天使
「カナギ……」
椿は心配そうな顔で、カナギを見つめている。
「姫様、いえ、椿。どの道、こいつから逃げるなんて無理です。私が絶対に何とかしてみせます」
カナギは、刺し違えてでも、雷鬼を止めるつもりだった。先ほどまで絶対に勝てるわけがないという思いだったが、今は何故だか、何とかなるのではないかという自信が出てきたのだ。すると……。
「カナギ。目を閉じて」
カナギは後ろを振り返った。椿はきょとんとしていた。椿に声を掛けられたと思ったが、気のせいだったのだろうか。
「目を閉じて。心を無にして」
やはり、誰かがカナギに対して話しかけている。椿ではない。カナギの頭に直接、響いてくるのだ。最早、どうしようもない状況だ。一か八か、何者かも分からないこの声の主の言葉を信じてみようと思った。カナギは目を閉じた。
心を無にする。カナギには自然とそれが出来た。今まで感じていた恐怖心も身体の痛みも全て無くなって、まるで大きな穴にスッと落ちていくような感覚に陥った。無重力のまま、ずっと落ち続けていくと、暗闇から広い空間に移った。そこは一面、海だった。しかし、波一つ立っていない。水面は鏡のようだった。
カナギは不思議なことに落ちた先で、足が水面に着くと、水面に波紋が一つ広がるだけで、水面に立つことが出来た。辺りは海が広がるだけで、何もない。
カナギの心は落ち着いていた。この空間にいると、全ての事が止まっているように思えた。
すると、水面にフッと影が現れた。黒い影だ。自分に対して、敵意を持った何かだ。カナギにはそれが感じ取れた。
カナギは目を開けた。目の前には、雷鬼が迫っていた。まさにカナギに止めを刺さんと、手刀を振りかざしていた。
「カナギっ!!」
椿の叫ぶ声が聞こえた。しかし、カナギの心は落ち着いていた。目を開けても、カナギの心はさっきの水面のように波一つ無かったのだ。
雷鬼の手刀を寸前のところで、カナギは避けた。雷鬼は身体を硬直させ、すぐに飛び退いた。
「よく避けたな。まぐれか……?」
雷鬼は立て続けに拳を振りかざし、カナギに目掛けて殴り掛かったが、カナギは難なくするりするりと、避けていった。カナギの眼には雷鬼の動きはスローモーションに見えていたのだ。
カナギは自分の五感が何倍にも研ぎ澄まされていることを理解した。あれほど、敵わないと思っていた雷鬼の動きが手に取るように分かったのだ。カナギは自分の身体に起こった変化に戸惑いはしたが、これで雷鬼に太刀打ちできるという思いが確信に変わった。
「どういう事だ? さっきまでと全然、動きが違うね」
カナギは刀を構え、踏み込み、そのまま雷鬼の懐を斬りつけた。雷鬼の胸から鮮血がほとばしった。
「ぐっ!!」
雷鬼は胸を抑えた。すぐに血は止まった。
――まだ、浅いか。
カナギの一撃は致命傷にはならなかったものの、一矢報いることが出来たのだ。少し前のカナギにとっては、夢にも思わなかったことだ。
「調子に乗るなよ。人間が」
雷鬼は握りこぶしを天に挙げた。
――しまった。あの雷撃が来る。
さすがに五感が研ぎ澄まされ、身体能力も上がったとは言え、雷撃を喰らえば、ひとたまりもない。それに雷を避ける術など、カナギには分からなかった。
――殺られる前に殺る。
カナギにはその選択しか無かった。今の身体能力なら、雷鬼の雷撃が来る前に一太刀浴びせることが出来るはずだとカナギは確信していた。問題は何処を斬るかだが、人と同じく、鬼に殺すには首をはねるのが一番だということは、カナギは経験上、良く知っていた。
カナギは精一杯の踏み込みで、雷鬼に向かって刀を振るった。
――殺った。カナギはそう確信した。しかし、首を斬った感触は無く、代わりに刀身が金属にぶつかったような鈍い感触がした。
その瞬間、カナギは仕留めそこなった、と思い、確実にあの電撃にやられると死を覚悟した。しかし、カナギの一太刀を凌いだはずの雷鬼はそのまま呆然と立っていて、カナギはすんなりと距離を取ることが出来た。
カナギは少し離れた場所から雷鬼の様子を見た。振り上げた拳を下ろし、突っ立ったままでいる。
「てめえ。何しやがる……?」
雷鬼の声は怒りに震えていた。しかし、その矛先はカナギではなく、別の何者かに向けられているようだった。
「何をそんなに怒っているのかしら? お姉さんが雷ちゃんを守ってあげたんじゃない?」
カナギは暗闇に目を凝らした。雷鬼の後ろから、ぬっと人影が現れた。
――新たな鬼か……?
