り出してそれぞれのコップに注ぐ。フリントとミレイヌは恐る恐る口をつけるが、一口飲んで驚いた表情を浮かべる。


「あれ? これコーヒーか?」


 フリントは近くにあった懐中電灯を手に取り、コップの中の飲み物を照らす。確かにコーヒーの黒い色をしていたが、フリント達が驚いていたのはそこではなかった。


「豆もドリップしてないのに美味しいですよこのコーヒー……」


 フリント達の驚き具合に、シェリルはハッと気づいた様子で言う。


「ああそうか。コーヒー豆はあるけどインスタントコーヒーはイシスニアの中では無いんだ……。不思議なものね……」


「紅茶や緑茶はよく喫茶店で出てるの見るけど、コーヒーはあんまり無いからな。ミレイヌは確かコーヒーをよく飲んでたな」


「ええ。確かに私は好んでコーヒーを飲みますが……豆をこんなに粉状にしたら風味は損ないますし、ドリップしなければ挽いた豆が入ってしまうと思いましたが……このようなものは初めて見ました」


 ミレイヌは改めてコーヒーに口をつける。確かにコーヒーの風味そのものであった。たかが嗜好品の飲み物一つとっても、外の技術力に感心することは多い。――逆に言えばそれだけ外はイシスニアよりも進んでいるということである。


「……教えてくれシェリル。このイシスニアの外はどうなってるんだ?そしてこの右手に宿った紋章は一体何なんだ?お前やタイレルさんはどうしてこの紋章を持ち出そうとしてるんだ?」


 フリントは右手の紋章をシェリル、そしてミレイヌにも見せるように前に出した。2日前からシェリルを問い詰める暇もなく、ただここまでひたすらに生き残るために戦い続けてきた。だが外に出るという目的、それ以外の事は何も知らないままであった。


「うん。これからそれは話す。だけどその前に一つだけ。……今後のスケジュールだけここで決めさせて」


 シェリルは先ほど取り出した時計をフリント達に見せる。


「今は4月20日午前7時。どうやら同じ太陽暦を使用してるようだったから、イシスニアと外で日にちのズレは無い」


 次いでシェリルは張ってあったテントを指さす。


「そして長期の潜伏に備えて私一人であと一か月分、3人なら10日は持つ分だけの準備はしてある。……だからまずここで3日休もうと思う」


「3日ってお前……!? そんな悠長なことしてたら……!」


 フリントはシェリルからの提案に当然の否定をした。ただでさえ今も捜索が続けられているのに、そんなに休んでいたら脱出路への封鎖線も張られてしまう。だがシェリルは深刻な口調で続ける。


「そう。そんな悠長なことはしてられない。……だけど私と君が、正直なところもう限界な訳でね……」


 シェリルは自分と、次いでフリントを指さした。


「私は完全に使い切った魔力を元に戻すのに、君は……私に言われなくてもわかるでしょう?」


 フリントはシェリルに指摘されバツの悪い表情を浮かべる。先日からロードに痛めつけられ、兵士たちと戦い続け、魔獣にも飲み込まれた。正直なところ全身で悪くないところを探すのが早いほどにボロボロになっていた。


「私は回復魔法も使えるけど即効性には欠けるし、何よりその魔法を使えるようになるまでにまず時間が必要ってわけ。昨晩の君にもかけてあげられなかったしね。…………これから先、無茶をするなら無茶をするだけの準備をしなきゃいけない。敵に準備の時間を与えることになっても、ね」


 シェリルの正論にフリントは押し黙った。そんなフリントの様子を見てミレイヌが肩に手を乗せる。ミレイヌも同様にフリントの身体の具合を心配しており、シェリルと同意見であることをその表情が示していた。


「…………わかったよ。シェリル、お前の言う通りにしよう」


 フリントは渋々同意し頷いた。シェリルはフリントの同意に笑みを浮かべると、時計を置いて手を組む。


「ありがとう。……じゃあどこから話そうか。そうね、まずは私自身とタイレル……いや、”兄さん”の話から始めようか……」

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