第96話 となりで微笑む その1
義父との話し合い、その詳細を語る
ひととおりの顛末を
内容そのものは決して長いものではない。
だが。
――
最寄り駅で降りてから自宅に直帰しなかったのも、隣に引っ越してきた彼女と顔を合わせるのが気まずかったからだ。
義父に会うこと。
義妹について相談すること。
いずれも茉莉花には話を通している。
家に帰れば『どうだった?』と聞かれるのは自明の理。
出会ってしまった上に、当の茉莉花自身に促されては否とは言えない。
――違うな。
いつの間にか額に手を当てて、深くため息をついていた。
義父や義妹にまつわるアレコレを茉莉花に知られたくなかったことは確かだが、それ以上に――
「なるほど、それでそんな顔をしてるわけだ」
「そんな顔?」
「ものすっごい『やる気でねー』って顔」
「それは……」
そうだろうな。
語尾を濁した勉の頬を、茉莉花の白い指がつついた。
一回、二回、三回……何度も何度もつつかれ続けて、いつまでたっても止まらない。
「
「いや、あのな……」
止まらない茉莉花の手に,そっと自分の手を添える。
少し汗をかいているのにひんやりしている、滑らかな手。
常日頃は簡単に触れることもできない茉莉花の手を、しっかりと握っていた。
茉莉花は――勉の手に抗わなかった。
代わりに、顔を上げた勉の目をじっと見つめている。
その整いすぎた美貌には、からかいもなければ怒りもない。
「ウチのことって言うか、私のことを考えてくれてるんだけど……そういうの、余計なお世話だから」
茉莉花の声に澱みはなかった。
その言葉こそ、勉が話を渋っていた理由そのものだった。
彼女は――『立華 茉莉花』は、生まれ落ちたその時から両親の愛を受けたことがない。
義妹の
だが、茉莉花は自らに与えられた環境を諦念とともに受け入れるほど殊勝ではなかった。
高校に入学して半年以上の時間をかけて計画を練った。
表では学校のカリスマアイドルとして君臨しつつ裏垢でエロ自撮りをバラまいて、気を見計らって自作自演で炎上騒動を引き起こす。
そんな冗談みたいな自爆前提の作戦を実行に移したのだ。
せめて怒られたい。
ただ、それだけのために。
そして……まさしく捨て身で手を伸ばしてなお、茉莉花の両親は彼女を顧みようとしなかった。
どうしようもない破綻。
こと家族というテーマにおいて筆舌に尽くしがたい悲劇を押し付けられた茉莉花に『親子喧嘩の仕方がわからないんだ。助けてくれないか』なんて義父のしょうもない懇願を語ることは心苦しかったし情けなかった。
「狩谷君は……親子喧嘩ってしたことないんだよね?」
「ああ」
親ひとり子ひとりで身を寄せ合って生きてきた。
喧嘩なんてやってる場合じゃなかった。
ただ生きていくだけでも大変だった。
我慢を強いられることもあった。
それでも――望ましい未来を掴み取ろうとした。
これまでの勉にとって人生にまつわるテーマは、概ねその一点に収束していた。
だから、茉莉花を引き合いに出すまでもなく、勉自身から見ても義父と義妹にまつわる今回の一件は聞けば聞くほどにバカバカしくて――
「こんなこと私が言っていいのかわからないけど、狩谷君はずっと頑張ってきた。それは前にも聞いたし、あのノートを見ればハッキリわかる。でも……だからって、狩谷君がふたりを見下すのは違うと思う」
「立華?」
フラットな茉莉花の声に驚いて、その整いすぎた顔に目を向ける。
隣に腰を下ろしていた彼女の顔に、冗談を感じさせる要素はない。
ただひたすらに、どこまでもシリアスな雰囲気だけを纏っている。
「不幸自慢なんてダサいって思うし、私や狩谷君から見て『甘えるな~』って怒るのはそれなりに正当性があるって言うか、他の人も賛成してくれるかもしれないけど……それは、きっと違う」
「……続けてくれ」
勉の喉から出た声は自身のイメージよりも硬く、そして脆かった。
人の心の機微に疎い自覚があるだけに、この手の問題にぶち当たるたびに何か見落としや勘違いがあるのではないかという疑念が拭いきれない。
ましてや発言の主がかつては教室の中心に、否、頂点に座していた茉莉花であると言う点が、一層不安を募らせてくれる。
「うん。ひょっとしたら狩谷君は気を悪くするかもって思うんだけど……」
「思わない」
「聞く前からそういうこと言うの、反則じゃない?」
食い気味に断言すると、茉莉花は苦笑を浮かべた。
まったくもって心外だった。
勉もまた冗談を口にしたつもりはない。
口を引き結んだまま、レンズ越しに目線で先を促した。
茉莉花は軽く首を縦に振って、勉から目を離す。
その漆黒の瞳は正面に向けられていて――視線の先では幸せそうなカップルがいちゃついていた。
「ちょ~っと話がズレちゃう感じだけど……上手く行ってるとか行ってないとか、幸せとか不幸とか、そういうのって周りから見てるだけじゃわかんないって言うか。一見バカバカしいようなことでも、当の本人たちにとっては大問題だって言うか」
心当たりない?
