第1話 魔剣の紋章 後編②

 クーデリアたちと初めて会った下水道はそう遠くはなかった。タイレルの体力の問題からそこまで遠くまで動かせなかったからでもある。下水道の入り口に到着した二人だったが、まだ兵士の手はこちらまでは伸びていなかった。タイレルが足止めをしてくれているが、ここまで来るのも時間の問題であった。


 時計台の方角はフリントも知っており、この下水道からまっすぐ進めばいずれ時計台の位置とぶつかるのはわかっていた。だがフリントも下水道の正確な間取りを把握しているわけではない。このままここを進んで時計台の真下に出るか、もしくは兵士と出会わずに進めるかは運であった。――しかし行く以外の選択肢もなかった。


「クーデリア。歩けるか?」


 フリントは担いでいたクーデリアを見た。だがクーデリアは未だに泣いており、質問に答えられる状況ではなかった。察したフリントはクーデリアの頭を撫でてやり、担いだまま下水道へと侵入していく。


 泣きながらクーデリアは夢を見ていた。真っ白な何もない部屋の中、ただまどろみの中にいた夢を。時間の感覚は無く、何千年もそうしているようだった。極まれにある出来事としては、暖かいものが身体に流れていく感覚と、直後に上がる悲鳴。だがそれも現実のものかどうかわからなかった。そんなある日、クーデリアに手を伸ばした誰かが目の前にいた。その誰かは優しい声でこう言った。


「もう、誰も…………さなくていい。俺が外に連れて行ってあげる。"クーヒャド……”」


「クーデリア! 目を覚ませクーデリア!」


 クーデリアは身体を揺すられ目を覚ました。あたりを見回すと集落の雑多さとは違う、綺麗に整えられた広場だった。上を見上げると月が隠れて暗くて見づらいが巨大な塔が見える。クーデリアは立ち上がろうとするがそれができない。――身体があるという感覚が全くなかった。いや、自分はそもそも”身体を持っていたのか?”


 下水道へ侵入して15分後、フリントたちは何とかタイレルの仲間との合流地点である時計台地下広場まで到着していた。だが一向に目を覚まさないクーデリアが心配になり、体調を確認すると、顔面が蒼白になっており、体温も殆ど感じられなかった。まるでタイレルと同じような症状だった。


「……フリント。おじさんは?」


 クーデリアは微かな声で目の前にいたフリントに質問する。だがフリントは答えに詰まり、考えた末に何とか絞り出した。


「……タイレルさんはクーデリアを頼む、と」


「クーデリア? …………ああそうか"私の名前"か……」


 クーデリアは数瞬考え、そして言葉を紡いだ。


「ねえ……フリントは花畑って見たことある?」


「え……?」


 急なクーデリアの言葉にフリントは回答に困った。イシスニアでは花畑どころか花すら滅多に見ることができない貴重品であり、フリントも10年前に少し見たきりだった。


「俺の5歳の誕生日でチューリップとかいう花が贈られたくらいで、それも1輪だけだった。畑になるほどは見たことないな……」


「私は……ずっと昔に見たことがあった、本当にずっと前に……また……見たいな……」


「ずっと前……? お前一体何を……?」


 フリントは訳が分からないという風に聞き返すが、その会話は現れた人の気配に遮られることになる。暗くて見づらかったこともあり、最初はタイレルの仲間が来たのかとフリントは思った。しかし、声を聞いてその希望が砕かれることになる。


「やはり来ていたか……フリント!」


「ロード……!」


 雲に隠れた月が再び姿を現し広場を照らす。ロードとその部下二人。――昼に集落に来ていた者たちだった。部下二人は戦槍の紋章を起動すると、フリントに槍を向けた。フリントはクーデリアを庇う形で抱き寄せる。ロードは感無量とばかりに手を握る。


「…………この時を……! この時を本当に待ちわびていた……! お前を殺しても何の責を問われないこの瞬間を!!!」


「何故だ……! 何故集落の不能者達を虐殺してまで、こんなことをする必要があった!?証拠は掴んでいたんだろ? だったらもう少し時間をかけて穏便に済ませる方法だって……!」


 フリントの反論に、ロードはにやつきながら答える。


「何故? そんなのお前もわかっているんだろ? なぁ? ギミ家の元神童君?」


 フリントは答えることができず、ロードを睨みつけることしかできなかった。――もうできることは時間をできるだけ稼ぐしかない。奴らはタイレルの仲間の存在を知らないはず。可能な限り時間を――。


 クーデリアが咳を込む。それはしばらく止まらず、フリントはクーデリアの背中を擦ってやる。そしてフリントは自分の過ちに今更気づいた。だがそれを悟られる訳には――。


「……ん? その女……?」


 フリントの決断は早かった。ロードがしゃべり終わる前に懐から袋を取り出し、それをロード達に投げつける。


「袋……?」


 ロード達はフリントの行動に少し驚くもののそれだけだった。兵士たちが戦槍を変形させ、盾の形にしてロードの目の前に防御陣を引く。袋の中には道すがら見つけた酒瓶を砕いたガラス片が仕込まれていたが、盾に傷一つつけることもできず、叩き落される。フリントはその隙に走って逃げだそうとする。しかし、目の前の地面が急にせり上がり壁が出現した。


