第93話 途方に暮れる

 涼しげなベルの音色とともに雰囲気のあるドアを開けると、人工的な冷風がつとむの顔を撫でる。

 夏休みに入っていよいよ猛暑が本気を出してくる頃合いを、ロクに日よけもせずに駅から歩いてきただけあって勉は全身汗みずくだった。

 そこに風。

 冷たい風。


――天国か……


 あまりの心地よさに感動していたら――『いらっしゃいませ』とメニューを持って近づいてきた女性店員の眼差しが突き刺さった。

 さすがにプロらしく表情を崩すことこそなかったものの、彼女の目にはほんの少しだけ呆れが混じっているように見えたから、居た堪れなさに頭を抱えたくなってしまう。


「先に待ち合わせの相手がいるはずなんですが」


 ここは勉の家から遠く離れた、とある駅近くの喫茶店だった。

 最寄り駅まで歩いて電車に乗って、降りてからまた歩く。

 夏休み二日目にして、想定外の遠出。

 本日の目的はもちろん茉莉花まつりかとのデート……なんて浮ついたものではなく、いきなり降ってわいた義妹の件について義父と話し合うためである。

 ここは――勉の義父が務めている大学に近い。

 暇というわけではないにしても時間に余裕を作りやすい勉の方が、義父に合わせる形になるのは至極当然と言える。

 駄々をこねれば義父が勉の家近くに足を運ぶ可能性はあったにしても、それは申し訳がなさすぎる。勉はそこまで子どもじみてはいない。

 付け加えるならば、茉莉花と義父がエンカウントする可能性を否定しきれなかった。

 初めてできた彼女を隠しているつもりはないが、報告する勇気はいまだに持てていない。

 ついでに、万が一義父が瑞穂みずほと顔を合わせたりしようものなら……何もかもが台無しになりかねない。

 やはり自分がこちらに足を運んだ方が合理的だったなと、勉はひとり頷いた。


「やあ、勉君。こっちだ」


 店員の視線を感じながら店内を見回していたら、奥まった席から声が聞こえた。

 聞き慣れた声かと問われれば、言葉を濁してしまう声でもあった。

 そちらに視線を向けて――横合いの店員に頷いて見せる。

 案内された席から立ち上がったのは年配の紳士。

 体型はごく普通で、身長は勉よりも少し高い。

 髪は丁寧に撫でつけられているものの白い色が混じっていて、顎髭を生やしている。

 太い縁の眼鏡をかけた顔には最後に目にしたときと変わらない温和な笑みが浮かんでいる。わずかに憔悴を感じるのは、状況をあらかじめ聞かされているせいだろう。

 当然と言うべきか否か……勉とは似ても似つかない。


「勉君、わざわざすまないね」


「こちらこそすみません、お待たせして」


「そんな固いことは言わなくてもいいよ。私たちが迷惑をかけているのだから」


「お久しぶりです――お義父さん」


『お義父さん』と呼ぶ声が、ほんのわずかに震えた。

 気づかれていなければいいのだが……と願わずにはいられなかった。





「ふぅ」


 約一年以上もの時を経て久方ぶりに顔を合わせた義父との会話を終えて、勉は店を後にした。再び熱気あふれる街中を歩き、電車に乗って、駅に降りて、そのまま家に帰る――ことはなかった。

 自宅であるマンションから少し離れた公園に足を向け、途中の自販機でウーロン茶を購入。日陰のベンチに腰を下ろして、買ったばかりのお茶を口に含む。

 水分を欲していた身体が大喜びでお茶を奥に奥にと流し込んでゆく。

 ひとしきり喉を潤してから缶を口から離し、しかる後に大きく大きく息を吐き出した。

 それは満足のため息であり、落胆のため息でもあった。


「さて……どうしたものか」


 誰に聞かせるともなく独り言ち、何気なく周囲に視線を走らせる。

 テレビをつければやれ熱中症だのなんだのと大騒ぎしている割には、夏休みの公園はなかなかに盛況だった。

 どちらかと言えば年若い子どもたちが多いように見受けられたが、老年の姿もあるし勉と同年代の男女もいた。

 誰もが一様に能天気もとい明るく見えるのは、気のせいだろうか。

 対する勉はと言えば、胸の奥が鉛を飲み込んだかのように重かった。

 意識して姿勢を保たなければ頭が重力に負けて項垂れてしまいそうだ。

 

