第84話 ふたりが去って

『たとえ義妹いもうとだろうとアイドルだろうと、私は狩谷かりや君を譲るつもりはないから』


 恋人である茉莉花まつりかの口から放たれた堂々たる宣言に、つとむは胸も目頭も熱くなった。

 勉が見守る前で続く茉莉花と瑞穂みずほの舌戦は、恋人あるいは義理の兄妹と言う関係による補正を含めて鑑みても、茉莉花が有利だった。

 なるほど瑞穂は既にアイドルとして社会の荒波に揉まれている。

 いまだ学生の身分に縛られている勉や茉莉花には想像もつかないトラブルに巻き込まれたこともあるだろうし、その経験から生まれる言葉には侮ることのできない力があった。

 しかし――


――さすがは立華たちばなと言ったところか。


 別にわざわざ自慢することではないが、苦難と言う点においては茉莉花も負けていない。

 ゆえに彼女の言葉にもまた大きな説得力がある。

 付け加えるならば茉莉花は頭脳も明晰でありコミュニケーション能力も高い。

 硬軟をうまく組み合わせながら、的確に瑞穂を追いつめている。

『相対しているのが自分じゃなくてよかった』と、心の底から思い知らされた。


「そうは言いますけどね……あなたの部屋に住むって言われても、あなたの家ってどこにあるんですか? 私、忙しいので交通の便が悪いところはNG」


 これ以上の争いは無意味だと悟ったらしい瑞穂は、しかしまだ諦めるつもりはないようで、今度は攻める筋をずらしてきた。想像以上に頑なで小賢しい義妹だった。


「ここの隣よ」


「そうですか、隣……隣?」


 うんうん頷いていた瑞穂が一転、怪訝な眼差しを勉に向けてきた。

『俺は一応お前の義理の兄なんだが』と不満を口にしたくなるような視線だ。

 少なくとも家族に向けるそれではなく、あえて言うなら――


義兄にいさん、あなたたちはいったい何をやっているのですか?」


「何もしていない。だから、そんな犯罪者を見るみたいな目はやめてくれ」


 正確には『性』犯罪者に向ける目だった。

 あからさまなまでの軽蔑と、あらん限りの侮蔑。

 隠し切れない本能的な恐怖と嫌悪が入り混じった視線。

 クール路線で人気爆発中のアイドルだけあって破壊力が半端なかった。


――汐見しおみから勧められた漫画で見たことあるぞ、それ……


 身体を抱きしめながら後ずさるのも勘弁して欲しい。

 演技ならば迫真ものだが、勉が知る限り瑞穂は大根役者だ。

 以前に『女優方面に進むのは難しい』と零していたことを覚えている。

 つまり義妹が目の前で見せている素振りは完全に素ということ。かなり凹む。


「たまたまだ、たまたま」


 ずり落ちた眼鏡の位置を直しながらの言い訳は、かなり苦々しいものになった。


「たまたま」


「そうだ。たまたま同じ学校に通っていて、たまたま同じクラスで、たまたま同じマンションに暮らしている女子と、たまたま付き合うことになったんだ」


「へぇ、たまたま?」


 茉莉花の声がいつもより一段低く響いた。

 ついつい『たまたま』言いすぎて、余計な部分にまで付け足してしまったことに、今さら気づかされた。口が滑って逆鱗の傍を撫でてしまった模様。

 彼女から向けられる笑顔が凄みマシマシで、足元から立ち上ってきた冷気に身体を絡めとられるような幻覚を感知してしまった。

 今すぐ訂正しないと――死。

 唐突に訪れた非常事態を前に、生存本能に従って言葉を紡ぐ。


「違う。俺と立華が付き合い始めたのは、たまたまじゃない」


「そうそう」


 腕を組んで大きくうなずく茉莉花と、自分でも『これはどうだろうか?』と思わなくもない下手糞な演技(義妹を笑えない)を繰り出す勉。

 ふたりの間を冷ややかな瑞穂の視線が行ったり来たり。

 重苦しい沈黙と嫌な緊迫感が室内を満たしてゆく。


「……え、何ですか、今の?」


「だから、何もないと言っている」


「言わされてません、それ?」


 気遣わしげな瑞穂の視線と声が心底煩わしかった。

『お前さえ来なければ……』なんて苦悶のセリフが喉元まで出かかったが、我慢した。

 それを口にしたら、色々と台無しになってしまう。

 キリキリと胃が痛んだ。胃薬は常備してあったかと、救急箱の中身に思いを馳せてしまう。


「とにかく、立華がこう言ってくれてるんだ。お前は立華の家に行け……でいいんだよな?」


「最後にわざわざ確認するあたりが、良くも悪くも狩谷君って感じ」


 茉莉花もまた大げさに肩を竦めて見せる。

 不満を口にしているものの、その表情は悪くない。

 ……揺れる胸元を凝視していた瑞穂の表情の方が険しい。

 そのあたりに干渉することを自ら厳しく禁じた。これは絶対触ったらダメな奴。


――それにしても……瑞穂を立華の家に、なぁ……


 出会って二か月、付き合い始めて一か月。

 彼女の心境は手に取るようにわかるような、わからないような。

『立華 茉莉花』は、勉にとって、いつまでたってもミステリアスな少女だった。

 