「なっ……!?」


 フリントは避け切ることができず、壁に激突して後方につんのめって倒れる。


「石術(ストーンマンシー)の紋章。ギミ家に伝わる、イシスニアで最強の紋章と数えられる一つだ。……お前のお下がりのな」


 ロードは倒れているフリントを見下しながら言う。そして右足を上げ、フリントの顔面を踏みつけた。フリントは苦痛に顔を歪ませる。


「ぶぶっっっ!!!!」


 ロードは歓喜に、怒りに顔を歪ませながら言う。


「この紋章も、婚約者も、与えられた地位も、何もかも全部! お前のお下がりだった! 僕の方が才能があるのに! いつもついて回るのはお前が不能者で無かった場合のお下がりだった……! お前が! お前が!! お前が!!!」


 ロードは何度もフリントの顔面を踏みつける。フリントも最初は抵抗しようとしたが、3回目からその動きすら無くなり、動かなくなった。フリントが動かなくなったことを確認すると、ロードは部下に命じる。


「その女を連れていけ。この集落にいるのに”不能者ではない”ということは、ナタール家の紋章に何か関わっているはずだ。――さっきの男はもう死んでしまったしな」


 そのロードの言葉に、フリントは目を見開いた。ロードは意地悪くフリントに言う。


「お前の知り合いだったのか?すでに死にかけというのに随分抵抗してくれてな。おかげで生かして拷問しようと思っていたのに、殺さざるを得なかったんだ」


 ロードは屈んで、フリントに顔を近づけた。


「その分、あの子をたっぷり調べ上げさせてもらうよ。なあに心配すんなって。僕は結構純愛タイプだからさ。優しくしてやるさ」


「てめぇ! そんなことしてみろ! そんときは……!」


 フリントは怒ってロードに掴みかかろうとするが、片手で抑えられ、空しく手足を振り回すしかできなかった。


「ハハハ! 怒ったかクソゴミが! あと一ついいこと教えてやるよ。なんで僕がお前を見つけられたと思う?」


 フリントは半泣きになりながら、ロードを睨みつけていた。


「ここでお前を殺すのも、今回の計画の内だったんだよ! ミレイヌが今日たまたま親父の”世話係”になったと思ったか?全部初めから計画されてたんだ! ミレイヌがお前のために血迷ったことをしないようにってなぁ!」


「フリント!」


 クーデリアは兵たちを振り払い、ロードに体当たりをしてフリントから突き放す。だがそこで体力を使い果たし、咳き込みながら座り込んでしまう。だが魔力を集中させているのか、身体が光り始めていた。


「……フリント……逃げて……あなたは……」


「やめろクーデリアァァァ!!!」


 クーデリアは一瞬身体を揺らすと、口から血を吐いて光が止まった。兵の一人がクーデリアの背中から戦槍をクーデリアに刺突していた。クーデリア地面に倒れる直前、フリントは身体の痛みを無視して動き、クーデリアを抱きかかえた。


「あ……あ……クーデリア……」


 背中から大量の血が溢れだしている。直感でもう助からない、そう思えるほどの出血量だった。だがフリントは諦められなかった。何とか血を止めようと支えていた右手で傷口を抑える。だが、血は止まらない。泣きながら必死に止血を試みるフリントの頬に、クーデリアはそっと手を伸ばす。


「……いいの。これで。私はずっと……罪を犯し続けてきた。……多分これからも」


「何言ってるかわかんねえよ……必ず助かるから大丈夫だよクーデリア……あいつらだってお前に尋問しなきゃいけないんだから死なないって……!」


 クーデリアは首を横に振る。


「フリント……あなたは……心が決めるままに……生きて……」


 クーデリアの手が力を失い地面に落ちた。フリントはしばらく放心状態になっていたが、その間にロード達に武器を向けられ囲まれていた。


「死んだか……まぁしょうがない。どのみちあの紋章はまず間違いなく見つかるだろうし、少し手間が増えただけで部下にもケガもないから良しとするか……。ゴミの処分もできるしな」


 ロードはクーデリアの死に何の感慨もないように言った。だがその態度こそがフリントの怒りに大きな火をつけた。


「俺が……」


「何?」


「俺が! 俺たちが! 何をしたっていうんだぁぁぁ!!!」


 フリントの叫びに呼応するように、死んだはずのクーデリアの身体が再び光りだす。


「な……なんだ……!?」


 ロードとその部下たちは突如起こった現象に驚くしかなかった。しかしフリントの脳裏では全く別の考えが走っていた。


 フリントは不能者として産まれる際に、もう一つ不能(できない)ことを持って生まれてきた。”不幸”にもそれができないために、フリントはずっと困難な人生を歩んでいくことになった。フリントができないこと。――それは”諦める”ことだった。


 光の奔流の中でフリントは立ち上がる。いつの間にか、クーデリアの身体は消滅していた。フリントは無意識に先ほどまでクーデリアを支えていた右手を前に突き出す。その手の甲に魔力を持たないフリントにはあるはずのない紋章が刻まれていた。


――”魔剣(クーヒャドルファン)の紋章”。イシスニア6賢人が持つといわれる世界を滅ぼしうる力。”究極紋章”の一つであった。


「生きてやる……! 生きて必ず! 外に出る!!!」

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