春と嵐
黒瀬
春と嵐
世界なんて、なくなってしまえばいいのに。
「ぶっそうな思想」
数学の問題を解いていた茜が、あきれたと背伸びをした。
「終わったの?」
「あんたの演説聞いてたら、集中力切れちゃった」
「あー、それはごめん」
「いいよ謝らなくて。キリいいし」
茜のノートはとてもきれいだ。たくさんの色分けがされている、という意味ではない。彼女のノートはシャープペンシルの黒と赤いボールペンの色しか存在しない。つまり彼女のノートのきれいさというのは要点のまとめ方とか、理解度とか、問題を最短で解く方法やコツとか、そういうものがしっかりと書かれているという部分で、結果としてわかりやすい。わたしは板書で精一杯だ。
「でもあれだよね。世界がなくなったら、わたしたちは死んじゃうのかな」
あまりにも真剣な表情でそう言うので、わたしも思わず真面目に「そうなんじゃないかな」と答えた。カーテンが風の形にふくらんだ。春先の風はまだ少し冷たくて、そして柔らかい。次のお出かけが待ち遠しい。
「じゃあわたしは世界になくなってほしくないな」
「まさか、本当になくなるわけじゃない。なくならないってわかってるから、ありもしないことを言ってみるんだよ」
時々茜はありもしないことを本気で語ろうとするときがある。わたしはいい加減な態度でそういうことを口にすることがあるので、そのたびにぐっと引っ張られてはあっけにとられる。性格的にわたしのことをからかっているのか、それともおふざけのいずれかだと思うが、わかっていても反応してしまう。
「そっか」
茜はポニーテールを結んでいたゴムをほどいた。何重にも縛られて、ほどかれたそれは丸くなっている。
「ていうか、どうして茜はいつも本気なの?」
「なにが?」
「いや、わたしが本気でなくなってしまえばいいなんて思っていないってわかってるでしょ」
「んー、どうだろうね」
そう言って茜は上目でわたしを見た。かわいらしい猫目の奥には、この世界の秘密がある。きれいな琥珀色の向こう側で、茜を見つめるわたし自身と目が合う。
「ていうか、近すぎ。怖い」
「あ、ごめん」
わたしは顔を引いて窓の外を見つめた。無意識だった。顔の温度がぽんと上がる。同性といっても、人の顔が目の前にあるっていうのは照れるし恥ずかしい。
「いいよ。かわいかったし」
「そうやって人をおちょくるの、よくない」
「ごめんって」
けたけたと茜は笑った。風が頬をなでる。気持ちがいいな、と思ってグラウンドを眺めると、そこでは野球部が練習に励んでいる。わたしはあそこまで真剣になれるものはないな。勉強も中途半端だし、運動もあまり好きではないし、特技だってない。二人だけの文芸部を発展させようという気もさらさらない。このまま終わってしまえばいい。文芸部というのは、わたしの欲望の塊だ。
「でもなんか、おちょくってはないんだけどさ。わたしが思っていることは本当だよ。美月がいる世界がなくなるなんて、それってとてももったいない」
それって―――。
ゆっくりと立ち上がった茜に思わず見惚れた。同性だよ、わたしたち。そんなことを気にする間もなかった。シャツの袖を引っ張られて、あとは一瞬。わたしの重心が茜のほうに傾いて、そして彼女はわたしの体に腕を回した。
なにしてんの、と抵抗しようとしたが、それよりも彼女の香りに神経が麻痺してしまうような感覚になってしまった。
思考は止まる。わたしの心の中に訪れたかもしれない春の嵐。茜の体を抱き返すべきか、それともはねのけてしまうべきか。そんなことを考えている間に、茜は言った。
「わたしは世界に終わってほしくない。世界が終わったら、もう美月には会えないから」
わたしの胸に、茜の顔がある。心臓の音、絶対聞こえてるよね。それを意識したら、やっぱり心拍数が上がった。わたしは馬鹿なのかもしれない。
くす、と鼻で笑われた。恥ずかしさで爆発してしまいそうだった。春の嵐の予感が的中する。わたしの心の真ん中で、静かに、激しく、吹き荒れる。
「わたしは美月のことが好きだよ」
熱くなった頬、真っ白になった頭、震える指先、心の嵐。わたしはどんな言葉を返せばいいのかわからなかった。
あ、とか、いや、とか、意味のない声を連発していると、先に茜に笑われた。
「わたしは本気だからね」
に、と見せた白い歯に直感で逃げられないなって思った。でも少しだけ、それも悪くないかもなって思った。
「腹立つなあ」
茜の顔を見ることはできない。恥ずかしすぎて、うれしすぎて、人に見せることのできない顔になっているかもしれないからだ。
「別にいいよ。付き合ってやる」
震えた声で上から目線。これがわたしの、精一杯の照れ隠し。
「よかった。ありがと」
そう言って茜は椅子に座る。そしてノートをめくる音がした。
なんだ、あっさりしているなと思ってわたしは顔をあげる。桜色の頬になった茜を眺めて、わたしは思わず顔を伏せた。
「なに」
さっきとはまた違う声の鋭さで茜が言う。
「別に」
思わず声が震えた。笑ってしまったのだ。
「なにその反応」
茜がノートを持ってわたしの頭を叩いた。
痛くはなかった。ただ、彼女の普段からは想像もつかない乙女具合が可愛くてしょうがなくなって、今後はたくさん、声に出して笑ってみせた。
春と嵐 黒瀬 @nekohanai2
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