第94話 義父と
待ち合わせ場所として指定されていた喫茶店で久方ぶりに再会した義父は、最後に見たときよりも意気消沈しているように感じられた。
「本当に久しぶりだね。ほら、こっちだ」
「……はい」
平静を装いながらも、この時点で相当に居心地が悪かった。
『お義父さん』
この呼称は家を出る前から使っていた。
そして……何度使っても慣れることはなかった。
物心つく前に亡くなった実の父親のことは記憶にないどころか内心では嫌悪すらしているだけに、母が迎えた新しい義父を『ちち』と呼ぶことに含むところはない。
ただ、自分の口から出てくる『ちち』という音の塊には違和感があった。
少しはマシになっているかと思いはしたが、そんな都合のいい話はなかった。
よくよく考えてみれば、家を出て以来『ちち』という言葉を使った記憶なんてほとんどなかったわけだからして、状況が好転しているはずもなかったのだけど。
店外からは覗きづらい奥まった席に腰を下ろし、店員にアイスコーヒーを頼んだ。
『何でも好きなものを頼んでいいよ』と言われはしたが、ここで値段が一番高いものを選んだりするほど図太い神経はしていなかった。
「最近学校の方はどうだい?」
「どうと言われても、あまり変わりありませんが」
嘘をつくつもりはなかったが、ハッキリ言って大嘘だった。
高校二年生の一学期、生まれて初めての彼女ができた。
勉の人生にとって一大事と言って差し支えない。
――『何もない』は……いくらなんでも無理筋だろ。
そう気づいたのは、今こうして
義父と向かい合っていた時は、本気で何もないと思っていた。
だから、今、勉の眼前で真剣な眼差しを向けてくる茉莉花には『あいさつは普通にできた』程度で誤魔化しておくにとどめた。
ありのままを説明したら、からかわれるか怒られるか想像がつかない。
いずれにしても今回の本筋からは離れた話題だったから……と心の中で自分に言い訳しておく。
閑話休題。
「そうは言っても、勉君の場合は家事もあるしアルバイトだって頑張っている。大変じゃないか?」
自分が高校生だったころは勉強こそ頑張っていたものの、もっと遊んでいた。
義父は真面目腐った顔で、そんなことを口にした。
――何十年前の話だ、それは。
数えてみれば、少なくとも30年以上前だ。
しかも義父の実家である
今でこそ独立しているものの、当時まだ学生だった義父はその恩恵を存分に受けていたはずで、令和に生きる勉とは状況が違いすぎる。
「別に自分に限った話でもないですし、無理をしているわけでもないので」
「そうか……勉君は立派だなぁ」
義父はため息を吐いた。深い深いため息だった。
誰と比べて立派なのだろうと疑問が湧いた。
かつての義父自身か、それとも……
どう反応したものか迷っていると、ちょうど店員がアイスコーヒーを運んできた。
ガラスのコップの中から聞こえる氷の音色が耳に心地よかったが、手を付ける気にはなれなかった。
「あ、飲んで飲んで。喉、乾いているだろう?」
「……いただきます」
炎天下を歩いてきたから喉は乾いていた。それは事実だった。
だからと言って思い悩む義父の前で暢気に喉を潤す気分でもない。
……それでも、じっと見つめられると何もしないわけにもいかない。
結局少し汗をかいたコップを手に取って口に運んだ。
――味がしないな。
メニューには普段の自分だったら絶対頼まないほどには結構な値段が記載されていたのに。
とりあえず喉の渇きを抑えられればいいと割り切ることにした。
苦い。
味は感じないのに。
ただ率直に、そう思った。
「それで……えっと、昨日は娘が迷惑をかけたね」
「いえ」
迷惑などと言う言葉で片づけられては堪らないほどには迷惑だったが、バカ正直に答えることは憚られた。
まさか恋人と一線を越えようとしていたジャストタイミングに乱入されたなんて、いくら何でも義父の想像を絶しすぎているに違いない。
そもそも茉莉花の存在を明かしていないので、想像できるわけもないが。
それを置いてもおおよそ最悪のシチュエーションであったことは間違いなくて、無意識のうちに眉間に皺が寄った。
渋い顔をしてしまった勉を見て、義父の顔に濃いめの陰が差した。
……なんとなく、表情の意味を勘違いされた気がする。
訂正できないことが、少しもどかしかった。
「昨日の通話で一応話は伺いましたが、もう少し詳細なところを聞かせてもらえませんか? いきなりすぎて正直わけがわからないと言うか……」