 結局、瑞穂は茉莉花が預かってくれることになった。

 最後まで抵抗したのが問題の中心人物である瑞穂本人だったという現実に不安を覚えなくはないものの、正直なところ他に取れる手段が見当たらなかった。

 かしまし口論のさなかにふと思いついた、実家に連絡して引き取らせるというアイデアを口にした瞬間の瑞穂の顔ときたら筆舌に尽くしがたいもので……


『瑞穂……お前、その顔は絶対にファンの前で見せたらダメだぞ』


『お願い、これ以上夢を壊さないで』


 勉と茉莉花が左右から泣き落としをかけるレベルだった。

 当の瑞穂自身が、ふたりの豹変に困惑の色を隠せないほど。

 あんな顔を見せられたら、さすがに断念せざるを得なかった。


「すまん立華、迷惑をかける」


 茉莉花と瑞穂、ふたりの美少女が隣の部屋に引き上げるタイミングで、自身の彼女の背中に小さな声で謝罪の言葉を投げかけた。

 前を行く瑞穂とは少し距離がある。

 あの義妹には聞かせたくない密談だった。


「まぁ、仕方ないでしょ」


「返す返すもすまん。埋め合わせは必ずするから」


「あら、期待してもいい?」


「……善処はする」


「うん、楽しみにしてる。でも……」


 首をかしげて視線を逸らした茉莉花。

 瞳の先では――忌々しい義妹がドアに手をかけようとしている。

 茉莉花の頭の動きに合わせて、艶やかな黒髪が肩を流れ落ちた。


「狩谷君はこれからどうするの?」


「……一方の当事者の話だけを鵜呑みにするというのは、迂闊だと思わないか?」


「同感。あの子の言ってることって、なんか腑に落ちないってゆーか」


『狩谷君には悪いけど』と後に付け加えてくる。

 申し訳なさげな彼女に、力強く頷いて返す。

 

「いや、立華は何も悪くないぞ。俺もアイツのことは疑っている」


「義理のお兄さんとして、それはどうかと……」


 心なしかげんなりした茉莉花の眼差しが、実に心外だった。

 勉の感覚では、どう考えてもおかしい。

 絶対にあの義妹は何かを隠している。

 推測ではあったが断言できる。賭けてもいいほどに。


「俺たちの両親が再婚した時には、瑞穂は既にアイドルだった。再婚してからも、今までこんな話が出たことはなかったんだ。それなのにツアー直前でいきなりと言うのは……どうにも引っ掛かる」


 瑞穂の言葉に嘘はないのだろう。義理の兄として、そこに異論はない。

 ただ……彼女の言い分からは、何か大事な部分が意図的に抜き落とされているのではないか。

 話を聞いた時から、そんな疑問がずっと纏わりついている。


「瑞穂ちゃんとお義父とうさんって、仲はどうなの?」


 問われてしばし考える。

 顎に手を当て、視線を彷徨わせ。

 眼鏡の位置を直してから、目蓋を閉じて――


「わからん。情けない話だが気にしたことがなかった」


「気にしなかったってことは悪くはなかったってことじゃないの?」


「だと思うんだが……実際のところはどうなんだろうな」


 自分と義父ちち、自分と義妹。そして義妹と母。

 この組み合わせについて考えたことはあったが、義父と義妹の関係について疑いを抱いたことがなかった。

 ごく自然に親子だと認識していたということは、茉莉花の言葉どおり問題はなかったのではないかと推測できるのだが……楽観視するべきではないのかもしれない。


「その辺もしっかり話聞いておいた方がよさそうだね」


「……ああ」


「入学以来一度も実家に帰ってない狩谷君、お義父さんとちゃんと話せる?」


 茶化すような茉莉花の声にムッとさせられる。

 反面、コミュニケーション能力に自信がない勉としては、心配されて已む無しと言う思いもある。


「大丈夫だ、問題ない」


「ちなみに電話で話したことは?」


「……ない」


「ねぇ、本当に大丈夫? 私の目を見て答えて」


 冗談だと笑い飛ばそうとして、できなかった。

 すぐ傍に迫ってきた茉莉花の目がマジすぎる。


「大丈夫、だ」


「……」


 じ~っと見つめ合う。

 決して短くない時が流れた。


「何をしてるんですか、ふたりとも!」


 玄関から瑞穂の苛立たしげな声が聞こえてくる。

 ふたり揃ってハッと驚き目をぱちくりさせ、慌てて距離を開いた。


「うん、狩谷君なら大丈夫か。しっかりしてね、お義兄さん」


 優しい囁きとともに勉の肩を軽くたたいて、茉莉花は瑞穂とともに部屋を後にした。

 彼女の背中と黒髪を目に焼き付けてから、勉はひとりリビングに戻ってソファに腰を下ろす。

 がらんとした部屋に、ひとり。

 ふと、気になった。


「静かだな。それに広い」


 口をついて出た言葉に驚きを覚えることはなかった。

 寂しい。率直に思った。そんな自分が恥ずかしいとは思わなかった。

 しかして今の勉には感慨に耽る余裕はない。

 手にしたスマートフォンを睨みつけ、大きく深呼吸。

 ゆっくりとディスプレイに指を滑らせ、連絡先をタップ。

 耳にスマホを当ててコール音を追いかけることしばし――


『すまないね、勉君』


 電話越しに聞いた久々の義父の声は、謝罪から始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る