「何しているの、狩谷かりや君?」


 その声はいきなりだった。

 頭上から振ってきた、聞き慣れた声。

 聞きたかったような、聞きたくなかったような声。

 見上げればそこには――予想どおりの人影があった。茉莉花だ。

 朝食を終えてから一度家に帰ったらしく、朝ほどラフな格好ではない。

 ……そうは言っても夏らしく軽装であり、魅惑的すぎる胸元のふくらみは服の上からでも見て取れるし、スカートの裾から伸びる白くて長い脚もバッチリ見える。


――スカート長いな。


 学校で見かける校則違反確定のスカートに比べると裾が長い。

 別にそれを指摘するつもりはなかったものの、残念な気持ちはある。

 当の本人にバレたらからかわれること間違いなしなだけに、眼鏡の位置を直すふりをして表情を隠す。

 ……ほんの一瞬だけ、抱え込んでいたヘヴィな感情を忘れることができていたことに、当の勉自身が気づいていなかった。


立華たちばな、どうしてここに?」


「どうしても何も、狩谷君が全然帰ってこないから駅まで迎えに行こうかなって」


 駅に向かっている途中で、公園のベンチに腰を下ろして途方に暮れている勉を見つけたらしい。

『リストラされたサラリーマンみたいだった』と続けられて、秘かにショックを受けた。


「そんな風に見えたか?」


「見えたよ。あんな狩谷君って初めて見た気がする」


「そうか?」


 言われてみれば、そうかもしれないと思った。

 茉莉花と近しくなってまだ二か月ほどだが、彼女の前でしょぼくれた姿を見せた経験はなかった。

 厳密にはあったかもしれないが、記憶にはなかった。


「何かあった? まさか、お義父さんと喧嘩した?」


 勉の隣に腰を下ろした茉莉花が、心配そうにのぞき込んでくる。

 艶やかな黒髪が肩から流れ落ちた。

 ひとつひとつが人目を惹く挙動でありながら、きわめて自然でワザとらしさはない。


「いや、そういうわけではないんだが」


「でも、何かはあったよね?」


「どうしてそこまで断定的な……」


「何もなかったらすぐに帰ってくるでしょ」


「……それはそうか」


 茉莉花の追撃はあまりにストレートで、相変わらずごまかしの類は効果が薄い。

 もともとその手の対応を得意としていない自覚があるだけに、余計にバツが悪い。


「別に義父と喧嘩したわけではないんだ」


「うん」


「ただ……」


「ただ?」


「……」


 勉が家に帰らなかった理由。

 それは――ズバリ隣からのぞき込んでくる茉莉花だった。

 家を出た段階では、義父の話を聞いて茉莉花と善後策を練るのが手っ取り早いとばかり決めつけていた。

 間違っていたとは今でも考えていない。

 ただでさえあのアホ――もとい義妹の瑞穂には時間がない。

 一刻も早く彼女が芸能活動に邁進できるようにするためには、勉とは対照的なコミュ強者である茉莉花の協力は欠かせないと言ってもいい。

 もっとも……瑞穂を家に泊めてもらったり、マネージャーの前で友人のふりをしてもらったりと、すでに十分助けられているような気がしなくもないが。

 家に帰ったら茉莉花がお礼云々な話をしていたものの、実際は勉の方が茉莉花にお礼をしなければならないような気さえしてくる。

 それはきっと勘違いではない。


「狩谷君?」


「その、な……」


 負い目があった。

 わざわざ自分を迎えに来てくれた。

 感謝しかないにもかかわらず、勉の口は重かった。

 正直に言えば――茉莉花に話したくなかった。相談したくなかった。

 隠し事の類は良くないとは思っていても、気が乗らなかった。


『まさかこんなことになるなんて』


 義父と別れてここまでくる間、ずっと考えていた。

 悩みに悩みが積み重なって頭が重い。

 途方に暮れていたというか、項垂れていたのは精神が重力に引かれていたからだと思う。


「話して、狩谷君」


「……」


「前に私のこと助けてくれたよね。だったら、私だって狩谷君の力になりたいって思うの、変じゃないよね」


「まぁ、それは、そうなんだが……」


「狩谷君」


「……わかった、話す」


 にじり寄ってきた茉莉花の瞳が強い。

 少し汗が混じった香りが鼻先を掠めて思考をかき乱す。

 直接触れていないのに、茉莉花の身体から体温を感じる。

 以前にカラオケボックスの個室で向かい合った時と同じだ。

 逃げられないし、ごまかせない。

 話したくはないが――話さなければ彼女を侮辱することになる。傷つけることになる。

 ぬるくなったウーロン茶で喉を湿らせてから、渋々ながら口を開いた。

 話す前から口の中が苦みで一杯だった。


「わからないそうだ」


「……なにが?」


「喧嘩」


「喧嘩?」


「ああ。喧嘩の仕方がわからないそうだ。親子喧嘩のな」


 きょとんとしている茉莉花の気持ちが、少しだけわかる。

 勉だって『俺はいったい何を言っているんだろう?』と頭を抱えたいぐらいなのだ。

 ひとりで思い悩んでいても解決の糸口が見つからないのは間違いないが、きわめて個人的な感情から茉莉花に相談したいとは思えなかった。

 だが、他に手立てがあるわけでもない。


――仕方がない……よな。


 アレコレ記憶を掘り返してみても、他に相談できそうな相手がいないのだ。

 つくづく人間関係の薄さに祟られていると感じる今日この頃。

 今さらこれまでの自分の所業を後悔しても、もう遅い。

 こめかみから汗が一筋、頬を伝って流れ落ちる。


――暑いな。


 口には出さずに、心の中で唸った。

 照りつける太陽にまで責められているような。


「はぁ……」


 覚悟を決めた。

 決めざるを得なかった。

 茉莉花の目力は強く、視線は逸らされない。

 こうなった彼女は、基本的にてこでも動かないと知っている。

 だから――胸の奥に溜まっていた重苦しい空気とともに、義父と話し合ったくだりをぽつぽつと吐き出し始めた。

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