第8話 巨漢飛ぶべし


「あの、失礼ですけど『麗華』のマミコさんじゃないですか?」


「――えっ?」


 ハーフパンツにサンダルというざっくりした装いの女性――川渕真美子は、私たちの姿を認めると驚いたようにサングラスを外した。


「あなた方は……」


「やっぱりそうだ。……ええとこの前、お店で接客していただいたH医大の汐田と金剛です」


 私たちがマミコと鉢合わせたのは、商店街では珍しい若者をターゲットにしたブティックの前だった。ここに彼女が時々、立ち寄ると聞いてそれとなく待ち伏せていたのだ。


「外だとまた雰囲気が違うんですね。……そうだ、この間は私たちが接待されたから、今度はマミコさんを接待したいんですけど、お時間あります?」


 私が畳みかけると、マミコは「ええと……」と口ごもった。それはそうだろう。だがこのくらい積極的に畳みかけないと逆に不審がられてしまうのだ。


「ごめんなさい、今日は忙しくて……今度また、時間のある時にでも」


 マミコはお嬢様の時とは百八十度違う口調で私たちに詫びると、一礼して身を翻した。


「どうします、ボス?」


「決まってるじゃない、後を尾行つけるのよ」


 私たちはマミコとの距離が振り返られてもいい間隔まで広がるのを待って、歩き始めた。


「しかし妙な話ですね。バイト先の仲間も連絡先を知らず、家に行った者もいないなんて」


「そこよ。不倫が絡んでるせいかどうかはわからないけど、彼女にはなにか周囲に隠してることがあるはず。私たちがH医大だと言っても食いついてこなかったってことは相当、警戒しながら日々を送ってるってことだわ」


 私たちはどこにも立ち寄ることなく街路を右に左にすり抜けてゆくマミコを、調査員の勘を最大限に働かせながら追っていった。


「どこかに車を停めているって可能性もあるわね」


「なるほど、乗ってとんずらされちまったら目も当てられないですね」


 私たちの足が否応なしに止まったのは、大きな通りに出る角を曲がった直後だった。


「……あれっ、消えた」


 通りの奥に目を遣った金剛が突然、頓狂な声を上げてその場に固まった。


「本当だ、姿が見えないわ。向こうの交差点までは百メートル以上あるし、走ったとしても小さく見えるはずよ。いないなんて変だわ」


 私たちはターゲットを見失ったという事実を取り繕おうとするかのように、マミコの姿を探しながら通りを進んでいった。やがて右手に小さな美術館が現れ、塀越しに敷地の中をの覗きこんだ金剛がいきなり「あっ、いたっ」と叫んだ。


「えっ?敷地の中に?」


 私がつられて美術館の敷地を覗きこむと、金剛が「……また消えました」と消え入りそうな声で報告を続けた。


「本当にいたの?……見て、門のところ。札がかかってるわ。たぶん休みなのよ」


 私は少し先にある門にかけられた、『本日閉館日』と書かれた札を指さした。


「じゃあきっと施錠されてますね。……確かにあのオブジェのところにいた気がするんですが……」


 そう言って金剛が指さしたのは、球やら立方体やらがリングで知恵の輪みたいにつながれたオブジェのあたりだった。


「そうね。職員でもなきゃ入れないわよね。……仕方ないからしばらくこの辺で張ってましょう。姿が見えなかったら尾行をしくじったと思うしかないわ」


「その方が可能性高そうですね。……いくら何でも若い娘がこの柵を乗り越えて中に入ったとは……」


 金剛がそう言って足を踏みだしかけた、その時だった。ふいに背後から女性の声が飛んできた。


「――武志たけしちゃん!」


 振り返ると、小柄な若い女性が真剣なまなざしで金剛の方を見つめていた。


「……綾子あやこ


 金剛は女性に近づくと「こっちに出てきてたのか。一人か?」と尋ねた。女性は「ううん」と首を振ると「士郎おじさんと一緒よ」と言った。


「そうか、なら安心だな。……ボス、紹介します。幼馴染の綾子です。田舎では兄妹みたいに育ちました」


「はじめまして、金剛さんの上司で汐田といいます」


「あ、どうもはじめまして。十文字綾子じゅうもんじあやこと言います。ごめんなさい、お仕事中に」


「いいえ、気にしないで。……武志っていう名前だったのね、コンゴ。知らなかったわ」


金剛武志こんごうたけしが本名です。……じゃあな、綾子。仕事が一区切りついたら連絡するよ」


「うん、わかった。昨日からおじさんのところに泊まってるから、よかったら会いに来て」


 綾子は私達に向かってぺこりと頭を下げると、身を翻してその場を立ち去った。


「あいつも俺も片親で、小さい頃からあいつは俺を年の離れた兄貴みたいに頼ってたんです」


「そう。いいわね、田舎にそういう気やすい間柄の子がいるって。……さあ、調査に戻りましょ、コンゴ」


 私が檄を飛ばすと、金剛は「すみません、ボス」と言って身をすくめた。人気のない通りからふいに声が聞こえてきたのは、私たちがそんなやり取りをかわした直後だった。


「あら、閉館だなんて残念だわ。ちゃんと調べてっていつも言ってるのに、これだもの」


 私と金剛は塀の影に身を隠すと、声のした方を見た。


「お金持ちっぽいおばさまね。……見て、あの大きな犬」


 私が門の前に立っている女性と連れている犬を目で示した瞬間、犬が飼い主の手を離れ私たちの方に駆けだすのが見えた。


「――わあっ!」


 犬の襲撃に気づいた金剛が叫び声を上げた瞬間、私の視界から街の風景が消え失せた。


「……痛っ」


 お尻に衝撃を感じた私が声を上げて目を見開くと、そこには塀も歩道もなくどこかのロビーらしき空間があるだけだった。


「嘘、一体何が起こったの?」


 私が板張りの床の上でお尻をさすりながらぼやくと、金剛が小声で「すみません、ボス」と詫びの言葉を口にした。


「まさか……「飛んじゃった」の?」


 私は呆れながら起こった事態を悟り始めた。どうやら金剛の「能力」――自分でコントロールできない瞬間移動――が起こってしまったらしい。


「……で、ここはどこ?」


 私はあたりを見回しながら言った。周囲にあるのは展覧会の告知ポスターと小さな受付カウンターだった。どうやらここは美術館のロビーらしい。


「飛んじゃった物は仕方ないけど、これじゃ尾行どころじゃないわ」


 私が立ちあがって展示室に続く通路を見た、その時だった。通路の奥に移動する人影が見えた気がして、私は思わず声を上げていた。


「……あの人、いったいどうやって?」


 私が見た人影は、ハーフパンツとサンダルの若い女性――川渕真美子だった。


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