「
「……ツアー直前だそうで、相当焦っていました」
正確には激怒していた。
怒りの矛先は、半分くらい家に彼女を連れ込んで(自主規制)しようとしていた義理の兄に向けられていた気がしなくもないが、それは義父とは何の関係もないので言わない。
今にして思えば、父に対して憤懣やるかたないところに義兄のあんなシーンに出くわしてしまった瑞穂の心境は想像を絶する。とばっちりを食らったのはいったいどっちだったのか。益体もない考えが脳裏をよぎり、慌てて軽く頭を振った。
「芸能活動を続ける条件として、学業にも手を抜かないこと。そう約束したのにあのバ……瑞穂が約束を反故にして酷い成績を取って、昨日はその件でふたりが揉めた」
「うん。そのとおりだ」
落ち着きすぎている義父に微かな苛立ちを覚えた。
これまでの勉の人生では、あまり記憶にない感情だった。
腹が立っているわけではなく……ただ、何かが噛み合っていない。
「こういう言い方はあまり良くないかもしれませんが、事は瑞穂ひとりの問題じゃなくなっています。今回だけは大目に見るということにはできませんか?」
自分でも『らしくないことを言っている』と呆れた。
義父と義妹の間で交わされた約束は、傍から見ても真っ当なものだ。
それを一方的に瑞穂が破ったのなら、相応のペナルティが課されてしかるべき。
いつもの勉だったら、きっとそんなことを言って義妹の懇願を突っぱねていたはずだった。
しかし――
――もう、ただの親子喧嘩として片付けるのは無理だ。
同じユニットのメンバーや事務所。
激戦を制してチケットを購入した彼女たちのファン。
業界関係者を始め、勉では想像もつかないほど多くの方面の人々。
ひと夏だけの活動停止と仮定しても、この一件で影響を受ける人間が多すぎる。
万が一にも賠償金がどうのこうのなんて話が出てきたら、それこそ冗談みたいな負債を背負うことになるのではないかという下世話な心配もある。
勉でさえ焦燥を覚えていると言うのに、義父の口ぶりは記憶にある過去のものと何も変わらない。
見た目は憔悴しきっているくせに。
そのギャップが堪らなく癇に障る。
――何と言うか……まるで当事者意識がないように見えると言うか……
これまでの勉は自分を取り巻く問題には、概ね自分で結論を出してきた。
決して正しい選択肢を選び続けるなんて器用なことはできなかった。
むしろ間違ったり失敗した方が多かったかもしれない。
それでも、自分のことは自分で決めてきた。
自分の選択から生じる諸事に対しても、自分で責任を取ってきたと思っている。
ただ――それは勉が相対してきたトラブルが、基本的に勉の裁量でどうにかなるものばかりだったからでもあった。
最悪自分が不利益を被ることに目をつむることができればノープロブレム。
大人になるとは、そういうことだと思ってきた。
――俺が瑞穂と同じ状況に置かれたら……キレ散らかすのも無理はないと思えるのがなぁ。
テレビにも出て人気急上昇中で、影響力は勉とは比較にならない義妹。
甘やかすことは本意ではなかったが、ここで無理を押し通しても責任が取れない。
勉が今までいっぱしの
「アイツは十分反省……しているかはわかりませんが、自分がしでかしたことについては自覚がある……と思いたい、ので……だから……」
「そのあたりのことは僕も十分考えたんだが……勉君はそれでいいと思うかい?」
「……と言うと?」
自分と同じことを悩んでいるのかと思ったが、義父の顔を見て『違う』と直感した。
これ以上新しい問題を抱え込むのは勘弁してほしいと思ったが、聞かないわけにもいかない。
「……いや、違う。そうじゃないな。カッコつけてる場合じゃない。正直に言って僕も困ってる」
「困ってる?」
義父が口にしようとしていた言葉を飲み込んだと直感した。
代わりに意味不明なことを言い出した。
困っているのは瑞穂(と、彼女に付き合わされている自分)の方なのだが。
視線に載ってしまった不審な感情を受けて、義父は力なく笑った。
「僕はね……わからないんだ。これでいいのか、ここで瑞穂を許していいのか」
自分が頭を下げるのか。
瑞穂が頭を下げるのか。
わからないんだ。
だから困っている。
義父は何度も繰り返した。
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