ちらりと流し目。
長いまつげに縁どられた瞳が心臓に突き刺さる。
「それは、まぁ……そういうことはあるかもしれんな」
「あるよ。例えば私って親に愛されてはいないけど、ものすっごいお金持ちなわけ。生まれてこの方欲しいものは何だって買えたし、彼氏の家の隣に引っ越したいって思ったら即実行できちゃうし。そういう方面ではやりたい放題なの。だから『贅沢言うな!』って思ってる人、絶対いるよねって」
「……」
「私からしたら、お金よりも愛がほしかったなって。ちゃんと親に愛されてる他の人が羨ましいし、それこそ『贅沢言うな!』って思ったりする」
そういうものなんじゃないかな。
茉莉花の声は、少し掠れて聞こえた。
大切なものとか、欲しいものは人それぞれ。
幸せも不幸も人それぞれで、自分の尺度で他人を測ることはナンセンス。
「瑞穂ちゃんも狩谷君のお義父さんも真剣に悩んでいて、それはふたりにとってとても大切なことなんだって思った。まだ全然お話しできてないけど……あの子にも譲れない願いがあるんじゃないかな」
「……譲れない願い?」
「うん。だって、今まで揉めたことなかったお父さんと喧嘩して、狩谷君を頼らざるを得ないぐらいに追いつめられてたんでしょ。あの子は何も言わないけれど、きっと何か理由があるんだよ。だから、私や狩谷君が『そんな些細なことで』とか勝手に言っちゃったらダメだなって」
「……」
「狩谷君のお義父さんが『約束』を大切にしているように、瑞穂ちゃんにも大切にしている『何か』がある。そして……ふたりとも相手の大切なものに知らず知らずのうちに触れちゃった。喧嘩の根本的な原因は、そこじゃないかな」
瑞穂が一方的に悪いとは思わない。
茉莉花は、そう静かに付け加えた。
「……立華の方が気を遣いすぎてるんじゃないか?」
「そうかな?」
「そうだ。俺は……そんなに色々と考えたりはしない」
つくづく自分は視野が狭い。
茉莉花と話をしていると、己の不甲斐なさを思い知らされる。
――立華がいなかったらと思うと、ゾッとするな。
直接会って話を聞かされて、義父の言葉を正しいと思った。
約束事を守るのは当たり前で今回は瑞穂の方が悪い。
そう思っていたが――そうではないのかもしれない。
この話は、それだけでは片付かないのかもしれない。
茉莉花とのアレコレを通じて、交際する間柄になって――だから彼女に相談できた。
瑞穂と義父の喧嘩は茉莉花との交際があろうがなかろうが発生していたはずで、彼女と付き合うことができていなければ、勉ひとりが問題に立ち向かうことになっていたはずで……
想像するだけで首筋から背中に氷柱を突っ込まれたような冷たいものを感じた。
最悪、狩谷家崩壊まであり得るとさえ思えた。
内心でホッと胸を撫で下ろす勉の横で、茉莉花が胸を張った。
……相も変わらず自己主張の激しいふくらみを凝視する気分ではなかった。
「ま、私は元学校のカリスマですから」
「カリスマって自分で言えるのは凄いと思うが……それ、何か関係あるのか?」
「もちろん。カリスマだからクラスメートの相談を受けたりもしてたしね。みんな色々なことを悩んでるなって考えさせられることもあるわけ」
悩んだり苦しんだりしているのは自分だけではない。
十代の後半は多感な時期だ。
誰もが自分なりの悩みを抱えている。
「自分だけが特別で自分だけが悲劇のヒロインだーって、そんなことないんだよね」
「……なるほど」
他者との距離を取りがちな勉が得ることのできない経験を積んでいるということだ。
隣人たちの些細な――それを些細と称するのは傲慢――問題に関わってきた茉莉花の言葉には、力があった。
「狩谷君の強さを羨ましいって思うこともあるよ」
「無理にフォローしてくれなくても構わないが」
「無理してないって。私には私のいいところと悪いところがあって、狩谷君には狩谷君のいいところと悪いところがあって。そういう私たちが一緒になって、お互いを補い合うことができるって素敵だと思わない?」
「……そうありたいものだ」
「そうあろうよ。でも今は……」
いい感じな会話だなとジーンとしていたが、感動に浸ってもいられない。
そういう話は差し迫った問題を取り除いてから、ゆっくりやればいい。
幸い時間はたっぷりあるし、勉と茉莉花の距離は物理的にも近い。
……邪魔さえ入らなければ。
「やはり、さっさとあのバカを叩き出さないとな」
「狩谷君、言い方」
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