突如、現れたのは漆黒の洋風ドレスを着た女であった。しかし、鬼の特徴たる角が長い黒髪から生えていることから、鬼に違いなかった。
カナギは身構えた。あれほど強かった雷鬼に加えて、もう一匹の鬼だ。こちらが劣勢なのは分かっていたが、諦めるわけにはいかなかった。しかし、カナギの先ほどの一太刀。カナギは雷鬼を確実に仕留めたと思った。しかし、阻まれたのだ。おそらく、あの女の鬼の仕業であろう。女の鬼の手には細身の西洋刀が握られていた。見るからに細い腕だったが、カナギの刀を受け流したのだ。
女の鬼の眼がカナギを捉えた。その冷たい視線で、一瞬にして悪寒が全身を走った。カナギは直感した。
――この鬼は、雷鬼よりもずっと強い……。
「それにしても凄いわねえ。人間の身でありながら、この雷ちゃんを圧倒するなんて」
女の鬼は、一瞬にして屈託のない笑顔になった。カナギも思わず、気を許してしまいそうになるほどの変貌ぶりだった。
「邪魔すんなよ。そいつは俺の獲物だぞ?」
雷鬼は女の鬼を差し置いて、ずいと前に出た。すると、女の鬼は雷鬼の肩に手をポンと置いた。
「雷ちゃん。分からないの? あのお嬢さんはもう貴方の手に負える相手じゃないわ」
「なんだと……?」
「覚醒したと言っても良いわね。あの子、以前と比べ物にならないほど強くなっているわ。それこそ私達の域にまで到達しようとしている」
「馬鹿な。何でそんなことが……?」
「それを知るのが私達の目的でもあるのだけど……」
女の鬼はカナギを見た。
「申し遅れましたわ。私は天鬼と申します。所謂、天邪鬼の一種と思って頂ければ、幸いですわ」
天鬼と呼ばれた鬼は、お辞儀をして挨拶をした。そして、笑顔のまま、カナギに向かって拍手を送った。
「本当に素晴らしい力ですわ。それにお見受けしましたところ、今しがた、急に力を手に入れられたようにも見えましたが……」
カナギにもその実感はあった。急に強くなったのだ。彼らに対抗できるレベルまでに……。だが、カナギにはなぜ、自分がそんな力を持ったのは分からなかった。
「まあ、それはこの際は置いておくとして……。カナギさん、で良かったですよね。実を言うと、我々はもう争う必要が無いのですわ」
「……?」
カナギには良く分からなかった。今しがた、殺し合っておいて何を言っているのか、カナギには全く訳が分からなかった。
「そうですわね。順を追って説明しましょうか。まず、貴女方は勘違いしていますが、この雷鬼と私は、貴女方が今まで戦ってきた鬼とは全く別の存在です。我々は貴女方の味方なのですわ」
カナギは刀を握った拳に力を込めて、天鬼を睨みつけた。
「何を言っているのか全く分からない。お前達が味方だと言うなら、ここを襲ったのは何故だ? 城の者達を皆、殺したのはお前達だろうっ!」
「お待ちなさい。まだ説明が終わっておりませんわ。確かに我々はこの城の者達を殺しました。しかし、貴女方、町の者達に危害を加えるつもりはありませんわ。つまり、我らの敵はこの城の者達ということですわ。正確には、とある一人なのですが、それが今まで分からなかったので、結果的に皆殺しにしてしまいましたが……」
「意味が分からない。じゃあ、お前達は一体何者なんだ?」
「我々は鬼、という名前が付けられておりますが、それは武力を持つ存在という意味で、鬼という名前が付けられただけであって、本質は、天からの使い、つまり、天使という存在になります」
「天使……?」
「神の代弁者、という言い方の方が分かりやすいでしょうか。ここの雷鬼などが分かりやすいのですが、彼は雷を操る神、雷神の代行者というべき存在でありますわ」
「では、なぜ、神が我々を滅ぼそうとする? 我々が神に盾突くような事をしたとでも言うのか!」
カナギの憤りは収まらなかった。それでも、天鬼は冷静に答えた。
「先ほども言った通り、貴女方は何も悪くはありません。ただ、そこに居る一人を除いてはね……」
そう言って、天鬼はカナギの後ろの物陰に隠れている、椿を指した。カナギは振り返った。椿は蹲って、怯えていた。
「姫様……」
「私……、わたし、何も知らない。神様に盾突くような事なんて知らないよ!」
椿はか細い声でそう言った。カナギもこんな小さな女の子が神の怒りに触れるようなことが出来るとは思えなかった。
「可哀そうに。自覚が無いのですね。偽っているのか、本当に自覚が無いのか私には分かりませんが、貴女が大罪を犯しているのだけは事実。我々は貴女を粛清する為にここに居るのですわ」
「ふざけるなっ。何の証拠があって、こんな子供が大罪を犯していると言うんだっ!」
カナギは刀を持った手が震えるほど、怒りを抑えきれなかった。カナギには天鬼の言葉はただ自分達を虐殺するための方便にしか聞こえなかった。
「分かりましたわ。では、証拠を見せましょう」
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