第95話 家族のカタチ

 わからない。

 何度も繰り返される義父の声は弱弱しくて、つとむはしばし声を失っていた。

 この状況でかけるべき言葉を見つけることができないと言うのは、コミュニケーション能力の有無がどうこうの問題ではないだろうとは思うものの……

 落ち着いた雰囲気の店内は涼しいはずなのに、額からツーっと汗が頬を伝って流れ落ちた。

 どれほどの時間が経過したのかはわからない。

 長かった気もするし、短かった気もする。

 義父は――俯いていた顔を上げた。


「こんなことを聞くのもなんだけど、勉君はお母さんと喧嘩したことはあるかい?」


「……いえ」


 否定の答えを返すのに、一瞬の間を要した。

 女手ひとつで自分を育ててくれた母の姿が思い出される。

 再婚するまでの間、勉と母はお互いに寄り添いあって生きてきた。

 少なくとも勉は最善を尽くしてきたつもりだった。他にもっと効率的な方法はあったかもしれないと思うことはあったが、その選択肢を見つけることはできなかった。

 だから――喧嘩なんてしたことがない。

 そんなこと、やってる場合じゃなかった。

 義父と義妹も似たり寄ったりだと思っていた。


「うちもだよ。僕も娘とは喧嘩なんてしたことがなかった」


「そうなんですか?」


 口から出た声は、自分にしては意外なものだった。

 義父と義妹の仲が悪いと思っていたわけではなかったはずなのに、ふたりが揉めたことがないと聞かされて違和感を抱いた。


――何でだ?


 心の中で首を傾げ、すぐに答えが出た。

 裕福な家庭。

 父は大学教授で娘はアイドル。

 お互いに進む道が違いすぎる。価値観が違いすぎる。

 ほとんど別世界の住人がひとつ屋根の下で暮らしているなら、何かにつけてトラブっていてもおかしくない。

 よくよく考えてみれば……どうして仲が良いと思いこんでいたのか不思議なくらいに、何もかもが噛み合わない親子なのに。

 なぜ?


「僕らは……何と言うか、お互いに自分の好きなように生きてきたからね。僕は研究に打ち込みっぱなしで、瑞穂みずほは子どもの頃からアイドルに憧れていたし、伝手を頼って養成所に入り浸っていた。昔は、いわゆる『家族の時間』的なものにはあまり興味が持てなくてね。だから都合がよかったんだ。相手の生き方に過剰な干渉をしないという暗黙の了解が」


「はぁ……」


 何だそれは?

 そう思ったが口を挟むのはやめた。

 話の腰を折っている場合ではない。今は聞く時だ。

 それでも、頭の中で勝手に渦巻く思考は止められない。


――放任主義……と言うわけでもないのか?


 父にしてみれば娘に手がかからないことにはメリットがある。

 大学教授になるためには研究で成果を上げることが求められ、イチイチ娘に煩わされていれば教授の椅子は遠のく一方だから、瑞穂はただ迷惑をかけないと言うだけで父に協力していることになる。

 一方で娘にしてみれば父にうるさく言われないことにはメリットがある。

 彼女が志したのは芸能界。

 真偽はともかく、色々と噂を耳にする界隈だ。

 ごく普通に考えれば、そうそう簡単に保護者の許しが得られる業界ではない。

 ……にもかかわらず、許可は出ていたのだ。

 そういうところでは父はちゃんと娘に協力する。

 不可解ではあったが、今までは何の問題もなかった。

 ただ……このふたりの『協力』は、相手を理解し信頼した上でのものではなかったという点がややこしい。


――余所のことをどうこう言えた筋でもないが、大概おかしな関係だな。


 現実には余所様のご家庭ではない。

 今や彼らは勉にとって家族なのだ。


「ずっとそうやって暮らしてきた。傍から見れば奇妙な親子だっただろうけど、何事もなく上手くやってこられた。瑞穂には反抗期らしいものもなかったし、もちろん虐待なんて以ての外さ。何かと揉める余所の家庭よりも、よっぽど……」


 そこで一度義父は言葉を止めた。

 

「そう、上手くやり過ぎた。上手く行きすぎたんだ。いや、上手く行っていると思い込んでいたんだ。その証拠に、僕らは口論すらロクにしたことがなかった。だから……親子喧嘩の仕方がわからないんだ」


 娘の成績がメチャクチャなことになっていた。

 学校の成績は維持する約束だったのに。

 約束を破られたから腹が立った。


 そう、約束。


 義父と義妹の関係は、明文化されていない約束によって成り立っていた。

 このふたりはお互いを信頼し合っていたわけではなかった。

 だから、約束こそが重要な意味を持っていた。

 その約束を一方的に反故にしてしまったら、今後は今までどおりの関係を続けていけない。

 二度あることは三度あるとも言う。

 不安を覚えて、義父はカッとなってしまった。

 さすがに父である自分が叱れば、娘は素直に頭を下げると思っていた。


 そうはならなかった。


 父の目の届かぬところ――芸能界で大人に混じって活動してきた娘は、研究室に引きこもっていた男の想像を超えていた。

 年齢や声色、親子という立場なんて、過酷な実力の世界で生きてきた瑞穂にとっては何の意味も持たなくて、それ故に彼女は引き下がることもなかった。

 結果、売り言葉に買い言葉で罵り合いは激化して。

 ふたりの軋轢がどんどん大きくなって――


「瑞穂の芸能活動を認めなければ多くの人に迷惑をかける。それはわかる。でも……だからと言って、このまま瑞穂を許してしまえば……あの子は味を占めてしまって、これからも同じことを繰り返すかもしれない」


 ファンや関係者を盾にとって、無茶な要求を押し通す。

 いくら何でも、そんな卑劣な人間になってほしくはない。

 義父の呟きは苦々しげで、相当に苦悩していることが窺える。


「瑞穂は、そこまでバカな人間ではないと思いますが……」


「僕もそう思いたい。でも……」


 言葉に詰まった義父を見ているとモヤモヤしてくる。


――要するに、信用できないわけだ。


 話を聞いている限り、瑞穂には義父に育てられたという自覚が薄い。

 同時に、義父も自分が娘を育てたと言う自覚が薄い。

『協力』と言えば聞こえはいいが……ふたりはお互いに利用し合っていただけで、その根底は口約束に過ぎなくて。

 それはつまり、信頼ではない。

 平穏に過ごしていられる間はよかったが、ひとたびトラブルが発生した場合に対処するための心構えもマニュアルもない。

 何なら参考にするべき過去の経験すらない。

 一度喧嘩が始まってしまえば、感情の赴くままにエスカレートしてしまって、こぶしの振り下ろしどころが見つからない。


――まぁ、義父の言うこともわからなくはないが。


 勉自身、瑞穂のことを信頼しているかと問われれば首を縦に振れる自信はない。

 何をするにしても話は噛み合わないし、今回の件について最初にやらかしたのは瑞穂の方だとさえ思っている。

 テストの点が悪かったのは仕方がない。

 否、仕方なくはないが……もうすでに確定した事実に過ぎない。

 ごちゃごちゃ言うより素直に謝ればよかったのだ。

 頑張ったってダメな時ぐらいあるだろうに。


――俺も大概だが、アイツもなぁ……


 勉こそ、ため息のひとつもつきたくなる。

 こんな相談をされるなんて、完全に想定外だ。

 込み上げてくる乾いた笑いを抑えるのにひと苦労だ。

 

「なぁ、勉君……親子喧嘩の仕方、終わらせ方ってわからないかな?」


「……残念ですが、力になれそうにないです」


 下手に期待を持たせるよりも、素直に答えることを選んだ。

 人間関係の機微に疎い自覚はあるし、義父に言ったとおり勉には親子喧嘩の経験はない。

 心の中では『何をやってるんだ、このふたりは』と呆れていたりもする。

 いずれにせよ、あまり有効なアドバイスができるとは思えない。


――わからないことは、人に聞けばいいのだろうが……


 教えを乞うならば、誰に聞くか?

 今度はその問題が付きまとう。

 真っ先に脳裏に浮かんだのは――勉の知り合いの中で、この手の問題を得意としていそうな数少ない友人のひとりである『天草 史郎あまくさ しろう』だった。

 親子喧嘩云々はさて置いて、彼の日ごろの振る舞いを鑑みれば、自分よりはマシな意見をひねり出してくれるのではないかという期待はある。

 ただ……こんな身内の問題を迂闊に相談してもいいのだろうか?

 特に瑞穂はアイドルであり、史郎に『実は義妹がアイドルでな』なんて話したことはない。そこを隠すにしても、上手いカバーストーリーが思いつかない。

 高校一年生の身で仕事に穴をあけたら多くの人間に迷惑をかける、そんな特殊な義妹……どう説明すればいいのか。

 

――あとは……


 もちろん茉莉花まつりかの顔も思い浮かんだ。

 笑顔、怒った顔、真剣な顔、泣き顔。

 関わり合うことになってからそれほど時間を経たわけではないが、勉は彼女の様々な姿を実際に目にしてきたし、彼女の心に触れてきた。

 だから、確信している。

 この問題を相談するにあたって、一番頼りになる相手は茉莉花に違いない。


 人格面で信頼がおけて、史郎に負けず劣らずのコミュ強者で、そして何よりもすでに彼女は事情を知っている。

 史郎よりも格段にハードルは下がるに違いないとさえ思った。

 しかし――そこまで理解した上で、彼女にだけは相談したくなかった。

 なぜなら、茉莉花と彼女の両親を取り巻く問題は、狩谷かりや家のそれより深刻だから。

 その一端を垣間見た勉としては、恋人の心の傷を抉るような真似は可能な限り避けたかった。


「勉君、瑞穂と話し合う機会を作ってくれないかな。出来れば、君も同席してほしい。僕たちだけで顔を合わせたら、きっと昨日の二の舞だからね」


 義父は、心の内で葛藤する義理の息子の様子に気づいていないようだった。

 勉は、義父から力ない笑みを向けられて――答えを返すことができなかった。

 何の手立てもないままに機会を作っても、何の成果も得られないのではないか。

 そう思いはしたものの……憔悴した義父に本音をそのまま口にすることは、さすがに憚られた。

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